122話 先へと進めて
「もぅし!御失礼いたしますぅ!」
甲高い子供の声で俺は目覚めた。障子の戸の向こうの廊下で声をあげとる。
そしてそっと身を起こす。
隣で寝とったお香と、そして三法師様すらも目を覚ました。
お香は身を起こしたが三法師様は布団に横たわりぼーっとしとる。
「は、はい!」
時は何刻か分からんが障子の戸の向こうから陽が差しとるんで朝と言う事は分かる。
俺は閉められた障子の戸の向こう側の恐らく小坊主の少年であろう者にそう言った。
「若様のお食事!今よりお届けいたしまする!」
障子の戸も開けずに甲高い少年の声が聞こえてくる。
「あ、はい!承知致しました!」
俺がそう言うと障子の向こうの少年であろう者はタッタッタッと去って行った。
「若様?もうじきお食事だと言う事です。その前に厠参ってからお食事いただきましょうね?お顔もお洗いいたしましょう?」
お香が寝起きでぼーっとしとる三法師様にそう言うとる。
えらい優しい口調で……
「うん」
三法師様はお香を見詰めるとそう頷き、少し微笑んだ。えらい愛らしいのう……
俺も微笑み幼い三法師様を見詰めた。
「二郎?ご飯運ばれてきても先に食べちゃあ駄目だよ?」
そう言いお香が二歳の三法師様を抱き上げて立ち上がる。
さすがに……信長様の御孫様より先に飯なんて食える訳がない。
と言うか寝起きで俺も厠へ小便に行きたい。
「食べへんよ、それより俺も小便したいわ」
「ふふふ、なら付いておいで?だけどこの子が先だよ?」
「分かっとるよそんなもん」
「ふふふ」
お香は俺をチラリと見て微笑み三法師様を抱っこして部屋を出ていった。
俺もその後に続き、この広い部屋を出てお香の後に続き廊下を進んでいった……
厠に行った後に俺らは広間で朝食を取っていた。
二歳の三法師様はお香の膝に座り、お香に朝食を食べさせてもらっとる。
朝食は今日も白米にアユの塩焼きに大根であろう漬け物やったが汁物は尾張特有の濃い味噌汁やった。
さらにゴボウとシイタケと山菜と、そして白い豆腐もたくさん入っとった。
……えらい豪華やのう……さすが……織田家の後継者の朝食、俺が側におってほんまにええんかいな……
「お香……俺こんな場におってええんかな?俺なんか丹波の農家のもんやぞ……」
俺は膳の上の朝食を見詰めそう言った。
「何言ってんだ二郎、あんたもさ、武家の血筋なんでしょ?おらと……私と同じ平家の血筋なんだ。そんな事言いなさんな」
三法師様に朝食を食べさせながらお香がそう言う。
平家の血筋か、確かにそうやけど……
「ほら、アユだよ?美味しいよぉ?食べてね?はい、あーん」
お香がアユの身をほぐし、三法師様に優しくそう言い彼の口にアユの塩焼きの欠片を運んでいる。
三法師様はそれを口に運び、もぐもぐと咀嚼しとる。
ほんまに幼児の扱いに長けとるな……感心するわ……
「お前ほんま童の扱いうまいな」
「可愛いからだよ、それだけだ」
「ふっ!」
「心からそう思ってたら小さな子はなつくんだべさ」
「そうなんか、ふふ」
「はい、あーんして?お漬け物食べようね?」
お香が幼い三法師様にそう言い微笑んどる。
ずいぶんと甘ったれた空気を感じるが……
俺も少し幸福な空気を感じた。
「そやけど、ここに昔信長様が来られたそうやで?なんでも斎藤道三言うお方となんや話し合いしたらしいわ、この部屋でな」
俺は十畳以上はあるこの広間をぐるりと見渡してそう言った。
部屋には襖は無い。戸も窓もすべて白い障子やった。
「そうなんだ、昨日和尚様が言ってたね?」
「聞いてたんか」
「そりゃそうだべ、すぐ側でお話なさってたんだからさ」
まぁ、そりゃそうか……
「斎藤道三って誰?」
「美濃の……お殿様だべ、おらもそこまではよくは知らね」
そう言いお香が三法師様に白米を食べさせとる。
「だけんどね、この子可愛いね、おらも子欲しいよ」
お香が面倒を見る三法師様を見詰めそう呟いた。
「でもさ、おら……人を幾人も殺めたでしょ?やっぱりおら……子を産む資格なんてねえべ……」
「何言うとんねん、そんなお前に信長様の御孫がなつくか?」
「…………」
「しょうもない事言うな、お前も何十人と子を産む資格あるわ」
「……ふふふ」
お香が小さく微笑む。
「気にすんな……とは言わんが、その……表現おかしいかもしれへんけど、殺めてしまった命の分までもお前が産んだらええんや」
俺がそう言うとお香が三法師様から俺に視線を移した。
「その……俺とお前の子……として」
照れ臭くなり俺はお香から視線を逸らした。
「……ふふふふふふふ」
お香は笑っている。
「そうだね?だけんどさ、京に行ってお久さんと会わなくちゃ」
「あぁ……」
「そういう話は京に行ってからだよ?だけんどもさ」
「…………」
「ありがとうね?おめえさんさ…………本当に心優しいね?」
「べつに……」
俺は照れ臭くなり又視線を逸らした。
「はい、あーんしなっせ?三法師様」
お香は三法師様の口元に漬け物を運んでいった…………
太陽の位置を見ると刻はおおよそ巳四ツ(10時)頃やろうか。
ずっとお香に抱かれとった三法師様は今は又豪華な輿に乗せられてお姿を御確認する事は出来んかった。
今は三十人程の男達が正徳寺の門の外におった。
俺らはその最後尾辺りにおる。先頭の侍が今より美濃の岐阜へ向けて参ると大声で叫んでいた。
「岐阜……か」
地理的な知識が全く無い俺はよく分からず小さく溜め息を吐いた。
「ここからだとそんなに遠くないよ?」
隣にいるお香が正宗の鞘を握り締めてそう言った。
「全然分からんわ、土地勘が無さすぎてな、ふふふ」
俺も飯田の槍を握り締めそう言い笑った。
「美濃なんてすぐに着くべ、だけんど……」
「…………」
「もう……あの子に、三法師様に会えなくなるんだね……」
お香がうつ向いてそう呟く。
「……しゃあない、俺らよりずっと身分の高いお方やもん、もうそれはしゃあないわ、どうしようもあらへん、さすがに……」
「…………」
お香はうつ向いたままでおる。
確かにあどけなくて可愛い子やったが……相手はあの織田信長様の御孫様やからな……
もう御会いするのは無理やろう…………
「では!美濃の国!岐阜へと参るゆえに!各々がたぁ!引き続き織田三法師様の護衛を!お願い致しまするぞぉ!!」
先頭の侍がそう言うと周りの護衛の三十人程の男達が、おおお!!と声をあげていた。
俺とお香は何も言わずにおったが、
「とりあえず今は岐阜に行こう、ほんで次は坂本や。その後は京か、また秀吉様に御会いせんとあかんのはちょっと怖いけどな」
俺はうつ向くお香にそう言うた。
「ふふ」とお香が俺をチラリと見て笑う。
「とにかく進んで行かんとしゃあない、顔うつ向かせててもしゃあないんや。この先どうなるかなんて分からんけどな、偉そうな事言うようやけど……」
「…………」
「進んで行くんや、そうせんと何も始まらんで?お香」
俺は隣を歩くお香に微笑みかけてそう言った。
「…………ふふ、そうだね」
お香も笑みを浮かべそう呟いた。
天正十年六月二十九日(1582年7月18日)、俺達は織田三法師様を護衛しつつ美濃の国の岐阜城へ向けてこの正徳寺を発っていった。
空は快晴で大きな大きな鷹がずっとぐるりぐるりと円を描くように遥か上空を飛んでいた…………