105話 二郎と光丞
今、俺達は尾張国の萱津と言う地を歩いていた。
街道は十分とは整備されておらん言わば畦道程度のもので、道の左右には水の張られた田んぼが広がっていた。
辺りには家がポツンポツンと建っているが、どの家も立派で重厚な造りをしている。
代々この地を受け継いで田畑を守ってきた一族なんやろう。俺はそう思いながらお香を背負い道を歩き続けた。
なにせ亀山のうちの家もそうやったから。
俺のじいさんと親父が案外器用で金を貯えるのに長けとるから、俺の家は農家にしてはそこそこの財を持っている。
そこで育った俺やからこそ広がる田園の側に建つ立派な家を見ると共通するものを肌で感じ取れた。
あぁ、この家は代々この地にどっしりと居を構えて土台を造り器用に財を増やしてきたんやろうな、と。
そう言う感覚的なものを家を見るだけで何となく感じて取れた。
先の玄蔵は清須へ向かう畦道をかなりの速度でどんどんと歩いとる。
俺もお香を背負いながら両側に田んぼの広がるこの畦道を夢中になって歩いていった……
時は巳四ツ(10時)を過ぎた頃、六月二十六日(現在では7月15日)と言う事もあり日差しが強くなってきた。
「二郎?」
背負うお香が声を掛けてくる。
「何?」
「なんでさ、二郎と光丞って二つ名前あんの?侍でも無いのに」
「ふっ……」
俺は吹き出した。何を言うのかと思ったら……
「おかしいか?」
「どっちで呼んでも良いの?」
「光丞は実名や。普段は呼ばれん。二郎でええねん、仮名や仮名」
「なんで侍でも無いのに名前二つもあんの?」
俺はふふふと笑ってしまった。唐突に何を聞いとんねん。
「気になんの?」
「気になるよ、だけんどさ、おらの曾祖父も祖父も父も名前二つあったよ?おらには無いけどね」
「女にはさすかに無いわ。ほんで俺の場合はな」
「うん」
「ひい祖父さんがな、ひい祖父さんのひい祖父さんに葛原家の祖先は平家の武士やったって聞いたんやと」
「平家……」
「遥か昔に都落ちして亀山でひっそりと暮らし始めたんやと、その名残で武家みたいに名前を実名と仮名二つ付けとるんや」
「へぇ」
「二郎でええぞ、光丞なんて普段呼ばれへんから、こっぱずかしいわ」
「武士の家柄だったんだ、二郎」
「どうなんやろうな、詳しい事はよう分からん」
俺がそう言うとお香はふふっと笑った。
前を歩く玄蔵は相変わらず足早に先々へと進んでゆく。
「おらの家系も平家だよ?詳しい事は知んないけんどね」
「そうなん?」
「幼い頃そう聞いた。だけど意味がよく分かんないから詳しい事は知んない」
「そうか」
「親戚同士なの?おら達」
そう言いお香が笑う。
「さぁな、さすがにそれは無いやろう、ふふふ」
俺もそう言い笑った。
「分かんないよ?案外さぁ」
「ふふ、そやけどお前の一族はそんなに良い家柄なんか?」
「どうかね……常陸の国ではそこそこは」
常陸……よう知らんなぁ。
「だけどそれは祖父の代までで、父は武蔵の河越に移ったんだ」
「あぁ」
「そこで屋敷構えてそれなりの生活してたからまぁまぁでないの?」
「そうか、ほんならお前もそこそこの良い育ちなんか?」
「おら、父の屋敷では育ってねえんだ。母は百姓の娘だからさ」
「あ、そうなん……」
「だけんど面倒は見てくれたよ?父と一緒には住まなかったけどいつもご飯とか作物を屋敷の人がうちに運んできてくれてさ」
「そうなん、で、今は母親は?」
「……今は知らね……」
お香が小さくそう呟く。
急に元気が無くなった。何かあったみたいやな……
「……お香?お袋さんどないしたん?」
「…………」
お香は何も言わん。
「なんかあったんか?」
「父の館で人斬ってさ……」
「あぁ」
「勘当を言われてさ」
「…………」
「母に仏門入って二度と帰ってくんなって言われた……」
「うーん……」
「人を殺めちまったからね、よりによって父の屋敷の中でね」
前に話してたな、姉が酷い事されてたから思わず斬ったって。
「そやけどお袋さんとお姉さんもお前の事気にしとるやろ」
「姉は腹違いだからさ、どうなんだろうね」
「えらい複雑な家やのう」
「おらの母がさ、身分低かったし、父の妻にも結局なれなかったんだ。だけんど、父は母にもおらにも優しかったよ?おらに剣術の稽古ずっと付けてくれたしさ、母に対してもいつも気付かってくれてさ」
そう言うお香から温かな活力を感じた。
「姉も腹違いだったけんど優しかった……幼い頃からずっと一緒にいたからね……だけんどさ……あの男が……」
「…………」
背負うお香から急に怒気を感じた。
それも相当に強い怒気を……
前を歩く玄蔵がチラリと後ろを振り返った。玄蔵もその怒気を察したんやろうか。
怒気はやがて強い殺気へと変わり出した。
「あん野郎めぇ……」
強い殺気を放つお香が耳元でそう呟く。玄蔵もこちらを振り向きながら歩いとる。
「大丈夫か?落ち着けよ」
俺はお香を背負いながらそう言った。
玄蔵は再び前を向き歩き出す。
お香は何も言わん。姉はそんなに酷い事をされたんやろうか。
あんまり聞かん方がええんかな……
「クズみたいな男だったよ、仲間四人連れてさ、屋敷の隅の物置小屋に姉を連れ込んで、男連中が……姉をね……」
「あぁ……」
酷い事の意味を何となく理解した。
「全員斬ってやったよ、五人全てを斬り刻んでやったさ!」
「そうか……」
「滅茶苦茶にしてやったよ!ふふふふ」
お香はそう言い笑うが涙声やった。
「ふぅ……」
俺はただ息を吐くだけで何も声を掛けられんかった。
お香はその後何も言わなくなったが、しばらくすすり泣いとった……