知らないこと
「がぁぁぁぁぁぁ――!」
たった一つのランプが控えめに照らす狭い部屋。湿り気を帯びたいつのものか定かではない雨水が、長い年月を経て朽ちたレンガ造りの壁を伝う。
そんな部屋の中心に、魔法陣が描かれていた。
いいや、違う。どんな魔術書にも載っていないが、古いオカルト本には載っている物。
悪魔封じ。その中に一人の男が椅子に縛られ、封じられていた。
「いい加減話した方が利口だとは思わないか?」
言うなり、男の膝にナイフを突き立てる、若い男。
レッドビル王国王子、アイリンヒ・レッドビルだ。
彼は男を散々いたぶりながらも、実に穏やかな口調だった。聞きたいことがあるために、今死なれては困る。一応色々と気を遣ってみてはいたが、もう止めた。
「お前たち悪魔はどうやら私たちには殺せないようだな。殺し方は書いていないし、殺せるとも書いていない。それより私が腹立たしいのは、代々魔術を研究し、国そのものが魔術大国として名が知れているというのに、頼っているのはこんな陳腐な雑誌だぞ」
もう一度、膝にナイフを突き刺した。
別に瞬間的に治癒することはない。空いた穴は穴。切れた腕は腕、首を撥ねればとりあえず黙るが、すぐに煙を吐き出して逃げていく。
どうも、悪魔は実体を持っておらず、器に乗り移りながら移動するらしい。その際の移動手段は煙だ。黒色の。
そこまでするのに雑誌を読んで何匹かの悪魔を召喚して研究のため引き裂いた。
別にそこに関して何か思うことがあるわけではない。
アイリンヒが我慢できないのはただ一つ。国の宝物庫に保管されている古文書ではなく、わけのわからん行商人が持っていた小汚い雑誌程度の本を頼らなければいけない事実だ。
悪魔なんて、誰も信じてはいなかった。だが、いざ信じて召喚すると、現に存在した。
「だから話せ。お前たちのボスは誰だ。お前たちはいつからいた」
「そんなこと知るか!」
「そうか」
今度は肺だ。
だが、悪魔どもは呼吸の概念がない。試しに水に沈めたが生きていた。
だったら、と、キリスト教信者のアイリンヒは十字架を悪魔の額につけたが、効果はなかった。
ナイフを抜いて、悪魔の周りをゆっくりと回りながら、質問を続ける。
「正直、お前たちについて知らないことだらけで困っている。いつからいた」
「お前の母親と寝た時からさ」
なんとも、愚劣な。
斧を振りかざして足の指を五本一気に切り飛ばした。
悪魔は殺せない。悪魔の武器で殺そうとしたが、悪魔封じに入った途端に武器は使い物にならなくなる。
入っていない状態でも、物理攻撃しかできないアイリンヒの武器ではナイフと変わらん。瞬殺できるかどうかの違いだけだった。
「賢くないのは知っていたし、愚かなのも知っていた。まあ良い。一応悪魔についての研究は、あのクソ大臣の元を離れて固まった。あの勇者を気取ったシオンとか言う小僧も悪魔だろう?」
「…………」
沈黙した。
どうやら、シオンは悪魔のようだが、この雑魚とお友達ではないようだ。
そう、お友達なんておこがましいレベルではない、という意味で。
「どうした?」
「やれよ。殺せはしないが、他の方法を知っているんだろ? やれ。俺を地獄へ突き落せ」
「ほう。地獄は良いところなのか?」
「地獄だ。お前らにとっても、悪魔にとっても。だが、お前に何か話せば、こんなもんじゃ済まない。いいさ、やれよ!」
もうこれ以上話しても意味はないな。
アイリンヒは腰から聖書を取り出した。
キリスト教とそれ以外の全ての宗教である異教。この世界にはこの二つの宗教しか存在しない。
この聖書はもちろん、異教のものではない。
「あー、基本的に注釈多くて読み辛いな。ようするに、天に召しますわが父よ――」
「ああ、これ以上、私の前でそのような汚い言葉を仰られてはかないません」
どこから、入ってきた。
アイリンヒは間髪入れず振り返り、声に向かって刃を伸ばす。悪魔の武器だ。
しかし、突如として現れたそれは、悠々と刃を躱すと、悪魔封じが描かれていた床の手前に手をやって、ひびを入れた。
間違いなく、悪魔だろう。
「な……レーザム様……!」
「困りますね。勝手にこのような者に捕まるとは。私とて暇ではない。今日で二件目だ」
「し、しかし、呪文には逆らえません」
「なんのためにあなたを契約魔にしたというのですか。まだ契約件数もノルマに達していませんし。ですが、なにも喋らなかったようなのでこうして助けに来ましたよ」
言うと、レーザムと呼ばれたモノクルの紳士……悪魔は、椅子にくくられたままの悪魔の頭に手をやる。
「地獄へ落ちて、修行のやり直しです」
赤色の光が心臓の拍動のように何度も打ち、黒い煙が床に染み込んでいく。
床の下は、大方地獄だろう。
「さて……おや、まだ居たのですか?」
アイリンヒは甚だしく腹が立っていた。
無視はおろか、力の差という余裕を自覚した上で上から物を言われるのは我慢ならない。
「ふん。丁度いい。その雑魚じゃ話にならん。もっと上と話したかった」
「はあ……恐れを知らない人間はこれだから手に負えませんね」
「黙れ悪魔が。貴様らのような汚らわしい存在が実際にあったなんて虫唾が走っているところだ」
「お褒めに預かり光栄ですよ。それでは失礼いたします」
慇懃に礼をするレーザム。だが、ただで返すはずがなかった。
ローブの奥から悪魔の武器を展開し、アイリンヒはどうするか考える。
「……止めた方がいい。あなたの課外授業は知っています。悪魔は殺せないとわかっているでしょう」
「悪魔の武器は例外だろう」
「はあ……はっきり言いましょう。これはまだ、我が主も知らないことです。悪魔の武器をもってしても悪魔は殺せない。さあ、サービスはしてあげましたよ?」
絶望感に近いものがあったが、とりあえずアイリンヒは矛を下げた。
悪魔の武器で殺せないとすれば、いよいよ方法がなくなった。
「ああ。行け」
「ありがとうございます」
思わず目がくらむ黒色の稲妻が落ちたかと思えば、すでにレーザムは消えていた。
「……二度目、か」