事実
「お姉さん、お花」
綺麗で力強い少女だった。
薄汚れた服。灰焦げたローブ。穴の開いたスカート。栗色の髪は茶色に汚れ、頬には煤が乗る。
みすぼらしい。酷い恰好だった。
だからこそフィーネは、その少女が持つ瞳の輝きに価値を見出した。
自分とは違う、別の強さ、希望を持っていた。
少女が籠一杯に詰めていたのは赤い花。ここらは灰や煤だらけでとてもじゃないが綺麗な草花は見えないだろう。
だが、その赤い花はとても綺麗だった。残念ながら瑞々しさは欠けていたのだが。
恐らくだが、山をいくつか超えてようやく手に入れたのだろう。
「ありがとう。おいくら?」
少女の顔が、籠一杯の花のように華やいだ。値段はとても低い。その労働力の対価にするとかなり。
フィーネが小袋から小銭を取り出そうとすると、リエンが手で制した。
「お待ちください」
「リエン……」
「この少女に施しを与えると、そこかしこからハイエナが群がります。どうかご自制を」
リエンの言うことは尤もだ。しかし、だからと言って止まる気など微塵もない。
なんのために、軟禁用に誂えられた部屋から抜け出したと思っているのだ。
フィーネは言うことを聞かず、少女から花を買った。
「リエン。あなたは浅慮ですね」
「今回ばかりはお言葉を返します。姫様がおやりになられたことは――」
その時だった――
嬉しそうに駆けて行った少女を背後を……一人の薄汚れた男が襲った。
男の頬は痩せこけていて、薄汚い髪の毛がくすんだ目にかかっていた。汚れたフードから鈍い光を放つ短刀を、少女の背中に押し当てていた。
一瞬のことだった。少女は背中を刺され、地面に伏した。
男は枝のような手で小銭を掻き集め、笑みを浮かべながら急いで立ち去ろうとする。
「……あの男を殺しますか」
「だから、浅慮だと言いました。小鹿が獅子に噛みつかれただけのこと。あの方も、あの少女を殺さなければ生きていけないのです。これが、今の世の中です」
「姫様……」
「だからこそ、こんな世はさっさと捨てなければならないのです……! 例え、悪魔の手を借り、地獄に堕ちようと!」
この時のフィーネの顔を、リエンは後に思い出すことはしないだろう。
鬼よりも、悪魔よりも、怪物よりも恐ろしく、親を失った子よりも悲しみに満ちた顔を。
そして誓った。二度と、フィーネにこの顔はさせまいと。
フィーネはゆっくり少女に近寄り、体に手を当てた。僅かに息があり、体が小刻みに揺れているが、無理だ。肝心要の臓器をやられている。
「わ、たし……どう、なるの?」
「天国へ召されます。神のみもとに。楽園に向かうのです」
嘘ではない。フィーネは天国を信じていた。いいや、地獄の存在を知って以降、より気持ちを強くしたといったところだろうか。
神は居る。キリスト教派が主要な帝国の信徒は皆そう信じている。
「らく、えん? おかあ……さんは?」
「あなたに、お母上がいらっしゃるのですか?」
「う、ん。病気だから、果物、買って、あげるんだ」
フィーネは眉をひそめた。いいや、今にもくしゃっと悲しみに歪みそうな顔を必死でこらえた。
無理だと分かっている。だが、ここで無理だと言えば少女の悲しみが深まることはわかりきっていた。
「むり、かな。わたし……おかあ、さんをおいていっちゃうの?」
「いいえ。お母上をお待ちするだけです。いずれ、お母上も、私も、このリエンもそちらへ向かいます」
「みんな……くるの?」
「ええ。ですから、果物は私たちが責任をもってお母上にお届けしましょう。ですから――」
フィーネは言葉を切った。
これ以上、なにを言っても無駄だからだ。
少女は……安らかな表情でこの世を去っていた。
今一度、フィーネは少女の手を握った。まだ温かかった。小さな手だった。
弱々しく、フィーネでさえ、握ってしまえば折れそうなほどに。
「行きましょう」
「どちらへ」
「この子のお母上の元です。リエン。あなたは諜報が得意でしたね」
「既に」
「……早いですわね」
「私は元暗部の人間です。金を払えば何でも教えるのが、今のあなたの国民でもあります」
ちくりと胸に言葉が突き刺さるが、フィーネはこれ以上何かを言う気にはならなかった。
リエンの案内で、少女の住んでいた家へ向かった。遺体はリエンが抱いている。
少女の家は、フィーネが思った以上に酷かった。雨風が凌げているのかどうかもわかったものではないあばら家。
埃っぽく、いるだけで肺を侵されてしまいそうだった。だが、そんなもの、フィーネに関係あるわけがない。
「失礼いたします」
少女の母親らしき女性は、ベッドからゆっくりと起き上がった。
そして、フィーネを一瞥し、背後のリエンを一瞥……いいや、リエンの腕に眠る娘を見ていた。
「……うちの娘が、ご迷惑をかけたようですね。皇女殿下。無礼ながら、私は病の身、ここから起き上がることもできません」
「そのままで結構です。こうして勝手にお宅へ立ち入ってしまい、こちらこそ非礼をお詫びします」
「……姫殿下、娘を……埋葬したいのですが」
「宗教は」
「キリスト教です」
「……恐縮ながら、このリエンに埋葬をさせてください」
母親は頷くだけだった。
フィーネも頷くと、リエンは早速外へ歩いて行った。
「宗教など、意味はあるのですかね」
唐突に、母親はそう零した。
「神を信じることは、救いです。死後、その祈りが神に届き、神のみもとへ」
「神へ祈った対価が、娘を失うことなのですか?」
「…………」
「姫殿下。あなたの国の姿を見て、満足なさいましたか?」
「満足?」
「あなたは何もできない。なら、何もしないでください。あなたが何かすれば、酷いことが起きる」
何も、言えなかった。
まるで、なにもするな、その言葉を信じたかのように。
「では、私はこれで失礼いたします。姫殿下。もとより、私が生きている理由などなかった。娘を満足に食べさせることもできず、最後には娘も失った。……だから私たちは彼らを欲したのです」
なにを、その言葉はついに届かなかった。
彼女は……フィーネの目の前で、ガラスを喉に突き立て、絶命した。
一瞬の……出来事だった。
「姫様」
「何も言わないでください。これ以上、容赦する気はありません」