いきなり人間に怪物は狩れない
スフレに誘われるように、俺は暗い靄を突き進んだ。
腕を引くスフレは黙々と、そしてすいすいと進んでいるが、俺は不安でいっぱいだ。
地獄っていうのは上も下も右も左もわからない。いつ足場がなくなることか。
だから俺はスフレの腕を力いっぱい、いつの間にか握っていた。スフレもしっかり握り返してくれ、俺は幾分落ち着いて……そこに来ることが出来た。
「なんだ? ここ」
黒い靄が晴れただけで、やけにだだっ広い茶色い台地だ。ごつごつとした山肌が露わになって、草も木もない茶色い場所。
唯一ある孤独は静かに俺に寄り添い、音は静かの傍に寄りそう。無音。気味が悪いほどに。
「随分おどろおどろしい場所に来たものだな」
「ご主人様はまだ経験が足りないっす。だから、いきなり悪魔か魔物と戦ってもすぐ死ぬっす」
「悪魔はお前じゃないか」
「そうっす。端から地獄に居るか、悪魔堕ちしてくる生き物が悪魔。上でのモンスターが魔物。でも~、ご主人様ざっこいじゃないっすか。だから練習っす」
「癪に障るな、くそが。だが、ざこいのは認める。俺は人間だ」
「っすよ~。だから、練習っす。黙示録は力を徐々に開放するっす。今は世代交代、つまり王の引継ぎが行われたので黙示録はリセットされ、ご主人様は第一段階の力を使えるっす」
「なんだその、RPGみたいなのは。……で? 黙示録は最初俺に何をくれるんだ?」
「超加速っす」
スフレは適当な場所を見渡して、不意に動いたかと思うと、石を持った。掌に収まる程度の石だ。
そしてあの馬鹿はなにを思ったか、大きく振りかぶって俺に石を投げる。
しかも、あの細腕から出るとは思えない速さで。
こめかみに石がぶち当たり、激痛と共に視界が赤く染まる。どうやら血が目に入ったようだ。よろめいて、そのまま地面に尻餅をついた。
「この……なにをする!」
「あっは、加減難しいっす!」
「じゃあ力を押さえろよ馬鹿が、いきなり全力出してんじゃねえ!」
「速くないと練習にならないっすよ。ご主人様、超加速を使うっす。たぶん、圧縮時間は一秒ほどっすけど、使いこなせば十分を超えて十分っす」
さっきからスフレの言ってることが分からねえのは俺がまだこの世界に順応してないからか?
いきなり石を投げてくるわ、なにかの練習だとか言うわ、加速とか言うわ、無茶だ。
頭を押さえる。まだどくどくと波打つように血が迸っているのが分かった。
「ざけんな! あんなのプロ野球選手かボクサーくらいじゃないか!」
「ご主人様は地獄の王っすよ~。いつまでも人間でいなーいの。はい、練習練習」
もう一度石が放たれ、それを皮切りに次々と石を投げてくるスフレ。
人間カタパルトかよこの女!
何とか跳んで避けても、次の瞬間には首、腕、腹、足、と続々当たってしまう。速すぎる。
痛みには全く慣れない。それどころか、次々と体を打ち抜く石は次第に恐怖へと変わった。
「もう止めてくれ!」
「なんすか。泣き言っすか? 地獄の王になろうって人が、この程度の練習で?」
「嗤いたければ嗤えばいいだろうが」
「そうやってふてくされて、また止めるんすか。諦めるんすか。あんた一体なにがしたいんすか? 家に帰って妹さん助けるんだろうが!」
俺は肩をびくつかせて、地面を力いっぱい殴った。
言われたことはなにもかもその通りだと頷けてしまうし、なによりあの変態にここまで言われる自分に腹が立つ。
俺は……俺は確かになにがやりたいんだ! こんな地獄に堕ちたんだ、もうなりふり構ってる状態でもねえだろうが!
「来いやくそ女! 習得したらぶん殴ってやる!」
「私へのお礼、いや、ご褒美っすね! 右頬を殴らば左頬を差し出すっす!」
なんでこの悪魔は微妙にこっちの世界の宗教に詳しいんだ。地獄の王についてまわったからか? ああもういいや。殴ったら喜ぶ人種への制裁ってなんだよ。
考えを纏めようとした瞬間、左のこめかみに石がぶち当たった。
が、俺はなんとか踏ん張って、スフレを睨み付ける。
「わぁ、良い目~。思考のあと行動してどうするんすか。ほら、動いたと思ったら動いてるんすよ」
「手前なにを……おい、それ、なんだ?」
「へ?」
石を掌でポンポンと上げ下げしていたスフレが不意に……俺のすぐそばまで吹き飛ばされた。背中から弾かれたせいで、顔面から地面を削るように。
「おい、スフレ!」
「あ~、さいこ~」
顔面血だらけの馬鹿は取りあえず放っておくとして……あれは……なんだ?
スフレを弾き飛ばしたそれは、そこそこ大きかった。大体三メートルか四メートルくらいか? 前傾姿勢で紫色の体毛がある。丸い獣の耳が頭頂部から生え、目玉は一つの瞳の中に三つほどある。やけに毛むじゃらな腕からは鋭利な爪が三本突出している。
なんだこいつ……今まで見たことない動物……じゃない、動物であって堪るか。
「なんだ、あれは……」
「黙示録を見たら該当ページが開くっすよ」
「あ? 黙示録?」
黙示録を取り出すと、俺の掌から少し浮いて、勝手にパラパラとページを捲る。確かに、イラストが乗っているページがあった。名前は書いてないし、役立つ情報もないけど。
「なにこれ、このモンスター図鑑みたいなのを埋める作業なのか?」
「とりま倒さないと、死ぬっすよ。そいつは上のモンスターっす」
「……へえ、じゃあ、魔物か」
呟いた瞬間、目の前が紫に染まった――
体毛の一本一本を目視できるほどの距離まで腕が迫り、俺の腕を払った。
払った、そんな軽い形容で済まない。ぶん殴られた――
「がっは――」
わけのわからん一撃を受け、腕が、いや骨が絶叫を上げる。
衝撃に次いで山肌に腰を強く打ち付け、最後に遅れて痛みが全身を巡った。
もうこれは地獄のポピュラーなあるあるだが、どれだけ喰らっても意識を失わない。
そもそも気絶は、脳が痛みを伝える前に意識を消す防衛措置だ。地獄ではそれがない。
だから、現実というか上の世界というか、そこで感じた事のない痛みを感じるんだ。
「ごっは、おえ……おいおい……腕、腕!」
「なに叫んでんすか。腕が折れたくらいで。あんた内臓抜かれてたんすよ?」
そりゃそうだがかなり痛い。息が出来ない。息をしようとしたら痛みが走るから無意識の止めてしまう。でもしないといけないから、破裂音みたいに小刻みな呼吸がでていく。
気持ち悪い。奥から吐瀉物に交じって血が……出ていきそう。
おいおい……なんだよこいつはよ!