政権交代
「あーあ。酷いありさまっすね、よいしょ、よいしょ」
などと言いながら、ピンク髪は俺の内臓を元の位置と思われる場所に収めていく。人のものだと思って乱暴に扱っているが、そんなことどうでも良い。
不条理な中、俺は怒りを超えて冷静さを取り戻してた。長い間こんな苦痛を味わわされると人は慣れるというが、本当なようだ。
「地獄の王様、あとはよろしくっす」
「ああ。ほら、もう元通りだ。それに、こんな無粋なものは取っ払え」
地獄の王が指を鳴らすと、俺の体中についていた傷は痕を残すことなく消えていた。
目を見張ったその次にはすでに体は自由で、俺は久しぶりに肩を回した。関節がごきごきとなる感覚も、意識して動かす感覚も思いのまま。
休眠状態から目覚めた獣のように愚鈍ではなく、思いのままに動いた。
俺は……生きているのか?」
「死んでるよ。間違いなく君は死んでいる。そしてここは地獄だ」
「……あんた、何者だ?」
「地獄の王様っす!」
「私より先に、言うんじゃない」
くみしかれ、挙句頭を踏みつけられたピンク髪。一瞬の早業に目が追い付かなかった。いや、違うか。おっさんがなにか手を動かした瞬間に、ピンク髪は倒されたのだ。嬉しそうに。
「スフレが言った通り、私は地獄の王、ヨハネスだ」
「イエスは居ないのに洗礼者は居るのか」
「ふむ……君がさっきから言っているのは、君の世界の話だろう? 顔立ちからしてアジア系、使っている言葉は日本語。ストレスで髪の色が変わり……そうだ、君は日本人だ」
「地獄に堕ちた以上なにいわれてももう驚かねえ。だが、ここはどこの地獄だ!」
もう、冗談じゃない。
俺は随分と変な地獄に来てしまった。何十年もの間拷問を食らい続けたかと思えば今度はここは地獄と言う。挙句の果てに地獄の王を名乗るおっさんが意味わからないことを言い出した。
腕を振るって反抗の意思を前面に押し出した。
もう死んでるんだ、これ以上死んだってかまわない。地獄に堕ちたんだしな。
「エンジェバロット。そこがこの世界の名前だ。君たちの文化でいうところの……そうだ、異世界。君は今、異世界の地獄に居る」
頭がくらくらしそうだった。
異世界がなにかはだーいたいわかった。それだけでも大混乱だっていうのに今度はその異世界の地獄? わけがわからない。要らない要素詰め込むなよ。
なにか言いたくなったが、結局何も言えず、俺は台の上に腰かけたまま片目を抑えた。頭が痛い。
俺は確かに死んだ。だが、なんで死んだ?
「ふむ、篠上紫音。死亡原因、自殺。妹の重病と両親の失踪が重なり、学校を退学、働くも、到底一人で稼ぐことが出来ずに電車自殺。おっと、これはよくないな。君らの宗教でもそうだが、こっちの神が取り決めた理でも自殺は一発地獄行き」
地獄と一発の間で顎か舌を鳴らしながら、おっさんはつらつらと何かを読み始めた。茶色い革の、本かな。
そこまでぼーっと考えた後、突然、俺の胸を違和感が貫いた。
痛みはないが焦燥がいっぱいに広がり、やはり鈍速稼働していた脳のギアを変える。
なにかが、おかしい。
「ちょっと待て。馬鹿親父が俺がまだ小さいころ家を出て行って、残された母さんが俺たちを育て、心労で蒸発。妹も確かに重病だが俺は学校をやめてねぇ。奨学金をもらっているし、数少ない身寄りもいた。俺は、自殺してねえ」
そうだ。話が書き換えられている。あたかも俺がそうしたかのように、作り上げられている。
待て、もっと思い出せ。俺は一体……なにが起きたんだ?
「黙示録は絶対だ。これをだませるのは神くらいなものだ」
「黙示録? ヨハネが書いたこの世の始まりと終わりか」
「そっちの世界の話だ。こちらで黙示録は――」
「地獄の王の象徴っす! 本が認めた者に力を与え、この地獄に堕ちた者の詳細なデータと死因が克明に記されているっすぎゃふん!」
後頭部を踏みつけられ、ピンク髪は物理的に黙らされた。
「私の前に、喋るなと言った。……そういうことだ」
「どういうことだよ!」
「黙示録は名前さえわかれば情報が克明に記される。君は自殺だよ。ところで君の名前、ご両親は音楽が好きだったのかな?」
「……馬鹿親父はピアニストだった。母さんを置いていったあの畜生がな。それは良い、俺はともかく死んでねえ!」
「……そうか。では、一つだけ生き返る方法を教えてやろう。死と再生を司る方法を」
おっさんはそういうと、俺の手を掴んで、掌を開かせた。その上に、今しがた自分が読んでいた黙示録を置き、表紙を撫でる。
次の瞬間、黙示録に虫が這ったような金の文字が浮かび上がった。
文字と言っても模様かもしれない。わからない、読めないんだから。
いきなりのことに口を半開きにして視線を一転に向けていた俺の耳元で破裂音が響いた。
指パッチんだ。くそ親父が、びっくりするじゃないか。
「なんだ」
「お前のものだ」
「……?」
「地獄の王様!?」
「スフレ、おすわり」
「わん」
スフレを黙らせ、犬扱いされて喜びを覚える変態から視線を俺に移す。
地獄の王の瞳は随分険しかった。深刻を通り越した黒色が宿る。
でも、それなのになぜか、優しさを覚える表情だ。わずかに、ではあるが。
「それはもうお前のものだよ、少年」
「馬鹿な、これは地獄の王の象徴何だろう? 二冊もあったらダメじゃないか」
「黙示録は一冊だ。今日からお前が、君が、地獄の王だ」
俺は数秒固まった。意味が明確に理解できない状態を何といったかすらわからない。
大混乱の波が思考をかっさらって眼前に叩きつける。
「はあ!?」
ようやく出てきた声は何の意味も持っちゃいない音だ。
「物わかりの悪い子供だな。お前が地獄の王だと言ったんだ。おめでとう。ただ、いくつか制約があってな、いきなり全部の力は使えないからそこだけ注意して――」
「いやいやいやいやいや! 馬鹿なの!? なんでポットでのガキにこんな重い本を押しつけんだよ!」
「だってそれ重いもん。もう私は無理~」
「キモいんだよおっさん! こんなもん要らねえよ!」
「生き返りたいんだろ? ならそれを使え。ていうかもうあげちゃったし、ハイ残念」
「お前はルールかなにかなのか!」
「地獄の王ですが?」
こんなに話の通じないおっさんと話したのは生まれて初めてだ。
ここが何の世界の地獄かもわからないっていうのに……それを治める王になれ?
冗談じゃない。
「すべての真実には見えない側面がある」
不意に、真剣な瞳でおっさんは言った。すべての真実……
「シオン、それを見つけるんだ。そのためにその本と地獄の王の肩書は役立つ。だが重いぞ。その覚悟は、あるか?」
「ないって言ってんだろうが!」
「そうか。そう言ってくれると思っていた。スフレは残す。こいつは向こうとこの世界に精通している。適度に使ってくれ。じゃあな」
「待てこらないって……消えやがったなくそおやじ!」
地獄のどこかで、俺の声が木霊した。