異世界の地獄のようです
「俺が誰か、だって?」
闇よりも暗い何かが潜み犇めく昏い広場。
洞穴の中でもないのに上を見上げてもお日様はいじけてそっぽを向き、雲だけがにこやかにこちらを見ている暗い場所。
俺は、ただひとりやけに固い地面を踏みしめて君臨していた。
「地獄の王だと言っただろう? 聞いていなかったか?」
「ふざ、っけるな! 地獄の王は死んだはずだ、しかも、なんでお前みたいなガキが――」
「悪い、質問に答える気はない」
俺はその場から足を離し、次の瞬間には問いかけてくれたそれの背後に立った。
ひねり曲がった二本の角を生やし、やけに皮膜の薄いぎざついた羽。屈強な肉体に斧を持ったまあまあの化け物がそして仰臥した。
今際に問いたいことがあったのだろう。
もしかしたら遺言があったのかもしれない。でも、残念だが俺に聞く気はない。
今しがたまあまあの化け物――そういや名前を聞いていない――を切り倒した短刀を、ブイネックのシャツの裾で拭いた。紫色の一部が黒くなって汚れてしまう。動物の毛で編んだふわふわ素材なのに。
カチン――子気味の良い音を立てて、剣を腰の鞘に納めた。
「さーてさて……汝、我が前に真名を示せ」
俺は腰に銀の鎖で結わえて置いた一冊の本を取り出した。大きさは掌では余るほどで、茶色の表紙に金色で虫が這ったような装丁が施されている。一見高そう。
パラパラと適当にページを開くと、まあまあ化け物に類似したページがいくつか開かれる。
刹那、本が紫色の輝きを放ち、俺のシャツと黒銀の髪を揺らすほどの風が起き上がる。
風は徐々に威力を増し、空間いっぱいに広がっていく勢いで吹き荒れた。
色濃く見えるほどの風に乗り、光が化け物にうつった。そして――
「私の名は、ガーゴイラ」
すでに生気のない目で、ガーゴイラはそれでも流ちょうに名乗った。
「ガーゴイラか。俺の世界の本とはちょっと違うな。さすが異世界。化け物豊富」
にやりと笑うと、ガーゴイラのページが、新たに白紙のページに書き込まれていく。うん、やっぱ似た奴は居たけど、こいつは初めて会うらしい。
「ガーゴイラ。汝は今より我に忠誠を誓い、血の契約をかわす。意義はないか」
「ない……」
「王の前に誓え! 我が下僕となると!」
「誓う」
誓う、契約を交わした瞬間、ガーゴイラは紫色の光に身を変え、俺の本の中に吸い込まれていく。少しも衝撃はない。上がればその辺に居る雑魚モンスターだ。
やがてすべて吸い込み終わると、本は自動的に閉じ、俺の手の中に納まった。
腰に結わえ直し、俺はため息を吐いた。楽な仕事だな。
仕事終わりの余韻に浸っていると、近いところからぱちぱちと拍手が聞こえてきた。
音の方に目を向ける。
「おっつかれさまっす! いやぁ、さすが地獄の王、シオン様」
ピンク髪のツインテール。八重歯がチャームポイントで破顔一笑が愛らしい顔立ち。背丈は小さく、一応隠している胸も小さい。ついでに背後についている翼も小さい。ホットパンツみたいな黒いパンツの後ろからふりっふりっと揺れる先っぽがやけに鋭利な尻尾は今日もご機嫌そうだ。
「スフレか。手前、またどっかに隠れていやがったな」
俺はスフレに近づき、柔らかい頬を三本の指両手ずつで左右に引っ張る。
「ひょうなほほひふぁっふぇ、わふぁひはふぁふうふぁふはふぁんっふ」
「何言ってんのか知らねえが、俺の仕事中は手伝う物だろうが」
ようやく手を離す。スフレは嬉しそうに赤くなった頬を撫でていた。涙を流しながら喜んでいる。ったく、これだから嫌なんだよ。みんなマゾ。
「ようやく地獄の王様っぽくなってきやがりましたね、ご主人様」
「そうでないと困るよ。ったく……俺はさっさとここを平定して上に行く。そう、決めたんだ」
俺は手元の本を見つめた。この本を埋め、平定すれば、俺は名実ともに凱旋できる。
「顔つきがりりしいっす」
「ああ。俺は……地獄の王、シオンだからな」
遠くを見つめた。ここまで来るのに……まあ、長いようで短かったな。
「階層っすか? いいっすけど私を置いてあばら骨!」
スフレにツッコミと言う名の肘打ちを入れてやる。人が思い出に耽ろうっていうんだから邪魔をしないでもらいたいな。
硬い地面をのたうち回りながら、スフレは喜びに喘いでいる。変態め。
少し身じろぎをすると、本が啼いた。鎖と共に、微かに。
呪われた攻略日記帳。俺があのおっさんから押し付けられた……戦乱を記す物。彼はこの本のことをこう呼んでいた。
黙示録――
†
深い眠りについてしまいたかった。
意識はとうに肉体を離れ、肉体らしきものからも永久に乖離しようとしていた。
絶え間ない苦痛が体に降りかかり、痛みとはなにか。一体どの瞬間で、痛いと泣き叫べばいいのだろうか。もうそれは分からなくなった。
「しーおんちゃん。どうちたんでちゅか? おねむでちゅか?」
金髪の……まだ若いヤンキーみたいなのが俺に問いかけてくる。目の色からするに、ヨーロッパ系だろうか。もう、そんなことはどうでも良い。
ついさっき、俺から取り除いた肝臓をもてあそびながら、気持ちの悪い笑みを向けてくる。
俺は両手両足をベルトにつながれて動けない。もうずいぶんと長い間ここに……ここに居る。
ここがどこかは分からない。暗い。
雲なのか煙なのかよくわからない何かが辺りを覆い、平衡感覚が失せる。ふわふわとした意識とふわふわとした感覚が、すでにない肉体を走っていた。
銀色の台座に、茶色い革のベルトで手足を拘束されている。
ああ、そうだ……俺は死んだんだ。なんで、死んだ? そうだ、電車に轢かれて――
「あぐ――」
「なんだ、起きてたのか~、酷いなぁ、俺を無視してさ~」
小さなナイフを俺の眼球に突き刺してぐりぐりと回す男。俺は形容しがたい苦痛の前にただ喘ぐしかなかった。それが逆に、男を喜ばせると知っておきながら。
電車に轢かれたかと思ったらここへきて、気付いたら繋がれて、今は目玉をほじくられている。体を必死で揺らそうと、もがこうと、固い拘束が解かれることはなかった。
罰という名の責め苦を受け続け、俺はどうしようもない恐怖と絶望に意識を捨てた。
決して失神することも、死ぬことすら許されない無限の苦しみ。
俺はなんでこんな目に遭っている? こんな不条理な目に。
「俺が一体……なにをしたんだ?」
何度目かは分からない問いを受け、男は嬉しそうにナイフを抜き取り、俺の目の前で振るった。半分消えた視界に赤い雫が映りこんだ。
「なに? 知るかよ、実際に聞くまでそいつがどういう罪を犯したかわかるわけない。そんなことわかるのは、地獄の王だけだ」
「地獄の……王……ここは、地獄か。俺は……地獄に落とされたのか?」
「まあ、天国には見えないだろうな。俺たちにしてみれば天国も同然だが」
男はもう一度俺の腹からなにかを取り出してへらへらと嗤った。形を見ただけで判断できる臓物なんてたかが知れている。もう知らん。あと俺が分かるのは胃くらいだ。
酷い、酷い虚無感だ。俺を俯瞰して見ているような、酷く乖離している。現実じゃない。
「おいおい寝るなよ~、また四〇年くらい楽しもうぜ~、シオンきゅん」
「ウザい。俺の目の前から消えろ」
「はっは、まだそんな口が聞けたのかお前、楽しいなぁ、どうする? 次は……これかな」
とんでもなく水っぽい音を上げて、ソーセージ……いや、違うな。俺の腸を取り出して嬉しそうに見せた。まるで、初めての工作を褒めてと親に強請る子供のように。
ふざけやがって。例えこいつがちょうちょ結びをしようと俺は何も言わない。
ああ、随分臭うな。それは腹の中にあるべきだろう。
「死ね、地獄に堕ちろ……クズが」
「ここがそうだっつってんの」
「なあ、だったらお前は悪魔かなにかか?」
「あん? そうだが?」
「じゃあ、十字架でも切ったら死ぬのかよ」
「教会の聖なる力か。下らん、神のご加護がこんなところまで届くんだからな」
「ナザレのイエスと彼を神にした教皇に感謝だな」
「イエス? 誰だ、それは」
男は首をかしげる。いつものように馬鹿にした哄笑じゃない。単純な問いだ。
おいおい、ふざけるな。悪魔っていうのはキリスト教を知らないのか? 悪魔なのに。
「神だよ。キリスト教のな。お前たちを殺せる存在だ」
「神? おいおいバカかよ、神は神だ。キリスト卿なんて貴族じゃない」
俺は目を見張った。まさか、宗教も知らない? そんな馬鹿なはずはない。
日本は宗教のちゃんぽん国家だが、それでもキリスト教やナザレのイエスくらいは知っている。めちゃくちゃなクリスマスの概念を持っていても、だ。
ましてこいつはどう見てもヨーロッパ系の顔立ち。悪魔は元は人間と聞く。なら知っていておかしくない。
「お前……何者だ?」
「それはこっちのセリフだ。今日はよく喋るな、ええ、おい、シオンきゅん」
また気味の悪い笑みを浮かべて、男は俺の耳を切り裂いた。千切れはせずとも、耳の穴に温かい液体が入っていくのが感覚できる。
だがそんなことは関係ない。何かがおかしい。俺は本当に地獄に居るのか?
「はっはっは、その顔良いねぇ、ようやく面白くなってきた」
「はっはっは、っすね、良い顔っすね」
「はっはははは、だろう?」
「ガンウケっすよ、あはははは」
なにかを勘違いして悦に浸る男の声に呼応するように、随分高い声……女の声が混ざる。
今まで聞いたことない声に、俺は久々に顔を上げた。ぽっかり開いた自分の腹と、男、そして……ピンク髪の少女が見えた。
少女は俺を見ると、にっこりと笑った。
「もう止めるっすよ」
「あん? お前、スフレじゃないか。俺のお楽しみを邪魔するなよ、サキュバス風情が」
「あー、ひどいっすねぇ、興奮しちゃうっす」
唇に人差し指を添えて、頬を赤く染めるスフレ。興奮する要素はどこにある。
「まあ、ぶっちゃけどうでもいいっす。はーやーく、その腕止めるっすよ」
「るせ、邪魔すんなって言ってんだろうが!」
「ふむ、お前は、女の子の言うことが理解できないほどぼんくらなのか?」
あれよあれよといううちに、また一人姿を現した。
長身の男。高そうなスーツにコートを羽織った、オールバックの男性だ。人当たりのよさそうな顔だが、細面のせいか、少し顔を険しくすると厳かさが倍増する。つまり、怖い。
長身の男の登場に、さっきまで俺を痛めつけていた男は動きを止めた。
「まさか……そんな……なぜあなたがここに……!」
「なぜもなにもない。私がここに来たいから来た。それよりお前は、私の可愛い下僕のお願いを聞き入れなかった。地獄の王である私の願いを」
「いや、それは、違うんです。へへ、こいつが何言ってるかわかんなくて――」
「うっわ、責任転嫁っすか、大人げないっすね~」
「黙れサキュバスが!」
「黙るのは、お前の方だ」
ぱちん、と指を鳴らすと……俺を散々痛めつけていた男はいとも簡単に爆ぜた。
随分と一瞬で、儚くて……そして汚らわしい。汚い血と肉の塊がその辺に散った。
「汚い花火だ。……少年、大丈夫か?」
そいつは俺を見てそう言った。
わけがわからない。何者かもわからない。ここがどこかすらわからない。
わからないことだらけで、不条理しかないこの世界で俺は、たった一つのことを聞くことにした。
「あんたはなんだ」
「私か? 名乗っていなかったな。ヨハネス。地獄の王だ」