77 魔王、侵攻
カヤラ領東の都市では、西に避難する人々の姿があった。
彼らの顔はすっかりくたびれていたが、進む足には力がこもっている。
多くは一つ東の都市から逃げてきたばかりの者たちだ。それゆえに、今日はほんの少し休んだだけで、歩きっぱなしということになる。
しかし、東で水棲の魔物による攻撃を受けた記憶から少しでも離れられるように、彼らは西へと向かっていく。原動力としては好ましいものでなかったが、それでも彼らの命を生きながらえさせる活力であったのは間違いない。
そのような状況を、フォンシエは市壁の上から眺めていた。
すべての市民がそんな早くに移動できるわけではない。そしてなにより、最後まで都市に残ろうとする者もいた。もちろん、財産を持っていけるだけ持っていくように、慌てて準備している者たちも。
だから都市のほうに目を向ければ、ようやく門を出てきた人の姿も、まだ家の中にいる姿も見られる。
(いつまで待てば、避難は終わるだろうか)
きっと魔物が攻めてくるそのときまで、いや、都市が魔物に占拠されるときまで終わりはしないのだろう。
それはすべての民を守ろうとするのであれば、敵を退けなければならないということでもある。
フォンシエは腰に佩いた剣をすらりと抜いてみる。黄金色の刃は、彼が魔王を倒した証だ。
しかし今、ともに戦ってくれるフィーリティアの姿はない。
(……魔王セーランか。勝てるのだろうか)
彼がカヤラ領に飛び込んできたのは、魔王を打ち倒す覚悟を決めてのことだ。もう、どんな相手にだって挑んでいく意志がある。
だが、それと勝算があるかどうかは別の話だ。見込みがあるならば果敢に剣を振るうであろうが、犬死にはごめんだった。
そのためには相手の強さを知りたいところである。
そんなことを考えていたフォンシエだったが、はるか遠くで動くものがあると、目を凝らした。
東の都市は水棲の魔物に占有されてから水浸しになっており、ときおり滝が逆流するように水が昇っているところが見られたりもするが、今はそれよりもさらに東に異変があったのだ。
そちらは魔王セーランの領域だ。
すでに日が暮れつつある暗い森の中から小さな水球が飛び出した。一つ、二つ……そしてそれは小さな水たまりを作り上げる。
そこに水棲の魔物が現れると、どうやら「初等魔術:土」を使える魔物がいるらしく、細長い溝を生み出し始めた。
すると、森のほうからどっと水が流れ込んでくる。
(あれはまさか……)
魔王セーランの領域から流れ込んできた水は、東の都市の門まで達した。都市内部は完全に水没しているため、門を開けば逆に外に流れ出ることになる。
敵がそうした意味は明らかだ。
「魔王セーランが攻めてこようとしている」
フォンシエは立ち上がり、今にも飛び出していかんほどの気迫を見せる。だが、相手の出方がわからず、まだ魔力も戻ってきてはいない。
どうするのが最善の策かと考えていると、彼のところに兵がやってきた。
「フォンシエ様。明日、斥候部隊が到着し、東の調査が行われる予定になっております。このような状況になってしまいましたが、なおさらのこと、行わねばなりません。つきましては、ご協力願えないかと――」
緊張気味に述べる男の姿を見ていたフォンシエは、随分と偉くなったものだと思うのだ。
(……勇者とは言っていないけれど、そう勘違いするような発言をしたんだっけ)
けれど実際のところはそれだけではない。フォンシエが東の都市を襲った魔物を打ち倒し、さらに東では障害となっていた魔獣を排除した。
その成果が認められたからこそ、勇者モドキではなく、義勇兵としてのフォンシエが知られ始めていたのだ。
「俺ができることなら、協力しよう。魔物を倒せるんだ、願ったり叶ったりだよ。それで、来る人物というのは?」
「勇者はおりませんが、暗殺者、密偵、盗賊など、隠密行動のスキルを持つ者たちで主に構成されております」
「なるほど、つまり戦いはする気がないということか。ならば俺の鎧も目立っちゃうな。外套なんかをつけていったほうがよさそうだ」
フォンシエはそんなことを言っていたが、急に視線を東に向けると、光の矢を放った。それは勢いよく飛んでいくと、こちらに向かってきていた水球を撃ち抜く。中には魔物がいたのだ。
あれは先走っただけであろうが、いつ大軍で迫るかはわからない。
市民たちもその気配を感じ取ったのか、慌てて逃げ出す者が増えていた。
そんな中、フォンシエは市壁の上で待っていようかと思ったのだが、
「ご到着まで、どうかご休憩なさいますよう、お願い申し上げます。魔物は我々が対処します」
「そういうことなら、任せるよ。準備もしないと」
兵が声をかけてくると、素直にそうさせてもらうことにした。
彼は人波と反対に進んでいき、やがて礼拝堂の中に入る。
そうして祈りを捧げると、ヘルハウンドを倒して得た経験値でレベルが上がっている。
レベル 11.58 250
(さて、斥候に赴くとのことだったな。俺も盗賊のスキルを取っておくか)
女神の職業とはいえ、「盗賊」になれば窃盗の技術が上がるため、好き好んで取る者もあまりいなかった。
まずは前提となる「窃盗術」を50ポイントで取る。人様の財布などをこっそり取ったりするなど、魔物との戦いではなんら役に立たない。それから、短剣などの適性を高める「暗器術」と比較的近くの存在に気がつきやすくなる「気配感知」をそれぞれ50ポイントで取る。
そしてようやく、目的である「隠密行動」を100ポイントで取る。
フォンシエだからこそあっさりと取ることができたが、ほかの者ではこうはいかない。気軽に他職業のスキルを取れるわけでもないため、前提となるスキルが多いスキルまで手を出す者はいないだろう。
さほど違いがあるようには感じられないが、それはおそらく、すでにフォンシエがほかの職業のスキルを取りすぎているため、下位の職業の効果が微々たるものになっているからだろう。
だが、そうした積み重ねで今の彼がある。
フォンシエはそうして礼拝堂を出ると、鎧を覆う外套などを準備し、ひとまず仮眠を取ることにした。
◇
勇者ユーリウスとフリートに率いられ、勇者一行は北に向かっていた。
彼らの支援をすべく兵たちも動いているが、こちらは索敵や拠点の設営などが役割であり、魔王討伐にかかわることはほとんどない予定だ。
そんな彼らは夜の道を駆けていく。
先頭の勇者二人は、ぎりぎり後続がついてこられる速さを保っていたが、後ろの者たちにとっては常に全速力で走らされているようなものだから、たまったものではない。
フィーリティアは目を凝らしながら、遠くの都市を眺めていた。すっかり昆虫の魔物に占拠されてしまった都市を。
(これから取り戻すんだ)
奪われてしまったものを取り戻す。そうすればきっと、フォンシエが笑ってくれるはず。彼女はその一心で足に力を込めた。
そうしていると、やがて先頭の二人がゆっくりと速度を落としていく。まだ、都市には距離があるというのに。
どういうことだろうか、とフィーリティアが悩んでいると、先頭のユーリウスが尋ねた。
「あれが魔王のいる都市か?」
「いえ、現在は北方にいると予想されております」
おそるおそる、勇者の一人が答える。すると、ユーリウスは少し悩む仕草をする。
「ふむ……ならばお前たちで片づけるといい。俺たちは北に向かう」
と、こちらをほったらかしにして、二人は走っていってしまう。
フィーリティアはどうしたものかと思ったが、勇者たちは、いや、そこにいた誰もがその言葉に喜んで、都市の中へと流れ込んでいった。
都市を救いたいわけでもなければ、そこに僅かに残った人々を助けたいわけでもない。あの二人から離れるためである。
けれど、フィーリティアはあの二人についていくことにした。これほどたくさんの人がいるのであれば、フィーリティアが貢献できることは多くない。
そんな彼女を一瞥したフリートは、
「おい、ふぃー……フィーシエ」
「……フィーリティアです」
「どっちでもいい。あの魔王のいそうな場所はわかるか?」
「魔物が集まっている都市でしたら、だいたいは」
彼女はずっと北に向かって救助に当たっていたから、推測くらいはできる。
フリートはそれを聞き口の端を上げた。
「よし、案内しろ」
彼らは本気で、二人で魔王を倒すつもりなのだ。
フィーリティアは戸惑いつつも、一番魔物が多そうな都市へと向かっていく。すると道中でも魔物が現れるようになってきた。
そこにはメタルビートルの姿もある。
だが、ユーリウスとフリートは競い合うかのようにそちらに飛び込むと、光の剣を用いて一太刀で頭を落としていた。
いや、よく見れば数度剣を振るったことがわかる。だが、フィーリティアはあれほど速い剣を見たのは初めてだった。
魔王を二人で倒そうとしているというのも、理解できないことではなかった。
そうして魔物を倒し続け、ようやく最北の都市に辿り着いた。
そこは市壁がすっかり破壊された場所だ。そしてフィーリティアがキングビートルを初めて目撃したところでもある。
魔王メザリオは東に向かっていたと言われていたが、魔王セーランの出現で西に戻ったと推測されていたのだ。人が活動している西寄りの場所に対する拠点としては、この辺りのほうが都合はいいだろうと。
ここまでやってきたはいいが、どうするというのか。
「よし、生き残りもいないだろう。あの都市を吹き飛ばすぞ」
ユーリウスの言葉の意味がわからずに、フィーリティアは困惑していた。
けれど、彼女に配慮することもなく、ユーリウスは次の行動に移っていた。
彼は次の瞬間、都市に向けて片手をかざしていた。そして都市全体で魔力が高まっていく。
その規模から察するに、「高等魔術:炎」を使うつもりだろう。
しかし、この魔力では都市を吹き飛ばすには不十分なはず。
そう思ったフィーリティアは、激しい爆発音とともに、まばゆい光を見た。赤々と燃える炎と吹き飛ばされた都市の破片。それらを呑み込むまばゆい光は勇者のものだ。
思わず目をつぶりそうになりながらも、フィーリティアは見逃すまいと状況を確認し続けた。
(……あれが、勇者の最後のスキル?)
一番最後の勇者のスキル「光の証」は取った者がほとんどいないため、よく知られてはいなかった。ただ、あまり使い物にならないという情報が出回っていたのだが……。
「残念だ。どうやらハズレらしいぜ」
フリートが見据える先、都市から飛んでくるのはメタルビートルだけだ。
いかに勇者といえども、強靱な肉体を持つ魔物を、通常のスキルで仕留めきることはできなかったのだろう。
とはいえ威力は魔力以上のものだ。なにか勇者の光が関与しているのは間違いないが、それはいったい。
困惑するフィーリティアだったが、フリートが小さな炎を大量に浮かべると、そこでスキルの特徴を把握した。
おそらく「初等魔術:炎」なのだが、炎には勇者の光が交じっていたのだ。そしてそれが放たれメタルビートルに命中すると、注がれた魔力以上の威力を発揮している。つまり、スキルの効果を底上げするものなのだろう。
使えないという理由がそこで理解できる。
勇者のスキルに勇者の光を足したところでなんの意味もないからだ。そして通常のスキルを主力にする勇者もいない。
そんなことを考えていたフィーリティアだったが、近づくメタルビートルを見るなり、光の矢を使って撃ち抜いていく。
「へえ、やるじゃねえか。あと十年もすりゃ、いい感じに殺せそうだ」
「……あ、ありがとうございます?」
嬉しげなフリートに対し、フィーリティアは困ってしまう。
これならまだ、獣人として蔑むように見られていたほうがマシだったかもしれない。
必死にメタルビートルを打ち倒していたフィーリティアだったが、それらが片づくと、二人は愉快そうに次の都市に案内するように告げるのだ。
(確かに、魔物は次々と倒していけるけれど……)
その状況はフィーリティアが望んだものである。しかし、崩れた都市やこの二人を見ていると、複雑な気分だった。




