105 北の都市と魔物の影
その男の身なりは、いかにもみすぼらしく見えた。
衣類は薄汚れており、その上の使い込まれた鎧には数多の傷。目の下には濃い隈ができているが、眼光だけはギラギラと鋭い。
剣を手にした男はフォンシエとフィーリティアを見て、一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに様子を探るべく視線を動かす。
フォンシエは警戒を強めつつ、相手の出方を窺う。
(……視線を読まれないようにして、こっちの様子を見ていることから、いきなり切りかかることもないだろう)
なにより、状況は一対二なのだ。
逃げることはあれど、攻めてくる可能性は低い。
それになにより、あの男は空き巣なんかではないだろう。剣を握っている姿だけでも、その汚らしい身なりに見合わない風格が感じられる。
「……敵意はありません。剣を下ろしていただくことはできませんか?」
フィーリティアが告げると、男は少しばかり警戒を緩め、手にした剣を下げた。
「我々は都市の警備をしている。すでに市民の避難は済んだはずだが、どこから来た?」
「私たちは南から応援のために来ました」
その瞬間、男の眉がわずかに動いたのをフォンシエは見逃さなかった。
(増援を断っていたことといい、なにかがあるのか?)
だとすれば、ここで問答を間違えるわけにはいかない。
「応援は不要だと伝えていたはずだが……」
「国難と伺ってゼイル王国から参りました。それゆえに状況には疎く、どうか現状をお聞かせ願えませんか」
フォンシエが咄嗟に告げると、男の表情が変わった。
そして奇妙なことに、視線をぐるりと動かす。フォンシエは探知のスキルを働かせるが、これといった存在は見当たらない。
「……それで満足するなら、いいだろう。ラスティン将軍のところに案内する」
ようやく男が剣を収めると、フォンシエは少し安堵する。門前払いという扱いにはならなかったと。
しかし、どうにも男がそわそわしているように感じられて、フォンシエは探知のスキルを働かせたままだった。
と、そこに引っかかる存在がある。
(魔物か。しかし……)
見上げれば遠方に小悪魔インプの姿がある。そうとなれば、子供だって気がつくだろう。
男は気づいた素振りを見せつつも、そちらを攻撃することはなかった。
それゆえにフォンシエがそちらに視線を向けて、投石の準備をすると、その男が告げる。
「倒さなくていい。あれは敵の尖兵だが、連絡を取ってるため、それが途絶えると面倒なことになる」
フォンシエは男の顔を見て、それから石を地面に置き直した。
(やはり。敵を攻めようという気配がないな)
まずはラスティン将軍に会ってから考えるべきだろう。
フォンシエは上空に視線を向けると、そこにはすでにインプの姿はなくなっていた。
◇
到着した城は、これまで見てきたレーン王国のどれよりも立派だった。
魔物の爪痕もなく、とても放棄された都市の城とは思えない。
ここにくるまでの間に、幾人かの勇者たちの姿が見えていた。少人数で都市内部の監視を続けているのだろう。
それゆえに情報もすでに出ていたのだろう。
城の前には、堂々たる姿を見せるラスティン将軍の姿があった。
筋骨隆々、その肉体には数多の傷が残っており、初老に差し掛かっている年齢だというのにまったく衰えを見せていないどころか、今も魔物を叩き切らんという気迫に満ち満ちていた。
一目見ただけで、ほかの者とは一線を画する。
フォンシエは思わず息を呑んだ。実力は自分よりも上かもしれないと。
「……援軍、と言ったか。しかし、ここは我々だけで十分だ。このとおり、魔物の侵略を許してもいない」
「それは、魔物を切れない、ということですか」
フォンシエが告げると、相手の表情が険しくなる。
常人であれば、それだけで卒倒してしまいそうな迫力があった。しかしフォンシエもまた、堂々と相対している。
「なにが言いたい」
「あなたの実力ならば、魔物に負けるはずがない、ということです」
たった一人でも、魔王に立ち向かうことだってできるだろう。
しかし、それが動けないとなれば、もはや理由なんて明白だ。
「過分な評価だ」
「そうでしょうか。ここに来るまでインプの監視がありました。それが連絡を取っていると言う。そして援軍は不要とのこと。この都市を守れるのであれば、魔物に屈しない実力は間違いない。付近に集められた兵には、作戦もなにも知らされてはいなかった」
「……どうせよと言うのだ」
将軍の前身から溢れる憤怒は隠せていなかった。
「魔物を倒しに行く。俺たちがすべきことは、ただ一つのはずだ!」
フォンシエが告げると、勇者たちが彼を取り囲んだ。
フィーリティアがフォンシエに視線を向けてくるが、それは決して弱々しいものではない。いつだって、彼と一緒に戦う覚悟があった。
フォンシエは勇者デュシスの姿を思い出しながら、剣の柄に手をかける。
「魔物を庇うとは、それでも勇者か」
「……なんとでも言うがいい。我々には引けない理由がある」
「魔物と取引をしている人間がいるからか」
「そこまで知っていたのか」
「北からやってきたならず者を切ってきたばかりでね」
そこまで告げると、ラスティン将軍がなかば脅すように口を開いた。
「魔物には貴族の子女が囚われている。お前が言うように、ならず者が手引きしているせいだ。期日まで我々が手を出さずにいれば、解放される約束になっている」
「……その約束を守るつもりがあったなら、今頃こんな状況にはなっていないはずだ」
「そうだとも。だが、もはやここには、次なる捕虜となるべき人間はいない」
貴族の子女が囚われていて、近づけば殺される。そして解放されるときには、別の子女が捕らえられるという悪循環に陥っていたのだろう。
生きているかどうかもわからないが、約束を守るために、彼らは孤独に残ったのだ。
これならば、誰も攫われることなどない。そして都市にもいるのだから、ひたすら守り抜けばいいだけ。
それをたったの十数人で成し遂げようとしているのだ。それはある意味、懺悔でもあったのかもしれない。あるいは、誰かがこの呪縛から解き放ってくれることを願っていたのか。終わりにしたかったのかもしれない。
難攻不落の都市は、攻められないだけだった。
けれど、そのループを断ち切ろうとする思いが叶うこともないだろう。
「もし、あなた方が攻め込むというのなら、虜囚の者たちは用済みになる。わざわざ生かして返す理由もない」
「だとしても! 我々には、もはや引く術がない。これまで続けてきた所行の責任がある!」
ラスティン将軍が怒りを露わにする。
けれどフォンシエは内なる思いを込めて、努めて冷静に痛罵した。
「お前たちのくだらない自責の念に、死に場を求めての行いに、民を巻き込むな」
「貴様、愚弄するか!」
「なにが二十年、難攻不落の都市だ。攻め込む勇気が出ない者たちが引きこもっていただけじゃないか。おおかた、お偉い方の圧力にでも屈したんだろう」
「民を護るのが我らの勤め。貴様らになにがわかる!」
「お前たちのほうがわかっているだろうさ。どれほどの思いで戦ってきたのかも。けど……誰もやらないというのなら、俺が代わりにやってみせる」
「できるものか。子女の位置は北という情報だけ。行き着く前に魔物に取り囲まれるだけだ」
「それでも俺はやってみせる。なに、心配いらないさ。ゼイル王国の愚かな村人が、勝手に飛び込んでいって死んだところで、お前たちにはなんの影響もないだろう」
フォンシエはそう言うが、魔物がそのような区別をするかどうかも怪しい。
ラスティン将軍はしばしフォンシエを見つめていた。
「俺は魔物を打ち倒し、平穏を取り戻す!」
彼の言葉に、ラスティン将軍、いや、その場にいる者たちすべてが気圧された。
圧倒的な存在感は、ここにいる誰もが感じたことはないものだったから。
それはさながら王の風格。誰もが屈し従わずにはいられない威風。
到底、このような若い少年が放っていいものではなかった。
実際のところは、フォンシエが君主のスキルを光の証で大幅に強化していたというだけのこと。けれど、そんなことを知る者などいやしない。
いち早く正気を取り戻したラスティン将軍は、剣を抜き、フォンシエ目がけて飛びかかってくる。
「貴様はここで捕らえる!」
鋭い一撃が放たれるも、フォンシエは半身を引いて回避し、すぐさま切り返す。
ごくあっさりと受け止められると、彼はすぐさま猛攻に転じた。
相手の数が多いのだ。立ち止まっていては不利になる一方だ。
フィーリティアも剣を抜いて、将軍の取り巻きを牽制するが、一対多ではどうしても限界がある。
「フォンくん! このままじゃ……」
「わかってる。けれど、俺は誰も切らないで、そしてこの場も切り抜けてみせる。今度こそ!」
その覚悟とともに、フォンシエはフィーリティアと背中合わせになった瞬間、「中等魔術:炎」を使用する。「光の証」が用いられ、精密なコントロール下に置かれたそのスキルは高めた魔力を一気に爆発させた。
ドォン!
轟音とともに視界がすべて塵埃で埋め尽くされる。
誰もが手で顔を覆わずにはいられなかった。
「くぅ! やつは……!」
視界が晴れていくと、そこには二人の姿はない。
者どもが慌てる中、ラスティン将軍は堂々と佇んでいた。
そして大声を張り上げた。
「ゼイル王国の畜生め! 我がレーン王国を食い物にしようとは!」
「将軍……?」
付近の者は彼をまじまじと眺める。このような暴言を吐く人物ではなかったし、なによりゼイル王国との問題に発展しかねない言葉だ。
「やつらの末路には相応しい最期だ。ゼイル王国の村人が爆死したとは!」
あからさまな言葉に、そこで将軍に付き従う者も気がついた。
これは聞かせるための言葉であると。
上空では数体のインプが飛んでいたが、そのうちの半数が北に向かっていく。
やつらに高度な知能はない。この言葉をそのまま伝えるだろう。
仮にあの二人が北に行ったとしても、『ゼイル王国の愚かな村人が、勝手に飛び込んでいって死んだ』だけのことなのだ。
ラスティンはしばらく、そのまま佇んでいた。
妙な説得力に、彼らならできると一瞬でも信じてしまったのは間違いない。そのような感情を抱いたのは初めてだった。どんな王や魔王、勇者にも感じたことなどありはしなかったというのに。
そしてあの魔術に勇者の光が混じっていたのも見逃してはいなかった。
実力があるのは確かだ。だから賭けてみようと思ったのに偽りはない。
けれど、今となってはやはり、状況を打開できるはずがないという諦観ばかりが彼の内心を埋め尽くしていた。どうしようもない状況で希望を見いだせるほど、若くはなかったのかもしれない。
それでも、これまで付き従ってくれた者たちの前なのだ。情けない姿を見せてもいられなかった。
「少々のいざこざがあったが、問題はない。これまでどおり、我々は期日を待つ」
「はっ」
それはもはや、彼らの行いはあずかり知らないということ。
その決断に異を唱える者はいなかった。




