カーテンコール②
地味な眼鏡を掛けて、村崎組の紫のメイド服を着て、その上から白衣を纏い、髪を後ろに束ね、アイスコーヒーに刺さったストローを咥えて、優しげな顔をする千場ミチコトはどこからどう見ても、誰かを殺すような魔女には見えなかった。雨森スイコはミチコトが金魚の会の魔女を演じていたことを見抜けなかったことを、まだ悔やんでいた。年齢を重ねて、冷静、ということを覚えたと思っていたのだが、迫った偽りの恐怖に慌ててしまった。浮足立ってしまった。まだまだ甘いなとスイコは自分を戒めた。目の前にあるパンケーキの濃いシロップのように甘々だ。
黄昏。
窓から差し込む太陽の光は紫色。
そろそろ完全に、落ちる頃だ。
ミチコトとスイコは、滋賀県警南明方署の裏通り、急な坂道の途中にある喫茶店サイレンスにいた。その名前とは裏腹に、店内に流れるBGMはラモーンズのロックンロールだった。二人は一番奥のテーブル席で鳴滝ナルミが来るのを待っていた。ナルミは水上署から南明方署に一時的に転属になっていた。
「ねぇ、スイコ、」スイコよりも五歳も年下のミチコトは馴れ馴れしく名前を呼ぶ。「正式に村崎組の魔女になったことだし」
そうなのだ。ミチコトは今日、正式な書類に血判を押して、正式な村崎組の魔女になったのだ。ミノリ・ミュージアムが爆破されたのは昨晩のことだが、その後、村崎組の魔女になりたい、とミチコトの方からスイコに持ち掛けられたのだった。スイコは彼女の処遇をどうするのか、藤井に聞いた。ミチコトによって大変な目に合ったにも関わらず、二つ返事でミチコトが村崎組の魔女になることを認めた。ミチコトのような優秀な魔女は、財政難の村崎組にあって、求められる人材だった。彼女の従姉妹である千場オリコトも同時に正式な魔女になった。
「もう、いい加減、ギア、それからトロイメライについて細かいことを教えてくれないかしら?」
「まだ私は、」スイコはコーヒーで口の中を湿らせて言う。「ミチコトという魔女を信じたわけじゃない」
「そんなこと言われるなんて、悲しいな、」ミチコトは悲しそうな表情を作って、ストローを口にくわえて、コーヒーにゆっくりと空気を送り込む。コーヒーの水面に泡が出来て、騒ぐ。「……今夜、一緒に寝る?」
「厭らしい魔女」スイコは冷たく言った。
「今夜だけの提案なんだけどな、」なぜかミチコトは眼鏡を取り、髪を解いて、顔の角度を斜めにして、スイコに潤んだ瞳を見せ、声のトーンを落とす。「あなたとキスしたいのは、今夜だけなんだけどな」
スイコはちょっと、揺らいだ。綺麗な女の子と一緒に眠るのはやぶさかではないのだけれど、簡単な魔女だとは思われたくないから、全然ミチコトの体になんて興味ない、という顔を作る。「ごめんね、今夜も、あなたのシスタがいい夢を見せてくれると思うから、非常に魅力的な誘いだと思うけど、断らせて頂くわ、今夜は一人で眠って頂戴」
媚薬の効果が持続するのは長くても三日間だった。しかしオリコトは三日間経っても、スイコのペットであり続けていた。オリコトは、本格的にスイコのことを愛しているらしかった。それはちょっと意外なことだった。でも朝から晩まで、かえがえしく、傍にいてくれるオリコトに対してスイコも特別に気に入ってしまっていたのは事実だった。アンナはロリコンって、スイコのことをからかってきたけれど、オリコトは恋人ではなくて、あくまでペット。そういう人間関係なのだ。だから、年の差なんてどうだっていいことだろう。
「そう、」ミチコトは身を引き、眼鏡を掛け直し、髪型をポニーテールに直した。「せっかく、オリコトと二人でお世話させて頂こうかなって思ったんだけどな、残念」
「ちょっと、待って、」スイコは笑顔になって、ミチコトの手を触って力を入れて握る。「そういうことは、先に言おうね、それで、どんな風にお世話してくれるのかな?」
そのタイミングでサイレンスの扉のベルが揺れて鳴る音がした。
胸元が透けているパーティドレスを身に纏ったナルミが姿を見せる。スカートもとても短い。ナルミはスイコたちの方に軽く手をあげてこっちに来てミチコトの隣に座った。
「ナルミってば、」スイコはナルミの胸元を凝視しながら言う。「なんて、格好をしてるの?」
「二人こそ、今夜はパーティよ、」ナルミはいつもの五割増しの上品な笑顔で言う。「パーティなのに、普段着なんて、失礼じゃない?」
「パーティじゃないわ、ライブよ、」ミチコトが答える。今夜は村崎組の普通の女の子じゃいられない女の子たちのロックンロールバンド、ミヤコ・キャッツのライブがある。三人はそれに招待されていた。「ライブっていうのはね、Tシャツとジーパン、それからタオルを首に巻いて参加するものなのよ」
「え、そうなの?」言ってナルミはオーダーを取りに来たマスタにコーヒーを頼んだ。「えっと、シロップは、二つ」
「まあ、でも、」ミチコトもナルミの胸元に視線をやりながら言う。二人の目が勝手に見てしまうほど、ナルミの胸元はセクシィだった。「スカートが短いから、踊るのには困らないわね」
「え、踊るなら、パーティよね?」
「ミチコ、違うの、」スイコは額に手をやり言う。「ナルミはね、誘惑しようとしているの、市長の娘さんをね」
「ミチコトです、」ミチコトは胸元に視線をやり続けながら言う。「ああ、だから、そんな格好を?」
「違うわよ、ミチコ、」ナルミはニヤケながら言う。「そんなんじゃない、ただ、昨日買ったパーティドレスの胸元が透けていた、っていうだけの話」
「ミチコトです、」ミチコトはまた訂正する。「もぉ、なんで魔女たちは私のことをミチコって呼ぶんだろう」
「ナルミ、」スイコはナルミを見つめた。「マアヤはレノアじゃないのよ」
マアヤの心臓に縫いつけたギア。
それはレノアという緑の魔女のトロイメライ。
「分かってる、分かってる、分かっているわよ、」ナルミは空を見上げた。「分かっているけど、」ナルミの瞳に、急に水が張る。「マアヤからはレノアの優しい匂いがする、色だって、レノアの色、ちょっとくらい、傍にいさせてくれたっていいでしょ?」
「だから南明方署に移ったの?」
「そんな当たり前のことを聞かないでくれる?」ナルミはスイコを睨む。ナルミは昔から、感情の起伏が激しかった。「レノアの匂いがするのに、水上市にいられるわけないじゃない」
ナルミはレノアのために涙を流している。
ナルミとレノアとは、そういう関係だった。
スイコと、アンリエッタがそうだったように。
ナルミも、あのときに。
スイコと涙を流した。
それからもう、八年経つんだね。
「マアヤとキスをすれば私は、」ナルミは涙をコントロールして、止めた。「感じられるのよね?」
「気のせいかもしれないわ」
アンナとキスして。
アンリエッタを感じられたのは、気のせいかもしれない。
気のせいが続いているのかもしれない。
アンリエッタとのキス。
アンリエッタだけのキス。「あるいは夢ね、それこそ、トロイメライだわ」
「夢でも構わない、」ナルミは強く言った。「夢でも構わないから、会いたいよ、感じたいよ」
「市長の娘を攻略するのは難しいんじゃない?」
「難解なほど、私の中の水が溢れるわ、」ナルミはコーヒーを一気に飲み干し、立ち上がった。「さ、二人とも、そろそろ時間だわ」