カーテンコール①
「え、」藤井はノー・スモーキングの看板を思い出して、抜き取った一本を箱に仕舞いながら、聞き返した。「旅に出る?」
「はい、」皆川ノリコは天使のように無垢な笑顔で頷いた。「流浪の旅に、何と言いましょうか、地球を歩いてみようと思うんです」
藤井が大壷ヒカリのシトロエンに乗って皆川邸に訪れると、ノリコは頭に白いタオルを巻いて、エプロンを纏い、袖を捲っていた。大掃除をしているのかと思ったが、玄関ホールの奥の方に白いユニフォームを纏った骨董屋の姿があった。同じ色の骨董屋は何人もいて、皆川邸にあるあらゆる商品を査定しいているようだった。その査定が終わったものから黄色と黒の縦縞のユニフォームを身に纏った引っ越し業者がトラックに運んで行っていた。
「はあ、地球を、それは、何と言いましょうか、」藤井は後頭部を触りながら言う。「壮大ですね」
「壮大でしょう?」ノリコは吹き出すように笑った。「分かっています、藤井さんがおっしゃりたいこと、私がそんなことをするなんて、無謀だと、お思いですね」
「いいえ、そんな、そんなことありませんよ、」藤井は否定した。無謀なことをするな、と思う以前に驚きの方が大きく、それよりずっと寂寞を感じていた。「そんなことありません、とにかく旅とは結構なことです、流浪、というのは、少し分かりかねますが、いや、それにしても、急な話しだ」
ノリコは藤井を庭に誘った。芝の敷き詰められた緑の庭の中心にピンクのソファがポツンと置かれていた。そのソファに二人は座る。背もたれに十万円と査定額が書かれた紙が張られていた。「もう、長年の気がかりだったトロイメライは見つかりました、それだけが、そうですね、私の唯一の気がかりでしたから、ええ、正直に言えば、ずっと見つかるとは思っていませんでした、トロイメライをずっと探し続けるんだろうな、それに生涯を捧げて行くんだろうなって思ってました、だから見つかったときのことなんて考えていませんでした、」ノリコは膝の上にトロイメライが入れられていたオルゴールを乗せて、その蓋を開けた。庭にトロイメライの旋律が響く。「昨晩、ええ、昨晩です、ピクシィがミノリ・ミュージアムを爆破するのを見ながら考えて、私、決めました、私が所有しているすべての財産をお金にして、旅に出ようって」
「一人で?」藤井がそう聞いたのは、少し期待していたからだ。
「はい」ノリコはすぐに頷く。
「どこに?」期待を裏切られた動揺を顔に出さないで自然に声を出すのは少し難しかった。
「まだ決めていません、」ノリコは首を横に振る。「それはまた今夜、考えようかと、そうですね、とりあえず、無難ですが、王都ファーファルタウの風を感じてみようかと思っています、まあ、最初は観光気分で、ゆるゆると歩きます」
「旅に出る日には、見送りに行きますよ、」藤井は言って息を吐いた。「そういえば、トロイメライがなぜ、ミノリ氏の肖像画の裏に隠されていたのか、何か分かったことはありますか?」
その質問に、ノリコは口を開きかけて、黙った。
トロイメライは今、アンナの右手の薬指にある。
ノリコはアンナにトロイメライをプレゼントした。
どうせ壊そうとしていたものだから、とノリコは笑いながらアンナに言った。
トロイメライ。
その魔具はアンナの第二の魔女モードに、色を付けた。その原理についてスイコは理解しているようだったが、藤井には何も教えてくれなかった。スイコは最初からトロイメライについて知っていた節がある。なぜトロイメライについての情報を隠すのか、藤井には全く検討が付かない。
「きっと、」とノリコは視線を青い空に漂わせて声を出した。「きっと、最初からずっとトロイメライはあそこに隠されていたんです」
「えっと、最初から、というのは?」
「ミノリ・ミュージアムの最初から、という意味です、」ノリコは藤井に向かってハニカんだ。「トロイメライは展示されてもいなかったし、誰かに盗まれてもいなかったんです、ずっと祖母の肖像画の裏にあって、……ええ、ずっと祖母の肖像画の裏にあり続けていたんです、トロイメライがガラスケースの中にないことは、閉館して商品が競売に掛けられた時点で分かったことです、それまで私たちはないものを、あるものだと信じさせられていたんです、いえ、もちろん、そんなことは信じたくはないですけれど、トロイメライを見て美しいと思った純粋な気持ちが偽りのものだったとは、過去を振り返ってみても信じられないのですけれど、そうとしか、考えられません、祖母がいたずらをしたとしか、あるいは何か、不思議な魔法を編んでいたのか」
「なるほど、」藤井は腕を組んで、釈然としなかったが、頷いた。「もしかしたら、そうかもしれませんね」
「ええ、考え過ぎなのかもしれませんけど、とにかく、もうトロイメライのことなんて考えません、その必要はありません、天国の両親にも伝えました、ノリコは過去から離れて旅に出ますよって、」ノリコは優しく微笑んだ。「ああ、そうだ、藤井さん、依頼料としていくらか、村崎組の口座にお金を振り込ませていただきました、後でご確認下さい、その額が気に入らなければお電話下さいね」
「そんな、依頼料だなんて、」
そのタイミングで業者が二人の座るピンクのソファを回収に来た。
藤井は立ち上がり、ノリコに「また、今度」と別れを言った。芝の上を歩き、皆川邸の門を出た。門を出て、右に折れる。少しいった先に白いシトロエンが止まっている。そのボンネットに大壷ヒカリが腰を乗せている。
「残念だったね、パパ」
「残念?」藤井はシガレロに火を付けて、ヒカリとは視線を合わせずに言う。「何が?」
「あははっ、」ヒカリは高い声で笑ってシトロエンの助手席の扉を開いた。「ほら、早く乗って」
藤井は助手席に乗り込む。
ヒカリはアクセルを踏み込んだ。
シトロエンはエンジン音を上げる。
藤井は窓を開けて、煙を吐いた。「……旅、か」
「そうだ、パパ、拂田ちゃんがね、今夜の合コンはどうなってんのよ、って朝から怒鳴ってたんだけど」
「ああ、それなら問題ない、人数は揃っている」
「それからさっき連絡があって、女の子が一人増えたんだって、大丈夫?」
「そうか、なら、」藤井はオーディオの再生ボタンを押しながら言う。「俺が行こう」




