第四章⑭
「お休みなさい」
ミチコトの囁く声が魔法だったのか、それはアンナには分からないけれど、スイコの体は力を失い、その場に膝から崩れ落ちた。
「スイコさん!」ヒカリが叫び、スイコの方に駆け寄ろうとした。
その手を藤井は掴んで、止めた。ヒカリは藤井の顔を見つめる。藤井の視線は睨むようにミチコトに注がれている。ヒカリも藤井と同じようにミチコトを睨んだ。
「スイコ様!」オリコトは床に横たわるスイコの隣に跪き体を揺すった。「スイコ様、しっかりして下さいっ!」
「安心して、大丈夫、心配いらない、ただ眠っているだけよ、」ミチコトの優しい声音は不気味だった。「オリコトが好きな人は無事、でも、それは本当なのかな、好きという感情、愛情は、真実なのかな、群青色の魔女に騙されているということはない?」
「そんなことありませんっ!」オリコトは叫ぶ。「私はスイコ様のことを愛しています、それは本当で、真実です、私はスイコ様の従順なペット、生涯をこの人に捧げると誓ったのです、この関係を疑うのなら私は許せません、お姉ちゃんだとしても、許せませんっ!」
「まあ、オリコト、落ち着いて、とにかく落ち着いて、私の目を見なさいな、」ミチコトは金色に煌めき、オリコトの目を覗き込んだ。「おやすみなさい、あなたが再び目を開けて、この魔女の群青色を見たときに、あなたの愛が真実か、そうでないかが分かる、きちんと分かる、はっきりする、だから、おやすみなさいな、グッナイ、シスタ」
オリコトはスイコに覆い被さるように眠りについた。ミチコトはオリコトが後ろになるように移動する。そしてアンナの目をまっすぐに見てミチコトは言う。「さて、コレで話が簡単になったね」
「そうね、私の命か、お嬢の命か、」アンナは一歩前に進み出て髪を払った。一歩前に出たのは心を振るわせるため。両脇にシキとマアヤが並びミチコトの方をわざとらしく睨んでいる。「それでお嬢はどこなの?」
「そんなにお嬢さんのことが大切なんだね」
「お嬢は無事なのよね?」
「安心して、大丈夫、無事よ、無事だけど、まあ、結局はあなた次第、あなたが私に大事なものを触らせてくれたら、私は素直にあなたたちのお嬢さんをあなたたちにきちんと傷がないまま返します、私は別にお嬢さんのことをどうしようかなんて思ってないからね、ここ最近、私はあなたのことしか見えていない、ということよ、安心した?」
「そう、」アンナは大きく頷いて見せた。「なるほどね」
「でも、あなたは私に簡単に大事なものを触らせてはくれないでしょうね?」
「そうね、」アンナは腕を組み、再び大きく頷いた。「よく分かっているじゃない」
「ルールを決めましょう、」ミチコトは人差し指を立て、口元に近づける。「というか、殺し合いをしましょうか、私を殺せば、お嬢さんはあなたたちの元に帰るわ、悪い魔女みたいに人質の首にピストルを近づけたりして、あなたたちの本気を封じるような真似はしないわ、私は光の魔女の総本山、大連大学出身の優秀な魔女だから、そんな卑怯な真似はしない」
「うん、きっとそうだと思う、」言いながら、アンナはモードを変えるために、気分の熱を高め始めた。「そうね、あなたを殺せば、全ては解決するんだ」
「じゃあ、そういうことで、殺し合いは破裂して景色がいい三階でやりましょう、」ミチコトは髪を払いオリコトを抱き上げて言う。「あなたたち全員で私を殺しに来ても構わないわよ、その代わり死にたくない人は三階に上がってきては駄目よ、三階に来た人に私は容赦をしないからね、よぉく考えて三階に上がって来てね、三階とそれ以外の世界の色は違うことをよぉく考えてから三階に来るのよ、三階はそうね、言わばバラ色の世界よ、いいわね、ああ、もちろん、アンナちゃんは絶対に、バラ色の世界に来なきゃ駄目」
ミチコトはアンナに向かってウインクして、ミノリ・ミュージアムの三階の階段をゆっくりと登って行く。
ミチコトの姿が完全に見えなくなってから、アンナは大きく息を吐いて言う。
「私一人で行く」
そう言った瞬間。
「バカ野郎」
藤井に頭を叩かれた。とっても強く叩かれた。前に倒れそうなほどの強さだった。
「いったいな!」アンナは頭を押さえて藤井を睨み付ける。「何すんのよっ!」
「格好付けるな、バカ野郎、」藤井はシガレロを口にくわえて、火をつけて言う。「少年ジャンプか、バカ野郎、そういうの、だせーよ」
「だせーって何よっ!」アンナは顔が熱かった。「私は、私は、その、これは私の問題だから、私一人で、」
「バカ野郎」
藤井はまた頭を叩いた。
「いったいな!」アンナは頭を押さえて藤井を睨み付ける。「同じところを叩かないでっ!」
「だせーよ、だせーんだよ、ビビってるくせに強がってるんじゃねぇよ、そういうのは俺たちの流儀じゃない、村崎組の流儀じゃないんだよ、不細工でも、不器用でも、泥臭くても、格好悪くても、どんな卑怯な手段を使ってもやり遂げるのが俺たちだ、分かるだろ、お前は村崎組のアンナだ、分からないはずがないな、ええ、どうなんだよっ、バカ野郎っ!?」
アンナは藤井に怒鳴られ狼狽えた。
狼狽えながら、周囲を見回した。
村崎組の連中は皆、アンナを見て、頷いている。
シキもマアヤも頷いている。
「あ、アンナさん、」スズがアンナの手を握り、小さな声で言う。「私の風、少しは役に立つかな?」
ちょっと。
ちょっとだけ。
ぐっと来た。
アンナはスズの手を握り返し、反対の手で頭を撫でた。
「全く、本当に、しょうがないわねぇ、」アンナの表情は自然と笑顔になった。「しょうがない、バカ野郎共なんだから、でもスズちゃんはスイコの傍にいてあげて、一応、師匠を守るのも弟子の仕事よ」
「はい、」スズはゆっくりと頷く。「分かりました」
「そこにいるピンクも、傍にいてくれる?」
「私はピクシィだよ、」ピクシィは高い声で言う。「ピンクは髪の色、名前はピクシィだよ、ちゃんと名前で呼んで、失礼しちゃうわ!」
「はい、はい、ピクシィ、ピクシィ」
「何度も呼ばないで!」ピクシィは頬を膨らませて言う。「もぉ、失礼しちゃうわ、プンプン!」
「ああ、ノリコさんは、」藤井はノリコに近づきながら言う。彼女も村崎組の屈強な男子たちに混ざって二階のフロアにいた。「ここにいては危険ですから、外へ」
「藤井さん、私に何か出来ることはありませんか?」ノリコは胸の前で手を組み、訴える。「何か、力になれることがあればさせて下さい」
「ノリコさんは魔女ではないでしょう?」
「ええ、魔女ではありません、魔女ではありませんから、」ノリコは悲しい顔をする。「そうですよね、役に立ちませんよね」
「いいえ、その、」藤井は気持ち悪い笑顔を作ってノリコに言う。「そういう意味で言ったわけでは」
「ええ、すいません、分かっています、藤井さんを困らせてしまったようですね、でもせめて、コレを、」ノリコは自分の指にあるトロイメライをはずして、アンナの手を取り、右手の薬指にはめた。「お守りです、このトロイメライのせいで私の家族は不幸になりましたけれど、でも今、」ノリコは早口で言いながら、アンナの手をギュッと握った。「ぎゅっと、私の願いを込めました、これでもう、トロイメライは明方天神に負けないくらいのお守りになりました」
「えっと、」アンナは戸惑いながらも、笑顔を作った。「あはは、最高のお守りですね」
ノリコはとってもチャーミングな笑顔を見せた。
そして。
アンナはトロイメライを見つめた。
すぐに忘れてしまうという、その美しさを一度確かめた。
指にある、という感覚は持続している。
妙なものだ。
指にある、という感覚は強く、脳ミソにきちんと存在のサインを送り続けている。
見れば強烈な印象で脳ミソを刺激する。
しかしもう忘れるのだ。
まるで夢のように。
忘れてしまって思い出せない。
見て。
一秒も経っていないのに。
「さあ、皆、各々、大事な武器は持った?」アンナは顔を上げて、村崎組の人間の顔を全員確かめる。そして三階に通じる階段の方を見て言う。「村崎組の最高を、あの生意気なバカ野郎に見せてあげなきゃね、よっしゃ」
そのときポケットの中のスマホが震えた。
画面を確認する。ヨウコからだった。アンナは着信に出る。「もしもし?」
「あ、ミャコちゃん」
「なぁに、一人でお昼を食べるのが寂しくて電話してきたの?」
「ううん、そうじゃなくて、そうじゃなくてね、」
「大丈夫だよ、ヨウコ、明日はちゃんと、皆でお昼を食べられるから、ヨウコとシキとマアヤと私の四人でお昼を食べられるから、大丈夫だよ、心配しないで、ごめんね、今日だけは我慢してね、それじゃあ、今、ちょっと、取り込んでてね、ごめん、バイバイ、ヨウコ、また明日ね」
「ああ、ミャコちゃんってば、」
通話を切った。ヨウコはアンナに何かを言いたがっていたみたいだけどでも、これ以上ヨウコとしゃべっていたら、涙が溢れそうだったから無理矢理切った。可愛い女の子たちには、自分が泣き虫だなんて思われたくない。「皆、ごめんね、よっしゃ、さあ、行きましょうか」
そのタイミングで今度は藤井のスマホが震えた。
藤井は着信に出る。「ああ、久しぶりだな、どうした? ……は? どうして? いや、・……ああ、うん、どうして知ってる? はあ? まあ、とにかく、……え? いや、ミノリ・ミュージアム、分かるか? あ、おい、ジェット?」
通話が一方的に切られたようだ。
「ジェット?」アンナは首を傾げて聞く。
「いや、多分、どうでもいい電話だ、」藤井は首を捻りながら言って歩き出す。「よし、とにかく、行くぞ」
「ああ、ちょっと、」アンナも歩き出す。「私が先頭なんだからねっ!」
アンナは階段を勢いよく登った。
すぐ後ろにシキとマアヤ、警察のヒカリとナルミ、それに村崎組の男たちが続く。
ピクシィに爆破されてしまって屋根のない三階に残るものは少ない。
四本の太い柱。
それから美術品を展示していた台座。
そこにミチコトは座っていた。
優しい風が吹いている。
金色の髪の毛が揺れている。
優雅に、歌を口ずさんでいた。
風に乗り、耳に届く。
童話だと思う。
小さい頃に聞いたことがある、歌。
名前も、その旋律も忘れてしまっていたが、今思い出した。
それもトロイメライか、とも思う。
「あら、意外ね、」ミチコトは目を細めてアンナたちを見る。「沢山いるのね」
アンナはガトリングガンを構えて、ミチコトのこめかみに狙いを付ける。
「さあ、皆、」メグミコがそうするみたいに、左手をクルクルと回した。「盛り上がって行きましょう!」