第三章⑩
夜の十時を過ぎた頃に藤井は会同を終わらせて、皆川ノリコに電話を掛けた。ノリコは電話に出なかった。藤井は大きく息を吐き、風呂場に向かった。湯船に体を沈めて様々なことを考えた。
藤井は十分ほど入浴してから村崎邸の二階の隅の四畳半の自室に戻った。畳の上には布団が敷かれていて、その上にヒカリが座っていた。彼女は藤井のスマホを握り締め、画面をじっと眺めていた。襖を開けた藤井に気付くと、ヒカリは顔を上げて睨むように見て言う。「ノリコって誰?」
「ああ、着信があった?」藤井はヒカリに向かって手の平を広げる。
「うん、」ヒカリはスマホを背中に回して言う。「それで、ノリコって誰?」
「依頼人だ、捜し物を頼まれていて、返してくれない?」
「本当に?」
「いや、実は事情は少し複雑だ、」藤井はヒカリの正面に腰を降ろして言う。「お嬢が皆川ノリコ氏が所有する建物を滅茶苦茶にした、お嬢だけじゃないな、お嬢とスズとスイコの三人が滅茶苦茶にして、まあ、盛大な悪ふざけをしてくれて、もちろん、滅茶苦茶にしてしまったんだからこちらは賠償金を支払わなくちゃいけない、でも、ノリコさんは賠償金を支払う代わりにあるものを探して欲しいと頼んできた、その捜し物、というのはまだ見つかっていないが」
「捜し物?」ヒカリは首を傾げる。
「トロイメライ、」藤井は壁際の机の上のシガレロの箱を手にして言う。「知ってる?」
「何それ?」
「知らないよな、」シガレロの箱を叩いて、藤井は一本抜き取り、指先で回した。「記憶に残らない指輪のことだ、それはかつてミノリ・ミュージアムから盗み出され、未だどこにあるのか不明、それを探すように頼まれているんだ」
「ふうん、まあ、事情は分かったよ、」ヒカリは藤井にスマホを返した。「とにかく、ママは一人だけだよ、パパが恋していいのはママだけだよ」
「疑っているの?」藤井は煙を吐きながら口元だけ笑った。「もういい歳だし、年頃の娘もいるし、考えられないことの一つだな、それは」
「私はパパを信じてる、新しいママなんて、いらないからね、じゃあ、お休みなさい、」ヒカリは立ち上がって部屋から廊下に出た。スイコの部屋に向かうのだろう。ヒカリがスイコと同じ布団で眠ることを考えると、なんとも、複雑な気分になった。襖を閉める前に、ヒカリは振り返って言った。「あ、五分くらい前だから、電話が掛かってきたんだ、掛け直しますって言っておいたからね、奥様ですかって聞かれたから、娘ですって答えといたから、じゃあ、おやすみ、パパ」
藤井は息を吐き。
少し気合を入れるように息を吸った。
藤井はまだノリコとどうなりたいか、ということを細かく分析していなかった。
ただ。
仲良くはなりたい。
それは確かだった。
いや、そんなことより。
お嬢のことだ。
ノリコに電話を掛けた。
向こうはすぐに出た。「もしもし?」
「もしもし、」藤井は声を作る。「村崎組の藤井でございます、夜分遅くにすみません、先ほどはすいませんでした、少し変なことを言う魔女が出たでしょう?」
「いえ、えっと、本当に娘さんなんですか?」
「そうなんです」
「嘘、」ノリコの口調は以前と同様にフランクだった。「奥様でしょう、随分と若い声でしたけれど」
「あははっ、」藤井は自分の太股を叩いて言う。この動作にきっと意味はない。「まあ、信じてもらえなくても結構です」
「あの、すいませんでした、先ほどお電話頂いたときは、シャワーを浴びていたものですから」
「すいません、僕もさっきは風呂に入っていて」
「うふふっ」ノリコは何がおかしいのだろうか、高い声を出して笑った。
「ははっ」藤井も笑う。別に何もおかしくはないのだが。
「トロイメライが見つかったのですか?」
「いいえ、その件は、まだ」
「そうですか」
「期待をさせてしまったようで、すいません」
「いいえ、それがすぐに見つかるようなものだとは、思っていませんでしたので」
「ははっ、正直ですね」
「いえ、あの、」ノリコの声は少し慌てていた。「藤井さんのことは、信じていますよ、うふふっ」
信じていると言われて、藤井の体温は、少し上がったようだ。
ふと、襖の方を見れば、ヒカリが顔だけ出してじっと藤井の方を見ていた。「信じてるからねっ」
ピシャっと襖が閉まった。
「……どうしました?」とノリコの声。
「いえ、なんでも、」藤井は咳払いをする。「あ、それでこちらから、電話させて頂いたのは、少しノリコさんにお願いがございまして」
「お願い、ですか?」
「端的に申し上げますと、ミノリ・ミュージアムの処理を私たち、村崎組にお願いして頂きたいのです」
「処理、とは?」
「解体に関することです、」藤井は咳払いをして言い直す。「ミノリ・ミュージアムの解体に関することです」
「ああ、そのことでしたら、もう、知り合いに破裂する魔女がいるので、その子にお願いして、ミュージアムを綺麗に爆破してもらおうって思っているんです」
「そうですか」
「ええ、ですから藤井さんたちの力を借りる必要はありません、ええ、何も問題はありませんよ、明日、ミュージアムは綺麗になくなる予定です」
「明日ですか?」藤井は明るい声を出した。「明日とは、随分、その、僕らは運がいい」
「え?」ミノリはスマホを片手にきっと首を傾げている。「えっと、運がいいとは?」
「明日の正午ですか?」
「えっと、まだ細かいことまでは決めていないのですが、ちょうど、彼女が東京から、こっちに用があるようで、今うちに泊まりに来ているんです」
「明日の正午でしたら、僕ら村崎組はお手伝いに伺います、屈強な男子を沢山連れて行きます、何かと男手が必要でしょう」
「いえ、本当に、心遣いだけで、十分ですよ、十分ですよ、でも、その、」ノリコは小さく笑いながら言う。「えっと、何か事情があるのでしたら、聞きますよ、ああ、私、口、硬いですよ」
「ノリコさん、あなたは聡明な人だ」
「そんなこと、」ノリコは恥ずかしそうな声を出す。「ありません」
藤井はノリコにメグミコが誘拐されたことをつまびらかに話した。
「それは大変なことになりましたね、」ノリコは声のトーンは冷静だった。「お嬢様のために私たち、何か、出来ますか?」




