第三章③
明方市立上川淵小学校の放課後。
赤いランドセルを背負った室茉スズと村崎メグミコの二人は明方市上空を並んで飛んでいた。
空にロックンロールを響かせるのは、村崎組天橋立研究所に所属するシキからもらった雷の魔女の魔法を吸収してバッテリに変換するポータブル・ラジオ。スズはジブリの『魔女の宅急便』のオープニングみたいにラジオを箒の柄に括りつけて飛んでいた。
放課後になると、二人はいつも空を飛んでいる。
空がやっぱり、魔女の世界だと思う。
ここが居場所。
ここが風景。
小学校の教室だけが世界じゃない。
六年二組で魔女に開花したのは、スズとメグミコの二人だけだった。魔女に開花してから周囲の二人を見る目は変わった。それまで普通に会話をしていたクラスメイトたちの微細な声音の変化に、スズは気付くようになった。クラスメイトたちの思っていることが、心境が、スズには分かった。男子たちは魔女の二人を冷やかした。一度風を起こしたら彼らは黙ったけれど、彼らはスズの上履きを隠すようになった。女子たちは露骨に何かを言おうとしなかったけれど、二人から距離を置くようになった。最初は少し寂しかったけれど、スズは面倒くさくなって六年になってからは何も考えないようにした。考えないようにする、ということはやっぱり気にしているんだってことだけど、でも、クラスにメグミコがいるから、なんとか、平気だった。メグミコはクラスメイトの変化に全く気付かずに普通の顔をして、普通に過ごしていた。上履きを隠されても、男子たちを痺れさせて笑っていた。スズはそんな風に笑えなかった。きっと、耳がよくなって、他人が考えていることも分かりやすくなったし、聞こえない悪意に満ちた言葉も聞こえてくるようになったから。とにかく、スズはクラスにいるのが嫌だった。だから、放課後はすぐに空を飛ぶ。スズは風の魔女。居場所はここだ。空が相応しい。狭い世界の淀んだ空気には耐えられない。
今日は暑い雲が多い、蒼空。
さえずりが耳に飛び込む。
天高い位置から、スズメの群が降りてくる。
旋回。
間に合わず、彼らの群にスズとメグミコは飲まれた。
「きゃあ!」メグミコは高い声で悲鳴を上げる。「前が見えないよぅ!」
スズメの群は高度を落とす。すぐに前が見えるようになった。
スズとメグミコの髪の毛には、いくつものスズメの羽根がくっついていた。
スズは風を起こして、髪を払った。
メグミコの髪の毛も払ってあげたけど、羽根はとれなかった。きっと、メグミコが雷の魔女だからだ。静電気に羽根がまとわりついているのだ。
「ふえぇ、」メグミコは片手で髪を払いながら言う。「とれないよぉ」
「取らなくていいよ、」スズはなんだか愉快だった。「似合うよ、羽根、髪飾りだね、空に似合うよ」
スズとメグミコは明方市駅前の円柱のビルの屋上に降り立ち、縁に腰掛け、足をぶらぶらさせた。下の方を見れば、複雑に絡んだ線路の上を電車が走っている。ラジオを横に置いた。ラジオはずっと、ロックンロールを受信している。受信中の音楽番組の名前は知らない。
「アイ、ラビュウ、オーケぇ」メグミコは空に向かって口ずさんでいる。
「下手くそめ、」スズは言って、指を立て、小さく指揮をしながら、空に向かって口ずさむ。「アイ、ラビュウ、オーケぇ」
歌を歌いながらスズは。
アンナのことを考えていた。
愛していると言ったら。
アンナはオーケしてくれるかな。
いつまでも隠していられない。
っていうか、もう気持ちは完全にバレている。
ごまかせない。
スズの妄想だって、完全にバレていて。
でもアンナはちょっと厳しい人だから。
スズが言わなきゃきっと、スズの妄想通りにならないんだと思う。
未来は自分でコントロールしないと駄目なんだと思う。
でも、難しいんだよな。
「ねぇ、スズ、」メグミコはスズの口元を見ながら言う。「キスしない?」
「え、なぁに、急に?」スズは手で口元を隠すようにして少し身を引いた。
「ちょっと、なぁに、その反応、」メグミコはスズを睨んで言う。「恋人にあるまじき反応だと思うんだけど、ぷんぷん」
「別に、」スズは口元から手を離す。「この反応に意味なんてないし」
「……アンナのこと、考えてたでしょ?」
「え?」スズは少し動揺する。「そんなことないよ、今はメグと一緒だし、アンナさんのことなんて考えないよぉ」
「嘘、バレバレだよ、うっとりとしちゃってさ、もぉ!」メグミコは頬を膨らませて言う。「恋人として、不愉快なんですけどぉ」
「え、」スズは両頬を押さえて言う。「そんなにうっとりしてた?」
「ほら、やっぱりそうだ、アンナのことを考えてうっとりしてたんだ」
「あ、」スズは再び口元を隠す。「……しまった、い、いや、違うんだよ、メグ」
「何が違うんだよぉ、」メグミコはスズから目を背けた。「……スズってば、最近ずっと、アンナのことばかり、ちょっとヒステリックかもぉ」
「そうかなぁ?」スズは足下を見る。
「そうだよ」
「でも、アンナさん、今、大変だから、師匠だって言ってたでしょ、いざというときは二人でアンナさんを守るんだよって」
「そういうことじゃなくってさ、そういうことじゃないのっ!」メグミコはヒステリックに睨んでくる。「アンナを守らないって言ってるわけじゃない、アンナは大事な村崎組の組員だし、私たちのシスタみたいな存在だし、そういう人だから、守るよ、当然だよ、この当然なこととは関係ないことを私は言ってるんだよ、嫌なの、私はスズのことばっかり考えてるのに、スズはアンナのことばっかり考えているから嫌なのぉ!」
メグミコの本気のヒステリックって珍しいから、スズは顔をまじまじと見ながら謝った。「……ごめん」
「謝らないでよ、」メグミコは睨んだまま顔を近づけてくる。「謝らないで、キスしてよ」
メグミコは目を瞑り。
唇を近づけてきた。
「ごめんっ、」スズはメグミコの肩を押さえて、キスを拒んだ。自分の気持ちをスズは分かっている。スズはアンナのことを考えている。「ごめん、メグ、私、メグとキス、出来ないよ」
メグミコは目を開けて。
その瞳に涙を溜めた。
メグミコは俯く。
涙が落下する。
「スズのバカぁ!」メグミコはがなった。
メグミコの紫色の髪の毛が煌めく。
メグミコは激昂し、雷を編んだ。
咄嗟にスズはラジオを手にした。
最終兵器のラジオはメグミコの雷を全て吸収した。
バッテリのゲージは満タンになった。
おそらく変換できなかった分の雷が、スズの手をわずかに痺れさせた。
メグミコはエネルギアを失い、髪の色を黒くした。
「も、もう、」メグミコの呼吸は荒かった。「知らないんだからぁ」
そしてメグミコは箒を手にして、跨がり、舌を「べぇ」って出して、空中に飛び出した。「スズのことなんて大っ嫌いだぁ!」
「あ、ちょっと、メグ!」スズは呼び止めた。「エネルギアがゼロでしょ!?」
「ふぇ?」メグミコはスズに向かって振り返る。すでにメグミコの体は空中にある。そしてそのままメグミコは重力に従って落下した。「きゃああああああああっ!」
「メグ!」スズは慌てて箒に跨がった。
真下に滑空。
スズはメグミコに向かって、手を伸ばす。「メグっ!」
メグミコもスズに向かって手を伸ばす。「スズっ!」
もう少し。
もう少しで、届く。
そのときだった。
メグミコが風にさらわれた。
金色の風にさらわれた。
いや。
魔女に。
掬われた。
その魔女はスズの頭上でメグミコをお姫様抱っこしている。
そして見上げるスズに向かって微笑んだ。「駄目よ、いくら魔女だからって、こんな高い場所にいちゃ駄目よ、魔女も箒から落ちるって言うでしょ?」
「……あなたは?」スズはもしかして、と思っていた。アンナを狙っているという、魔女は確か光と風のデュアルの煌めき。「……金魚の会の?」
「ご明察、」魔女は優雅に微笑む。「私は金魚の会の千場ミチコト、じゃあ、細かいことはまた、後で、そうね、電話するわ」
そう言って、ミチコトはメグミコを抱いたまま飛び立った。
「え、ちょっと、メグを返して!」
スズは追いかけた。
しかしとてつもない風が吹いて。
魔女がとてつもない風を編んで。
前に進めなかった。
箒にしがみついているのがやっとで。
目を開けていられなかった。
目を開けたときには、明方市の全ての雲が空から消えていた。
黄昏前の晴天が広がっている。
どこにも魔女とメグミコの姿が見えない。
スズはその場でくるくると旋回し続けた。
でも見える明方市のパノラマのどこにも、魔女はいない。
目を瞑って。
耳を澄ませた。
メグミコの声が聞こえるんじゃないかって。
耳を澄ませた。
耳を澄ませて聞こえたのは、ロックンロール。
エネルギア満タンのラジオから聞こえる、唐突なラブソングだけだった。




