フールソング・フロム・センチメンタル
ピンク・ベル・キャブズ。
それは女性専用のキャブズ。男性に極端な拒否反応を示し、男性を後ろに乗せて飛び、運ぶことの出来ない、恥ずかしがり屋の魔女の仕事だった。ピンク・ベル・キャブズ明方支店は明方市駅から、イエロのメガーヌで西に二十分走った場所にある。周囲は完全な住宅地で、背の高いビルもない。道は狭く、車の往来も少ない。ランドマークと言えば、特殊武装集団『村崎組』の本部である、巨大な日本家屋の村崎邸。それから、魔女に選ばれた少女たちが通うことが出来る、名門、明方女学院がそれに当たるだろう。駅前の喧騒から遠く離れた場所に、ピンク・ベル・キャブズと周囲にサインする、ピンク色のベルが下がった看板が存在していた。
支店のビルは縦に細長い三階建ての建物で、一階はガレージ、二階は居住スペース兼事務所で、三階はアトリエになっている。アトリエは店長である跡見クウスケのもので、彼の実家は比較的近くにあるのだが、一日の時間のほとんどをアトリエで過ごしていた。壁際には布団が敷いている。枕元にはティッシュ。壁には跡見が描いた絵が飾ってある。全てが魔女の肖像だ。そのほとんどがピンク・ベル・キャブズで以前働いていた、恥ずかしがり屋の魔女たちの肖像だった。その中に紛れて、出会ったがしかし、一緒に働くこと叶わなかった魔女の肖像もある。
そんな魔女たちの肖像に囲まれ、アトリエの中心で跡見は丸い椅子に座り、アコースティック・ギターを掻き鳴らしていた。
歌を作っていた。
事務所で、電話も待たずに。
それはセンチメンタルのせい。
今日は。
跡見クウスケ、三十歳のバースデイ。
三十歳の、記念すべき、アニヴァーサリィにおいて。
誰も祝ってくれる魔女はいなかった。
今年三月。
桜が咲き始めた季節に。
ここで働いていてくれた、最後の魔女が辞めた。
支店の道路を挟んで向かいには、小さな神社があり、鳥居を覆い隠すように、春には桜が咲き乱れる。
最後の魔女は明方女学院の三年生で、進学のため、この土地の離れることになった。土地を離れ、王都ファーファルタウに留学するのだ。彼女には未来がある。夢がある。そんな彼女を引き止めることなんて出来なかった。
彼女はピンク・ベルゆえにもちろん男のことが大嫌いで最初はグーで頬を殴られもしたし、彼女の炎で燃やされもしたけれど、最後には跡見と普通に会話出来るまでに成長した。彼女は跡見に感謝していると、花びらが舞い落ちる、神社の桜の木の下で言った。「私、クウスケ君には、感謝しているんだよ、クウスケ君に会わなかったら、私、これからの未来に予告して沢山の男性を殺してしまっていたかもしれない、でも、クウスケ君と働いていたら、もう全然、大丈夫って気になった、」彼女は素敵な笑顔で言う。「だって、クウスケ君より、気持ち悪い男なんていないものねっ!」
「気持ち悪いって、冗談だろう?」跡見は笑いながら、彼女の肩を触り、引き寄せて、最後だし、キスしようとした。それが許されるシチュエーションだと思ったのだ。「スピカ、俺は」
「嫌、ちょっと、勝手に触るな、」スピカはマジの目で跡見のことを睨み、拒絶した。「冗談じゃねぇし」
「え?」
「最後にね、クウスケ君、」スピカは一度咳払いをして、人差し指を立てて、きちんと距離を置いて言った。「クウスケ君は、自分が思っている以上に気持ちが悪いっていうことを自覚して、ああ、その、外見的なことじゃないよ、私の魔女じゃない友達に言わせれば、クウスケ君は格好いいみたいだよ、でもね、なんていうかな、滲み出るというか、溢れるというか、なんというか、こう、」スピカはオーバに両手を動かしながら言う。「天性の気持ち悪さを持っているというか」
跡見は笑えなかった。「……笑えないな」
「笑えないよ、」スピカは頷き言う。「笑える話をしているんじゃないんだよ、クウスケ君の未来のことを心配して、最後だから、こうして言ってあげてるんだよ、普通の魔女だったらこんなに優しくないよ、アドバイスなんてしないよ」
「ははっ、」跡見は渇いた笑いを見せ、スピカの頭に手を伸ばした。撫でようとしたのだ「最後まで厳しいなぁ、スピカは」
「だから触るんじゃねぇっての!」スピカは跡見の手を払って怒鳴る。「気持ち悪いんだよっ」
スピカはきっと、別れが寂しくてこんな風に強がっているんだと思った。
だから、跡見は話題を変える。「今日は最後だから、スピカに、何か、ごちそうしてあげるよ、何かリクエストがある?」
「クウスケ君、何言ってんの?」スピカはとても迷惑そうな表情で言う。「明方での最後の夜だよ、魔女の私は、同級生の魔女たちとパーティをするんだよ、楽しい夜を過ごすんだよ、男となんか過ごしたくないんだよ、魔女としてこの気持は当たり前だよ、それくらい分かりなさいよ、気持ち悪いんだから」
「そうか、なんていうか、とても、」跡見はちょっと、笑えなかった。「残念だな」
そんな残念な別れがあってから、ピンク・ベル・キャブズ明方支店には、魔女はいない。募集の案内をフリーペーパにも載せている。何度も元国会議員の先生と並んで駅前でチラシを配った。面接に来てくれる魔女も何人かいた。しかし、なぜか、こちらが採用の連絡をしようとしても向こうが電話にでなかったり、辞退を泣いて謝られたりした。本当に、一体、なぜだろう。どうして泣くんだろう。跡見は途方に暮れた。
深夜にイエロのメガーヌを走らせ、タクシー・ドライバとして生活費は稼げることは出来るけれど、やはり事務所に魔女がいてくれなければ、寂しい。寂しいのだ。愛してくれなくたって、気持ち悪いと言われたって、いないよりいたほうが、心が満たされる。平和な気持ちになれる。生活が潤う、というものだった。
寂しいまま。
センチメンタリズムの峡谷に嵌ったまま。
三十歳のバースデイを迎えてしまった。
傍に魔女がいてくれると思った未来に、いない。
だから、跡見は昼間からウイスキのボトルを開け。
ギターを鳴らし、歌を作っていた。
こういう自分のどこが気持ち悪いのだろうか。
素敵じゃないかと思うのだ。
歌も歌えるし。
絵も描けるし。
支店長としての地位もある。
魔女に愛される男として、許されるのではないかと思うのだ。
歌が出来た。
ちょっと、下らない、馬鹿らしい歌だけれど。
誰にも負けない愛の歌が完成した。
センチメンタリズムから、歌が出来たのだ。
この歌を誰かに聞かせたい。
魔女に。
魔女に聞かせたい。
そんなときだった。
階下のチャイムが聞こえた。
跡見はギターをスタンドに立てて、階段を降りた。
途中、足を滑らせた。
飲み過ぎだ。
平衡感覚はゼロだった。
転がって、そのまま玄関の扉に衝突する。
酒のせいか、痛みは鈍い。
額から血が出ているのが分かったけれど、全然痛くない。
気にせずに、玄関の扉を開けた。「……はい、どちら様で」
扉の向こうには。
銀色の髪の女性。
鋼の魔女がいた。
その姿はとても麗しく。
陶酔するほどのものだ。
いや、すでに酒には酔っているのだが、この評価にきっと間違いはないだろう。
魔女はまっすぐに跡見のことを見て言う。「……血が」
「え、血? ああ、こんなもの、」跡見は額を触って笑う。触ったら、ベッタリと手に血が付いた。「平気です」
「いや、平気じゃなさそうに見えますよ、」魔女は早口で言う。「早く手当しないと」
「いや、本当に、大丈夫だから、うん、えっと、そんなことより、」跡見は手の平を広げて彼女を静止させて聞く。「まさかここで働きたくて、ここに来たの?」
「違います」銀色の魔女は即答した。
「ああ、そう、」跡見は落胆した。ちょっとの奇跡を期待していたのだ。三十歳のバースデイを目の前の綺麗な、絵に描きたい魔女と過ごせるんじゃないかって期待していたのだ。それなのに期待を裏切られるのは早かった。もっとゆっくりでいい。落胆したせいか、額の傷が痛み出した気がする。「……それで、何?」
「私、こういうものです」鋼の魔女は名刺を差し出した。
その名刺を見て、一度魔女に微笑んだ。彼女も微笑み返してくれた。そして隙を見て跡見は玄関のドアを閉めようとした。彼女の鋼鉄製のハイヒールによって、それは阻まれた。魔女は「んふふっ」と愉快そうに笑って言う。「私、甲原リッカと申します、ピンク・ベル・キャブズの本店から参りました、もちろん、ご用件は、お分かりですね?」