第二章⑬
十一歳のバースデイ。
この世界から選ばれなかった私は。
そのときに選ばれなかった私はずっと。
きっと。
この瞬間を待っていた。
ずっと考えていたのは、空の飛び方。
絵を描き。
表現していたのは、空に向かう意志。
髪の色を染め。
思考を魔女と、定め。
いずれ来る、色、鮮明な明日を待っていた。
その明日とは、今日。
唐突と言えば、そうだった。
予感があったと言えば、それはアンナから感じていたことだった。
アンナは不思議だった。
普通の女の子のくせに。
特殊な世界にいて。
普通では知ることのない世界のことを知っているような。
遠い顔で笑っていたから。
その顔は私に優しく。
私が抱きしめたいと思うほど愛おしく。
魔女が見る世界を知らない私のことを嘲るような。
とても許すことの出来ない顔をしていた。
私はそんな顔をするアンナに。
私のことを覚えて欲しかった。
私のことをもっと見て欲しかった。
私のことを知ってもらいたかった。
私のことを愛して欲しかった。
だから、私は三十六度も黒猫のピカソに、アトリエから世界へ、旅立ってもらった。
少しでも、アンナと見つめ合える時間が増えるように。
そんな回りくどいことをしたのは。
それが魔女の思考だと、思ったから。
スイコには「何、それ?」と言われた。「魔女のことをバカにしているの?」
「魔女じゃない私に、魔女のことが分かるわけがないじゃない」
私は開き直った。
こんなに素直に、笑顔で開き直ることが出来るなんて、今までなかった。
それはきっと。
明日が近いから。
待っていた明日が近いから。
その明日は今。
この受けた傷が、曰くつきのものだとしても。
煌めく線が。
髪が煌めくのならば。
後は飛ぶだけ。
その色に従い。
飛ぶだけ。
スイコを先頭に、ナルミ、マアヤの順番で、明方ターゲット・ビルの止まったエスカレータを登った。
三階でエスカレータは終わっていた。
天井の高いフロアを通過して、離れた位置にある階段に向かう。
銃声が響く。
二発。
マアヤが初めて聞く音だった。
銃声とはなんと、鋭いのだろうと、思った。
しかしでも。
体のどこでも恐怖を感じない。
恐怖を知らないだけかもしれない。
けれど、感じない。
感じないのだ。
それはきっと。
スイコに体を売ってから。
スイコに体に刻んでもらってから。
スイコに心臓にギアを縫い付けてもらってから。
確実に。
変化しているから、感じない。
四階への階段を登る。
巨大な炸裂音。
赤い炎の色が見えた。
スイコとナルミは途中で立ち止まったが。
マアヤは速度を落とさずに階段を登った。
四階に出る。
体に比べて大き過ぎるナイフを持った少女が、声を上げて、光の魔女を襲う瞬間を見た。
光の魔女も声を上げて、風を起こし、少女を吹き飛ばす。
少女は通路の先に背中から落ちて、そのまま動かない。
魔女はアンナの横に跪く。
アンナは仰向けに倒れていた。
顔は向こうを向いている。
彼女の表情は分からない。
光の魔女は爪を立てた。
殺す。
小さな光の魔女は確かにそう、発声した。
それはちょっと。
いや、かなり。
絶対。
許せないことだ。
まだキスもしていない。
それよりももっと凄いこともしていない。
マアヤは収束する。
意志が、収束する。
渦を巻いて、世界が迫ってくる錯覚。
その妙に。
心臓が震えた。
えっと。
魔女になるにはどうすればいいんだっけ?
スイコから説明を受けたんだけど。
よく覚えていない。
いや。
でも。
分かる。
マアヤはゆっくりと目を瞑り。
そして開いた。
息を吸う。
これほど息を吸ったことがないってくらい、吸った。
「簡単にギアが繋がるなんて思わないでよね、」スイコのアドバイスを思い出す。可愛い声のアドバイスを思い出す。「世界の掟の綻びを呼び寄せることは、とっても大変なことなんだから、世界の掟の綻びを呼び寄せるための一番の近道は、決意の表明、すなわち、叫び、叫喚、絶叫」
そのアドバイスに素直に従って。
マアヤは叫ぶ。
「ろっくんろぉおおおおおおおおおおおおおおおおおる!」
マアヤの心臓を中心に刻まれた模様が鋭く発光。
そして左足を前に踏み込んだ。
絨毯が覆う通路。
僅かに衝撃を和らげ、絨毯は意味を失う。
地上二十九階の明方ターゲット・ビルが、一度。
縦に揺れる。
スイコからプレゼントされたブーツはドゥービュレイ製。それでマアヤは踏み込んだ。
陥没。
姿勢が前傾になる。
そしてマアヤの体の軸から巨大なレバーが出現する。
垂直に。
ニュートラルに。
両手で掴めば、それは固く、冷たく、太く、色は滲んだ黄金だった。
マアヤはレバーを前に倒す。
声を上げる。
重い。
でも。
倒せない重さじゃない。
不可能なことじゃない。
一筋の可能性は見えている。
だから絶対に。
繋ぐ。
繋がりたい。
繋がりたいんだ。
このままじゃ終われない。
明日に行くんだ。
「ああああああああああああああああああああああああああああっ!」
強引にレバーを前に押し込む。
ギアを。
ハイに繋ぐ。
強がりに担保された、揺るがない勇気というか、なんというか、そういうものにきっと。
繋がる。
繋がった。
瞬間。
変わる。
変わった。
緑のスプレで付けた色が弾け。
本物の緑色が。
とてつもない緑色が、マアヤの髪に煌めいた。
これが色。
これが色か。
そしてなぜか。
心に優しさが満ちる。
なんだろう。
誰かの気持ちだろうか。
流れこんでくるものがある。
とにかくマアヤは。
宙返りしそうなほど、浮き足立っている。
これが魔女か。
魔女モード。
三分とちょっと。
魔女だ。
緑の魔女だ。
「よっしゃあ!」後ろでスイコが叫び、その場で跳躍した。「成功だっ!」
「……凄い、」ナルミの声は震えていた。「これが、そうなんだ」
「嘘、」小さな光の魔女は丸い目をさらに丸くして言う。「この街に、二人目?」
「アンナから離れてっ!」マアヤは人差し指を光の魔女に向けて言う。言ってから、魔法の編み方を知らないことに気付いて、後ろの二人を見る。「えっと、えっと、」マアヤは笑顔でパニックだった。早くしないと、三分とちょっとの魔女モードが終わってしまう。「魔法の編み方が分からないんだけどっ!」
「右手をギュッと握って、」ナルミはマアヤの右手を触り、包み、握らせ、そして耳元に唇を近づけて、優しく囁いた。「シガレロをイメージして」
「シガレロ?」
「ラッシュを編んで、」ラッシュとは、魔女の能力を一時的に向上させるもので、それには様々な種類があり、その効果も形状も違う。シガレロの形のラッシュは最もポピュラなものだった。ポピュラと言うのは、おそらく簡単というくらいの意味で使われているのだろう。「イメージして、形を、注ぎ込んで、あなたのエネルギアを、そして緻密に編んで、編み込んで、でも、あまり待たせるのは嫌いよ」
マアヤはナルミの声に耳を傾けながら、その言葉通りのことをした。具体的に何かをした、ということではなく、抽象的に、なんていうか、イメージを鮮明にしていった結果だった。これがすなわち、魔法を編む、ということなのだろうか。分からない。でも、何かが手の中に出来た。
「研究を手伝って上げてもいいよ、」ナルミはマアヤの髪の毛を触り、そして手を開かせた。葉巻があった。これを自分が編んだのだと思うと、凄く、なんていうか、凄いと思った。「あら、この太さ、」ナルミはそれを摘んで、口に咥えて言う。「優秀じゃないか」
マアヤはナルミにそう言われ、嬉しかった。誰かに褒められて嬉しいと思うことは、久しぶりの体験だった。絵を褒められたって、歌が上手と言われたって、嬉しくなったことは随分となかった気がする。「ん、ふふふっ」
「あ、しまった、ライタがないな」ナルミはポケットに手をやりながら言う。
「はい、どうぞ、」ライタの火を付けたのは、光の魔女をじっと睨み、牽制し続けていたスイコだった。ナルミが咥えるシガレロの先が赤く染まる。「ナルミ、さっさとケリを付けよう」
「懐かしい味、」ナルミは煙を吐きながら、何の脈絡もなくそんなことを言う。「涙がこぼれそう」
「もう一本編んでくれる?」スイコがマアヤに言う。
マアヤはすぐにシガレロを編んで渡した。今度の方が上手に出来た気がする。
スイコはシガレロを吸って、悠長に煙を吐いた。「ちょっと、濃い味ね、でも、ホント、懐かしいな」
「スイコ、そう言えば、アンタ、シガレロを吸うようになったの?」ナルミも悠長に聞く。
「え、あ、うん、」スイコはぼんやりとした表情で頷く。「やっぱり、火が、恋しいのかな」
そして次の瞬間。
二人の群青色の髪の色は信じられないほどの煌めきを見せた。
『さあ、』二人は声をユニゾンさせて、小さな光の魔女に近づく。『どうする?』
「ず、ずるいっ!」光の魔女はアンナから離れ、後ろに引き下がって、涙目で言った。それほど、スイコとナルミの顔が怖かったのだろう。「大人のくせに、ラッシュも吸って、二人がかりだなんてっ!」
「だから何なの、だから何なのよ?」ナルミは手錠を取り出し、指指でクルクルと回しながら怒鳴った。「いいから、さっさと手を前に出せ、こらぁ!」
光の魔女は背中を向けて逃げた。
「ジステロ」ナルミは水の魔法を編み、光の魔女を水の中に包み込み、捕まえた。
手錠が光の魔女の手に掛かった。
施錠される音とともに、マアヤの三分とちょっとの魔女モードが終わる。
最高の時間だったな。
そう思った。
その瞬間だった。
痛みがマアヤの全身を襲った。
それは立ってはいられないほどだった。
頭痛が痛い。
頭を押さえる。
その痛みは許せないほどだった。
スイコに助けを求めたが、彼女は表情を変えずに言う。「いつも、魔女から戻った後は、そうなるから、とにかく、慣れるのよ」
「慣れないよ、」仰向けに倒れたままの、アンナが顔だけこちらに向けて言う。「これには絶対慣れないよ」
ふと。
スイコを見れば。
まるで悪魔の表情で、笑っていた。
「……最低だ」マアヤは額を抑えた。この最低な痛みの話は聞いていない。
意識はもう、どこかに消えた。




