第二章⑩
明方第二ビルの地下一階にある、『ゴールド・クリーム』というロックンロール・バーに藤井とヒカリの二人はいた。狭いステージでは大学生くらいの四人組が、ファーファルタウのフォレスタルズというバンドのカバーを演奏していた。今、鳴っているのは『チェルシの魔女』というダンス・ナンバだ。
出鱈目に光る照明。
その色を反射するミラーボール。
四人組は狂ったように演奏している。
狭いステージの前には二十人くらいが集まり、こちらも狂ったように、踊っていた。
藤井とヒカリはステージから離れた、一段高くなった場所にあるバー・カウンタ横のテーブル席に向かい合って座っていた。ステージから距離があるため音はこの場所までは激しく響かない。だから特に大きな声を出さなくたって、藤井の声はきちんとヒカリに伝わるのだが、黙っている時間の方が長かった。
「なんでよりによって、警察なんかに、」藤井はヒカリの目を見ることは出来ない。手はテーブルの上のシガレロの箱を掴んだ。「驚いたよ、血は争えないって、こういうことを言うのかな」
藤井がシガレロを揺すって咥えると、ヒカリは灰皿の横に置いていたライタを手にして火を付けた。「ここに来て六本目だよ、吸い過ぎじゃない?」
藤井は横を向いて、煙を吐いた。「なんていうか、もう、」藤井は無理に笑う。「吸わないと、お前と一緒にいられない予感がする、ああ、アルコールももちろん、不可欠だ」
藤井は言って、グラスに注がれたワインを一気に飲んだ。空になったグラスを持ち上げて、バー・カウンタの方を向いて、声を張って同じものを注文した。酒はそんなに強くない。クラクラする。
いや、きっと。
それはヒカリのせいだと思う。「……本当に、ソックリだ」
「え?」ヒカリはビールの泡を口元に付けている。「誰に?」
「俺が愛した人に」藤井はまっすぐにヒカリを見つめて言った。
「あははっ、」ヒカリは口元の泡を舌で舐めて笑顔を見せる。「パパって、そういうこと言う人だったんだ、知らなかったな」
「どうして、警察に?」
「スカウトされて、拂田さんに」
「スカウト?」
「うん、去年のマルコ・レースで一番早かったんだよ、まさに光のような速さで優勝したんだよ、私、それを見に来ていた拂田さんに声を掛けられて」
マルコ・レースとは滋賀県の半分の面積を占める丸湖という湖で行われる魔女のレースのことだ。「ああ、やっぱり、ヒカリは魔女なんだな」
「魔女じゃなかったら、特殊生活安全課にいないよ」
「ああ、それも、そうだな、」藤井は指先で短いシガレロを回しながら聞く。「その、ヒカリ、俺達は、何年ぶりに会ったんだ?」
「十三年だよ、」ヒカリは顔を近づけてきて、言う。「パパ」
「そうか、アイツが死んで、もう十三年になるんだな」
藤井と結婚してヒカリを産んだタマキが死んでから、もう十三年が経過したのだ。その十三年間、藤井は一度もヒカリと会っていなかった。タマキの家は代々教師の家系だった。タマキの父親はどこかの小学校で校長をしていて、母親は市の教育委員の役員だった。当然のように、タマキは教師になれと小さな頃から言われていたらしい。タマキは滋賀大学の教育学部に進学した。そこで藤井は彼女に出会った。そしてある日彼女は藤井に言った。
「私、本当は学校の先生なんてなりたくないの、大学で教育学の講義を受けて、その気持ちはいよいよ、大きくなった、もうどうしようもないみたい、教育ってなんだろうね、誰かに教えるってなんだろうね、誰かに教わるってどういうことだろうね、先生ってなんだろうね、ずっと探してたんだけど、結局、見つからなかったな、見つからないどころか、私、学校の先生って、皆、嫌いよ、煌めいていないくせに偉そうなことばっかり言って、決めた、もう、私、決めた、魔女の私は、警察官になって、この世界の平和を守るべきなのだっ!」
藤井はこの時、タマキが風の魔女であることを知った。そしてこの日の家にタマキは大学を中退して、藤井の狭いアパートに転がり込んで来た。突然始まった同棲。風の魔女として優秀だったタマキはすぐに警察の特殊生活安全課の魔女になった。彼女の働きにきっと藤井は影響されてしまったのだ。卒業間近、藤井は村崎組の門を叩いた。そして藤井とタマキは結婚した。セレモニィはしなかった。その代わり、緑地公園の教会の前で写真を撮った。二人とも、いつもより少しいい服を着ていた。結婚して一年後に、ヒカリが産まれた。ヒカリが七歳になるまでにタマキの両親は結婚を解消するように藤井に何度も言ってきた。村崎組の男となんて、と言われた時にさすがに切れてしまって、藤井はピストルを天に向けて引き金を引いた。村崎組を侮辱されるのは、何よりも耐え難いことだった。そんなことがあって、そんなに日にちが経っていない頃だった。タマキは魔女によって殺された。その魔女は当時、無差別テロを繰り返していた組織の一員で、罪のない人々を殺していた。魔女は無期懲役に処された。その判決を聞いても藤井は何も思わなかった。ただ、タマキを失ったことだけが、全てで、許せないことだった。藤井は精神的におかしくなった。何も出来ない日が続き、最終的に病院の一室が藤井の家になった。ヒカリの親権はタマキの両親に移った。藤井はヒカリを失っても、そのときは何も感じなかった。タマキのことしか考えられなかった。ヒカリを失った悲しみを知るのは、村崎組に復帰した、ずっと後のことだった。藤井はヒカリにずっと会いたかった。会いたかったけれど、ヒカリに会うのが怖かった。自分のことを恨んでいるんじゃないかって、怖かった。怖いまま、十三年が経ってしまったのだった。藤井はその間、村崎組の仕事に没頭した。没頭したのは、タマキとヒカリのことを考えないようにするためだった。それでもしかし、夢に見た。夢に見たヒカリはずっと小さいままのヒカリだったけれど、現実はもちろんそうじゃない。ここにいるのは成長したヒカリだ。成長したヒカリに出会えることを思わなかったということはなかった。そのときのことをふとしたときに、想像していたのだった。想像していたよりはずっと藤井は自然に会話が出来ていた。きっとヒカリがタマキに似ているからだ。ヒカリがずっと笑っていてくれるからだ。ヒカリの気持ちは藤井には全く分からないけれど、彼女の笑顔は見えている。それが嬉しくて堪らない。ヒカリの笑顔は、想像のどこにもなかったから。
「俺はまだ、」藤井は煙を吐いて言う。「ヒカリに謝っていなかった、……その、なんていうか、俺は、」
「そんなことより、」ヒカリは席を立ち上がって、藤井に手を差し出す。「ロックンロールを聞こうよ」
藤井はヒカリの手を触ることが出来なかった。
照れ臭かった。
それもある。
藤井は立ち上がり、気付けば暗く、静かになったステージに向かった。
ヒカリは差し出して手を引っ込めて、後ろに組んで、愉快そうに微笑む。
藤井はまだ、ヒカリが傍にいる真実を、夢だと思っている。
夢だと思って。
触ってしまったら。
消えてしまうのではないだろうかって。
まるで。
少女のようなことを考えている。
ステージでは先ほどとは違うバンドが準備をしている。
今回のメンバは皆、女性で。
それぞれ、なぜか。
メイド服を身に纏っていた。ボーカルを除いて、ギター、ベース、ドラムの三人が先に準備をしている。
先程よりも、ステージの前に人数が増えた。
「私、このバンドのファンなんだ」ヒカリが藤井の耳元で言った。
ボーカルが立つはずの、ステージ中央のマイクの前が開いたまま、オープニング・SEが鳴り始めた。
ピアノの音色。
まるで悠久の地球の存在を讃えるような、優しい旋律。
その音色にフロアが満たされて。
夢かと思うことがまた今夜。
起こった。
回転するミラーボール。
その細かい光は、遅れて登場して来たボーカルを照らす。
彼女の登場に歓声が上がる。
ヒカリも叫んでいた。
彼女はクリーム・ソーダ色のフェンダ・ストラトキャスタを肩に掛けた。
ああ、そう言えば。
その色のギターを、彼女のアトリエで藤井は見ていた。
彼女は絵を描く以外にも音楽をやるみたいだ。
彼女の左手に立つ、ギターを持つ、メイドを見れば、彼女は使用人の左近だった。
「今日は新しい私の誕生日なの、だから、皆、お祝いしなきゃいけないよ、そのための新しい曲をさっき作ったの、とっておきのバースデイ・ソング、」六弦を鳴らし、マアヤがマイクに向かって言う。「聞いて、『ティンクル・グリーン・ジェイダイト』」
マアヤの左耳のヒスイのピアスが光を反射して揺れていた。




