第二章⑧
明方市駅二階の北改札を出てすぐのところに『欠けた角』、というオブジェがある。
遠くから見れば、歪に天に伸びた竹の子のシルエット。その先端は、低い位置にある透明の天井を貫いている。それは水牛の傷付いた角の集合で、例えば城郭の石垣に見ることが出来る日本的な精緻さによって積み重ねられていて、角と角の間に隙間はない。素晴らしい技術だが、一体何を思ってこんなものを創ろうと思ったのか、藤井には理解不能だった。こんなものを駅前に飾ることを決断した役所の人間の思考も謎だ。謎だがしかし、『欠けた角』のインパクトは絶大で、ここは待ち合わせ場所としてしっかり機能していた。角の周りには緑が植えられ、さらにそれを囲むようにベンチが並び、若者たちが待ち合わせる大切な場所になっている。
さて。
明方市は夜の六時。
藤井は『欠けた角』に背中を向けて、一人、ベンチに座っていた。
拂田が電話で指定した場所はここで、そして時間は今だった。
藤井はシガレロの煙を吐く。
三十分前に、ここに着いた。
それから何度も煙を吐いている。
……一体、俺に会いたいとは、どんな風変わりな魔女だろう。
藤井は何度も時計を確認しながら、この時間と、まだ会ったことのない彼女を待っていた。
何度も煙を吐きながら。
いろんなことを考えた。
最初に彼女になんて言えばいいだろう。
どうやって、こっちにそういう気持ちがないことを伝えるのが正解だろうか?
アンナのボディガードをどんな風にして頼もうか。
トロイメライとは……。
ゴールド・フィッシュ・グループ。
金魚の会の魔女とは……。
いろんなことを考えていると。
初めてあいつと待ち合わせたときのことを思い出す。
大学のキャンパスの中庭のベンチだった。
俺はレポートを書くために借りた本を開いたまま眠っていた。
あいつは俺の肩を叩いて起こして聞いた。
「待ち合わせですか?」
俺は覚醒したばかりの頭で、必死に正解を考えた。
どうしてあいつが俺の肩を叩いて起こしたのか。
どうしてあいつがそんなことを聞くのか。
そういうことは考えないで。
必死で。
返事を考えた。
「君と」
それが俺が出した正解だった。
俺が生涯で最初に、おそらく生涯で最後に出した正解だった。
だから俺は、誰かを愛することの意味を知る。
知ることが出来て。
あいつのことを大切にしたいと思った。
あいつの小さな体を守らねばと。
強く思ったのだった。
そして。
失って。
この世界の掟を、恨んだ。
さよならがある世界を、許せなくて俺は。
俺はまだ。
違う世界を探している。
釈然とする世界を。
俺は……。
肩を叩かれた。
はっとして藤井は顔を上げた。
藤井は微笑みかける魔女を見て。
違う世界を見つけたのだと。
一瞬。
錯誤する。
藤井はあいつの名前を呼んだ。
どうかしている。
あいつはもう、この世界にいないのに。
「ママじゃないよ、」魔女は笑顔で首を横に振る。「ヒカリだよん」
藤井はちょっと、声を失った。
アルファと知って、こだま。
音と知って、光。
彷徨えば、白湯の煌めき。
ほのかに、焔に、雪。
視するもの、編まれた模様に対して、口を押さえる。
女になる瞬間を、イチトセと、鳴こう。
翼が、夜空を壊しているね。
月は一度、見捨てる素振りを見せた。
朝はもう、ない。




