第一章①
「ミャコちゃん」
いくら寝ても寝足りない。そんな日って、誰にでもあると思う。阿倍野ミヤコの場合、今日がその日だった。眠気に襲われるとはよく言うけれど、襲われたという自覚もないまま瞬間的に落ちてしまうのが仕方がないこととして、今日にある。もちろん、覚醒するまでに膨大なエネルギアと時間がかかっていまうことは言うまでもないことだ。
「ミャコちゃんってばぁ!」
隣の席の愛川ヨウコの声は聞こえている。しかしミヤコは動けない。健全な覚醒まで、あと二分はかかる見込みであるということは、どこか無意識が自覚している。体の方は未だ起動することを頑なに拒んでいる。
「阿倍野っ!」担任の吉永のヒステリック・ボイスとともに、何かが頭の天辺に衝突した。隕石に近い衝撃だ。「いい加減にしろよ、バカ野郎、殺すぞ、バカ野郎!」
天体史の分厚い教科書の角のおかげで、すっと目覚めることが出来た。ミヤコの席は教室の前方、一番前、教卓の目の前だ。ミヤコはすっと背筋を伸ばし、すっと目を開いた。いや、でも少し眠気が残っていて、すぐに半目になった。声のボリュームを上げるのは、ちょっと無理みたい。ミヤコは頭の位置を僅かに下げて、微かな、それはそれは幽霊のようなボイスで言った。「……おはようございますぅ」
「おはようございますぅ、じゃないよっ!」吉永は天体史の分厚い教科書でミヤコの机を叩いた。「朝のホームルームが始まってるんだよ、バカ野郎っ、堂々と突っ伏して眠ってるんじゃないよ、バカ野郎っ、もうちょっと居眠りがバレない努力をしろよ、バカ野郎っ!」
「……えへへっ、」ミヤコはまだちょっと、覚醒してなかった。自分でも謎なんだけど、なぜか可愛い子ぶるみたに首を傾げて笑ってしまった。「えへへっ」
「えへへっ、」吉永はミヤコの仕草を真似て笑ってから、こっちを睨んだ。「えへへっ、じゃないよ、バカ野郎っ!」
「……すいやせん」ミヤコはとりあえず、謝った。
こんな風に静かに、素直に謝ることってミヤコにとっては珍しいことだった。いつもだったら、バカ野郎って何度も言われたら怒鳴り合い、拳を振り回す喧嘩に発展するんだけれど、今日はちょっと、そんな風には暴れられなかった。
「すいやせんって、おいおい、」吉永はいつもと違うミヤコに僅かに戸惑っている。「いつもの調子じゃないじゃないか、え、何か、あったのかい? 悩みごとかい? 丁度いい、今は朝のホームルームの時間だよ、だから今から、阿倍野のお悩み相談会を始めるかい?」
「別に、そんな、悩み事なんて、」ミヤコは微かな声で首を振って、目を擦って、堪えきれずに欠伸をした。「ありませんよぉ」
「ありませんよぉ、ってか、おい、せっかく優しくしてあげたら、もう、この娘は、もう、剽軽になっちゃって、欠伸までしちゃって、もう、せっかく私が、六回もバカ野郎ってお説教したのに、もう、困っちゃうね、もぉ!」
「えへへっ」ミヤコは笑った。やっと、目がちゃんと何かを見れるようになってきた、という感じだった。横目で隣の席のヨウコを見れば、不思議そうな目で、ミヤコのことを観察している。視線が合うと、ヨウコは笑顔を作った。ヨウコは黒くて暗い性格の、どうしようもないナルシストなんだけど、彼女の笑顔は絶品だった。まあ、自分の方がずっと美人だけど、とヨウコよりもずっと黒くて暗い性格の、どうしよいもないナルシストのミヤコは、そう思っている。
「だから、えへへっ、じゃないんだよ、バカ野郎、」吉永は天体史の分厚い教科書を教卓に置きながら言う。「今日は、ええっと、そうだった、転校生がこのクラスに来るんだった、お前のせいで忘れしまってたじゃないか、バカ野郎!」
転校生、という響きに、明方南高校一年二組の三十人が騒然となった。人見知りで、新しい友達を作ることなんて無意味だと思っているヨウコは「ふうん」っていう感じで頬杖付いていた。ヨウコ以上に人見知りで、新しい友達を作ることなんて無意味だと思っているミヤコは、特に何も思わないで、再び来る睡魔に挑む準備、いや、迎え入れる準備をしていた。転校生なんて、関係ないと思った。
「それじゃあ、」吉永は教室の扉の方に向かって怒鳴る。「おい、入っていいぞ」
扉が開く音が聞こえる。
そのとき、すでにミヤコは睡魔にコロっとなっていた。
クラスがかなり騒然となった。
「おい、静かにしないか、」吉永がまた、怒鳴る。「うるさいぞ、静かにしないと殺すぞ、バカ野郎っ」
歓声は僅かに、男子が多めか?
「静かにしろって言ってるんだよっ!」
吉永の声は、キレかかっている。
クラスメイトたちは敏感にそれを察知し、押し黙る。
「はい、それじゃ、自己紹介して」吉永は転校生に乱暴に言う。
「はい」
転校生の頷いた声に、ミヤコの体がピクリと反応した。
凛と響く、澄んだ声。
アニメのキャラクタのような声。
しかし、そのボイスは悪魔のアイツとは違って、ふざけてなくて、誠実さが含まれた、天使のボイスで。
心から可愛らしいと思える声だった。
チョークで黒板をなぞる音が聞こえる。
ミヤコは薄目を開いた。
ミヤコと同じセーラ服を纏った転校生の後ろ姿が見える。
その姿は小さく、リトル、という感じ。
僅かに先が内側に丸まった黒髪は膝裏まで隠している。
その髪の色が、ミヤコに誰かを連想させる。
ミヤコははっと、目を醒ました。
彼女が黒板に自分の名前を縦に、流麗に書き、こちらに振り返るのと、同時だった。
「天橋立から参りました、冲方シキと申します」
クラスメイトに向けて言った後、彼女はミヤコにその大きな黒目を向けて、もう一度言った。「冲方シキと申します」
シキはミヤコと目が合って、優しく微笑んだ。
「皆様、どうぞ、よろしくお願いします、」シキが頭を下げると長い黒髪が揺れて、その香りがミヤコまで届いた。ちょっと、今までシキに抱いていなかった感情が芽生えた。「皆様、仲良くしましょうね、私たちは出会ってしまいました、すなわちそれは、私たちはもう、お友達、とうことですね、普通の学生生活に不慣れなゆえ、多大なるご迷惑をかけてしまうと思いますが、そのときは笑って許して下さいね、私、怒られるの嫌いなんです、産まれた時から天才少女だなんて持て囃されて、すっかり小さな頃から調子に乗っちゃって、私、十二歳で京都大学を卒業しています、もちろん主席での卒業ですよ、専門は数学だったんですけれど、私より数学が出来る人っていませんでした、天才ですからね、はい、それなのでもちろん、今でも調子に乗っていますよ、あ、趣味は魔法の研究です、と言っても魔女ではないのですけれど、でも、もう少しでなれそうなんです、なんて、冗談ですけれど、」シキは唇の隙間からペロッと舌を出した。そのときチャイムが鳴った。「はい、冗談が好きな私です、あ、そうそう、実は私、」
「長いんだよ、バカ野郎、」吉永はシキの自己紹介を遮っていった。「もう天体史の授業が始まる時間だよ、バカ野郎」
シキは自己紹介を遮られてムッとしたのか、吉永を睨んだ。「……なんなんですか、私の自己紹介を邪魔して」
「なんだ、その眼は?」吉永はシキを睨みつけて言う。「早く席に付けよ、バカ野郎、転校生だからって調子に乗ってんじゃねぇぞ、バカ野郎、蹴ってんじゃねぇぞ、バカ野郎!」
シキは悪い目をして、舌打ちして、教卓の足を蹴った。「バカ野郎、バカ野郎って、それしかないのですか? ボキャブラリの少なさに、うんざりしますわ」
「訳の分からないこと言うんじゃねぇぞ、バカ野郎!」
「私の席はどこですか!?」シキは吉永を睨み返す。「バカ野郎っ!」
「お前みたいな問題児は一番前だ、」吉永はミヤコとヨウコの隙間を指差し言う。「バカ野郎席だよ、バカ野郎!」
シキはミヤコとヨウコの隙間を見てヒステリックに叫ぶ。「椅子がありませんっ!」
「自分で探して来いよ、バカ野郎っ!」
「机もないっ!」
「自分で探して来いって言ってんだよ、バカ野郎っ!」