第二章③
夜になって村崎邸にアンナとスイコとシキが来た。そのとき、藤井、辻野、松本、それからシステムエンジニアとして小さな会社で派遣社員として働いている北村、ダイハツのディーラで店長をしている野上の五人は応接室に集まり、村崎組でラーメン屋をやろうか、という誰か言った冗談について真剣に議論していた。
「俺は味噌だと思うんだよ」
もしラーメン屋を開業した場合、どの味を売りに出すか、という問題について藤井が真剣に発言した時に、応接室の扉が開き、アンナとスイコとシキが入ってきた。
「こんばんは、只今、天橋立の方から戻りましたわ、皆さん、お久しぶりですね、」シキは笑顔で言う。シキと会うのは一年ぶりくらいだったが、その頃に比べると随分大人びていた。いや、まだ十分子供にしか見えないけれど、一年前はもっと子供だったという話だ。「あら、あなたとは初めてお会いしますね、お名前は?」
「……松本です、初めまして、」ロン毛の松本はシキを見て、顔をピンク色にして立ち上がり、シキに手を差し出した。「お会いできて光栄です」
シキは握手せずに、ニッコリと微笑み返した。「ここ、座っても?」
「あ、ええ、」松本は藤井と辻野が座る対面のソファの前から移動して後ろに回った。「もちろんです」
野上と北村も、三人の女性のために席を立った。
「ありがと」シキはソファに座った。
「……ただいま」アンナは、いつもと違う、ダーティな雰囲気で言った。藤井が危惧したように、昨日の黄昏時の出来事が、彼女の心に少なからず影響を与えているようだ。
乙女心の分からない男五人は皆、一斉に黙った。
この妙な沈黙をどうにかしなくてはいけないと、藤井はわざとらしく咳払いをして、笑顔を作って言う。「……おかえり、元気そうじゃないか、ははっ、てっきりもっと、塩らしくなっているかと思ってたんだがな、ははっ、……はぁ」
「……何が味噌なの?」アンナはシキの隣に腰掛けながら藤井に言う。
「いや、別に、」藤井は笑顔を消した。どうして真剣にラーメン屋のことなんて考えていたんだろうと思った。きっと疲れているんだ。「別にラーメン屋をやろうか、なんて話していたわけじゃないぞ」
スイコは無言でアンナの隣に腰掛け、大きく息を吐いた。とても疲れた顔をしている。隈が凄い。スイコは後ろの北村に言う。「北村君、ごめん、シガレロ、ある?」
「ああ、はい、どうぞ」
北村はくたびれたYシャツの胸ポケットからシガレロの箱を出して揺すった。スイコはシガレロの先を指で摘んで咥える。それに北村は従順に、鋼鉄製のジッポライタで火を付けた。まだ三年目の北村はちょっと風変わりな水の魔女に対して、藤井の見立てだと、特別な感情を抱いている。北村はスイコの横顔をじっと見ていた。
沈黙。
誰もがほっとしない静けさが来る。
スイコがテーブルの灰皿を自分に近づけながら、煙を吐く。
シキは指先に、髪を巻きつけていた。
アンナは下を向いたまま、膝の上でぎゅっと拳を固めている。言いたくないことを言うための準備をしています、という感じ。
藤井はシガレロに火を付け、煙を吐いてから言った。おそらくこれじゃないな、という議題から切り出すのが、大人のやり方だ。それはつまり、アンナが何を言いあぐねているのか、サッパリ分からない、ということだが。「入院代は出してやるから安心しろ、色々あって、体も辛いだろうし、しばらくは呼び出しはしないから、今日ももう、帰ってゆっくり休め」
「入院代を払うのは当たり前でしょ、職務中だったんだから、それに、そんなお金、払えないし、払えるわけないし、貯金なんてないし」
アンナは母親と二人で暮らしている。村崎邸から自転車で十分の距離の蓬莱荘というアパートの二階の一室が親子の住まいだった。アンナの母親は明方ホテルでパートとして働いている。稼ぎは少ないだろう。彼女は娘が村崎邸に出入りしていることをよくは思っていない。まあ、当然の反応だろう。村崎組が何をしている組織なのか、本当のことを知っている人間は多くない。
「でも、驚いたな、アンナが殺れない魔女がいるとはな、三分とちょっとの時間、アンナは炎の魔女の最高傑作になるはずなのに」
「研究が足りないって言われたわ、」アンナは自虐的に笑う。「でも、普通の女の子のときって、魔導書を開いたってチンプンカンプンだし、もう、どうすればいいのって感じだわ、ちょっと、あの魔女には、千場ミチコトには勝てる気がしないな」
「おいおい、」藤井は少し驚いていた。「ちょっと、村崎組のアンナさんの発言とは思えないな、随分弱気じゃないか、一度やられたからって弱気じゃないか、まだガトリングガンを使ってないんだろう? サビを取って、ちょうどシキがいるし、完璧に直してもらって、リベンジだ、そうだろ?」
「こっちから行かなくてもきっと、向こうからまた来るわ、」アンナは藤井と目を合わせない。いつも睨んでくるくせに、やっぱり今のアンナは少し異常だ。「どうもね、私、あいつに狙われているんだ、あいつ私を殺す気みたいなんだ」
「復讐ですか?」辻野が聞く。黙っていられなかった、という感じで口を開いた。「アンナさんが殺した魔女に、関係しているとか?」
「そうじゃなくて、」アンナは自分の左胸に手を当て、ちょっと信じられないことに、何かに怯えるように震え始めた。「……そうじゃないんだ、私が殺した魔女とは、何も関係ないんだけど」
「ギアよ、」スイコが灰皿にシガレロを押し付けて答える。「細かいことをあなた達に言っても分からないでしょうけれど、アンナの心臓にはギアを縫い付けてある、歯車ね、あ、別に歯車の形をしているわけじゃないわ、ただそう呼ぶのに相応しいものだから、そう呼んでいるだけ、とにかく、その魔女は、アンナの心臓のギアを狙っているの、アンナを殺して奪おうとしているの」
「魔女の言うことはよく分からんな」藤井は小さく言った。
「その、ギアを奪って、」辻野はきちんと理解しようとしているらしい。それがおそらく若さだろう。「ギアを奪って、何をしようとしてるんです? いや、そのギアで、何が出来るんですか?」
「さあ、」スイコは首を横に振る。「まあね、ギアは、簡単に言えば、エネルギアの塊、アンナを殺そうとしたのは『金魚の会』という組織の魔女、彼女たちの目的は、天使になること、即ち、魔女としての限界に立つこと、その目的のためにギアを欲しがっている、ということは確かだと思うけど、どういう方法でやるのかは知らない、私が知っているのは普通の女の子をギアによって煌めかせる方法だけよ、とにかく何か、彼女たちのみが知るものが、あるのでしょうね」
スイコはそこまで言って、アンナの肩を抱いた。
「……アンナ、大丈夫だよ、」シキはアンナの手をギュッと両手で握り締めている。「大丈夫だから、私がいるから、ここには私が発明した沢山の武器もあるし、大丈夫だよ」
藤井はちょっと正面を向いていられなかった。
女子高生の涙に直面した時の対処法は、すでに忘れてしまった。
アンナは震えながら、必死に声を出さないように堪えていた。
しかし、涙はどうしようも出来ないらしい。
「……ごめんなさい、」アンナは声にならない声で言う。「……私、ちょっと、ビビってて、その、どうかしてるの、震えが止まらなくて、こんなの絶対、私じゃないんだけど、ごめんなさい、しばらく私、村崎邸にいて、いいですか?」
藤井は大きく咳払いして言う。「……ちょうどよかった、今朝、ジャスティーンから連絡があってな、」ジャスティーンというのはメイドの大学生アルバイトの女の子のことだ。もちろん日本人で、本名は別にある。「あいつ東南アジアの遺跡の調査に行くとか、なんとかで、長いこと村崎邸に来れないらしいんだ、だから、あいつが来るまで、アンナ、お前がメイドだ、そうしよう、うん、それがいいな、ははっ」
藤井は誰にも気付かれないように、小さく息を吐いた。




