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アンチ・ニュートラル・ガールズ・ギア/ガトリングガンが回らない  作者: 枕木悠
第二章 ティンクル・グリーン・ジェイダイト
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第二章①

日曜日。

 晴天。

 藤井と辻野の二人は地上三十四階の明方市タワー・ビルディングのエントランスを歩いていた。藤井の腕の中には市長の娘のペットである黒猫のピカソ。二人はビジネスマンの昼休みが終わった時間帯に、ピカソを届けに来たのだ。ここの最上階に市長の娘である弥城マアヤが住んでいる。

 エントランスの奥、エレベータの手前に頑丈そうな分厚いガラスの自動ドアがある。その脇のインターフォンに、藤井は彼女の住む部屋の番号を入力した。頭上のカメラが藤井と辻野を狙う。しばらくして応答があった。「……どちら様ですか?」

 マアヤの使用人の左近が出た。

 インターフォンのマイクに口を近づけて、藤井は猫撫で声で言う。「お昼時のお忙しい時間に申し訳ありません、私、村崎組の藤井、でございます、例によって本名は職務の都合上、申し上げることは出来ませんが、ええ、本日は、本日もお嬢様の黒猫のピカソをお届けに参りました、ほぅら、ピカソ、ご主人様に向かって鳴いてごらん、」藤井はピカソの口をインターフォンのマイクに近づけた。「ほら、みゃあって、みゃあって、鳴くんだよ、みゃあって」

 そんな藤井を見て、辻野が呆れた顔で言う。「藤井さん、何してるんですか?」

「ああ?」藤井は振り返って辻野を睨む。「鳴き声を聞けば、お嬢様が安心するかもしれないじゃねぇか、バカ野郎」

「いえ、カメラできっと、見えてると思うんですよね」辻野は頭上のカメラに一度視線をやって言う。レンズを見るときは、きちんと笑顔だった。営業スマイルってやつだった。

「……どうぞ、」インターフォンから使用人の声が響き、ドアが開いた。「あ、ちゃんと、カメラで見えていますよ」

 左近の優しいようなそっけない声音に、藤井はマイクに向かって返す。「素晴らしいアドバイス、ありがとうございます」

 二人はドアを潜り、エレベータに乗った。三十四階まであっという間だった。この高速エレベータのメーカは世界の東芝だ。ピンポーンと高い電子音が響き、ドアが開く。左右に伸びる通路を挟んだ向かいに一つの扉がある。色は濃いグレイで、ゴールドがその輪郭を縁取っている。ノブの色もゴールド。エレベータのドア以外にこの三十四階のフロアにある扉はその一つだけだ。三四〇一号室しかない。つまり、このフロア全体が市長の娘のマアヤのものだった。

 藤井はスーツの襟を正し、ネクタイを締め直し、小さく咳払いをしてから、ドアの脇のインターフォンを押そうとした。

 先にドアが手前に開いた。

 マアヤの使用人、メイドである左近が出た。ふわふわの茶色いロングヘアに、切れ長、というよりは完全に開いていないという感じのとろんとした瞳。一見優しげな顔立ちだが、表情にあまり変化がないのでいつも冷たい印象を受ける。左近は無表情で藤井と辻野を顔を覗き込むように確認して「どうぞ」と言って奥に下がった。

『お邪魔します』

 二人はマンションにしては広いスペースの玄関で靴を脱いだ。ピンクのファンシィなスリッパに足を入れる。玄関から続く廊下の壁には絵画が飾られていた。まさにピカソのような抽象画である。それはマアヤが描いたもので、十五歳で本来高校に通うべき年齢の彼女の日常は、ここで絵を描くことだった。父親である市長はどのように思っているのかは分からないけれど、一般的に言えば、彼女は普通の暮らしをしていない、と言えるだろう。

 いつものように、彼女のアトリエに案内された。トイレ、リビングを横に通過したその先に横にスライドする扉があり、左近はその扉を左に動かした。

 藤井と辻野はアトリエに入る。天井が高くなったその空間の中央にマアヤは裸足で立ち、キャンバスに向かっていた。白いTシャツに、短パン、という出で立ちだ。彼女の腰まで伸びる長い髪の色は濃い緑色。それは彼女が緑の魔女と言うことではなくて、ただ色が付いている、というだけの話だ。彼女が魔女に憧れている、という話は聞いたことがない。

 アトリエを入って左手には、油彩絵の具で汚れた幅の広い木製の机。奥の収納スペースには何枚もの色の付いたキャンバスが仕舞われている。その上に、太陽の光が射し込む丸い窓が二つ並ぶ。右手の壁一面には書棚があり、そのほとんどが写真集と画集、それから漫画だ。その手前に、作りかけ、といった感じの彫刻がある。これも抽象的で、もしかしたらすでに完成品なのかもしれない。彫刻に奥に、クリームソーダ色のフェンダー・ストラトキャスタがある。

「マアヤ、」左近は彼女のことを基本的に呼び捨てにしている。「筆を置きなさい」

 マアヤは筆を置き振り向く。右耳の翡翠のピアスが揺れている。彼女の唇は紅で真っ赤だった。メイクをしているというよりは、塗り絵をしたという感じだ。左近と同じ表情、つまり感情の読めない表情で、藤井と辻野を見る。藤井の腕の中のピカソが跳躍し、マアヤの足下を一周した。マアヤは細やかな笑顔で「おかえり」と言って、裸足の爪先でピカソを優しく蹴った。ピカソはマアヤから逃げ、おそらくそこが所定の場所なのだろう、彫刻の後ろにある、絵の具で汚れたソファの上で丸くなった。

「あれ、アンナは?」マアヤが藤井と辻野に聞く。

「アンナはちょっと、いろいろと、ありまして、」藤井はマアヤという素直じゃない少女がアンナに会いたいがために、わざとピカソを外に放しているいるのを知っている。三十六度も同じことをしていれば、十度目くらいで誰でも気付く、というものだった。アンナだって気付いているはずだ。しかし、アンナがマアヤのことについて何かを言うことを藤井は聞いたことはなかった。「ええ、いろいろとありましたので、今回は僭越ながら、僕らが、ピカソを、」

「いろいろって?」マアヤは背もたれが極端に小さい、キャスタ付きの丸い椅子を引き寄せて座り言う。「コーヒーを飲みながら、細かいことを聞かせてくれる?」

「ちょっと、それは、」藤井は愛想笑いを作る。「職務上の都合で話せないことなんです」

「ふうん、」マアヤは関心なさそうに頷いた。「まあ、いいけどさ、別に、アンナのことがすっごく気になるっていうわけじゃないし」

 藤井は考える。

 それがマアヤの本心か。

 それとも裏返しなのか。

 市長の娘で、おそらく一般的じゃない人生を過ごしている少女の心の真実を見極めることは、藤井には難解過ぎる。

「まあ、コーヒーでも、飲んでいきなよ」

 左近はキャンバスをアトリエの隅に移動させ、円卓、それから藤井と辻野の二人のためにマアヤが座るのと同じ丸い椅子を用意した。藤井はその椅子に腰掛けて、その座り心地の悪さに驚いた。声には出なかったが、表情に出ていたらしい。マアヤは藤井の反応に気付いたようで、クスリと笑った。確信犯だ。

 円卓の上にカップが三つ並んだ。マアヤはブラックのまま口を付けた。砂糖とミルクは用意されていない。辻野はブラックのまま飲んだ。藤井はちょっと、ブラックは苦手なので、お盆を胸に抱き、藤井の後ろに立つ左近に頼む。

「あ、すいません、砂糖とミルクを」

「え?」左近は思いもよらない、という風な表情を藤井に見せる。「なんで?」

「え?」辻野も同じ反応で藤井を見ている。

 藤井は何でそんな反応をされるのか、理解不能意味不明だった。

「いや、なんでって、」藤井は口元だけで笑う。「ブラック、苦手なんですよ」

「あははっ、」マアヤは高い声で笑った。「子供かよっ」


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