第一章⑬
「見つけたわ、女の子の歯車」
アンナは煌めく光の魔女の優しい微笑みに、ピースサインを作って微笑み返すことは出来なかった。
そのゴールドの煌めきは、圧倒的だった。
鳥肌が立つ。センチメンタルな鳥肌は好きだけど、こういう鳥肌は好きじゃない。
なんでだろう。
まだ分からない。
その恐怖の理由は分からないけど。
激しく揺さぶられる心臓は、アンナに警鐘を聴かせる。
アンナの重心が後ろに行く。
恐怖の対象からの、エスケープ。
それは素直な反応。
人間として、普通の女の子として、阿倍野ミヤコとして、世界の掟に縛られているものの、素直な反応だ。
しかし村崎組のアンナは素直じゃない。
いつだって、素直の反対に進むのが、村崎組のアンナだ。
思い描ける未来に行くのはもう、十一歳までで飽きたんだ。
誰も思い描けない、素敵な未来へ。
その舵を切るのは、自分だ。
恐怖に目を瞑るか。
睨みつけるか。
それは自分自身の判断だ。
それは自分のものだ。
問いかける。
自分に。
アンナに。
いける?
いけるの?
いけるの?
本当に。
いけるかって聞いてるのよ?
聞いてる?
アンナ。
いける?
返事をして。
返事をして。
早くして。
声が小さいって?
煩いのは、好きじゃない?
嘘?
本当?
それは君?
それは、私?
もうどっちだっていいでしょ?
理由はいらない。
ただ私の。
最高の今日のために。
叫ばせて。
「いけるかよぉおおおおおおおおおおぉ!」
アンナは左足を前に、踏み込んだ。
赤い絨毯が優しくドゥービュレイ製のブーツの底を包み込んだのは一瞬。
ブーツは床のコンクリートを砕いた。
陥没により、姿勢は前傾に。
教会の全てが縦に揺れた。
鐘の音が聞こえる。
不協和音。
ディスコード。
煩いな。
違うでしょ?
これは私が煌めく時にうってつけの、ビー・ジー・エム。
スイコがアンナに刻んだ模様が、心臓を中心にして体中に刻んだ模様が、紅く発光。
それは服を透過するほど、強い紅色。
それは世界の綻びを、呼び寄せる。
床を突き破り、アンナの体のちょうど軸に、巨大なレバーが出現する。
垂直な状態で。
つまり、ニュートラル。
アンナはレバーを両手で掴み。
「おらぁああああああああああああああああああぁ!」
叫びながら、前に倒す。
押し倒す。
強引に押し込む。
ギアをハイに繋ぐ。
繋がった。
瞬間。
アンナの髪の色が深紅に染まる。
アンナは今、魔女モード。
世界の掟から、離脱した。
熱い。
熱いね。
体温が上がる。
血が沸騰する。
楽しいね。
気分がいいね。
だから、魔女は。
やめられない。
「とても綺麗に咲いたわね、」光の魔女はうっとりとした表情で、魔女になったアンナを見ている。「どれくらいの間、綺麗に咲いていられるのかしら?」
「三分とちょっと、」アンナは微笑み、紅色の髪を払う。「私は魔女モード」
「あら、それだけなの?」光の魔女は黒いローブを床に落とした。ローブに黒猫のピカソは包まれた。「三分とちょっとで私から逃げられるかしら?」
「逃げる、何言ってるの?」アンナは細い焔を体の纏い、光の魔女に近づく。「逃げるのは、アンタ、追いかけるのが私でしょ?」
キス出来る距離まで近づき、アンナは光の魔女を睨みつけた。
背は向こうの方が高い。
瞳の色が蒼く。
色は透き通る程の白さ。
彼女はローブの下に、艶やかな着物を纏っていた。
黒い布地に。
黄金が斜めに走る。
彼女はアンナの焔から逃げるように一回転して、距離を置いた。
その際、背中に金魚が見えた。
白勝ちの桜錦が孤独に泳いでいる。
「私は千場ミチコト、」ミチコトはアンナの睨みを逸らすように、優しく微笑む。「『金魚の会』のミチコトよ、その再興のために私は、あなたの歯車を頂きに来ました」
「歯車って何よ?」アンナは早口で聞く。
「あなたの心臓にあるものよ、あなたの心臓をスペシャルにしているものよ」
「よく分からないけど、」スイコがアンナを魔女にするためにした細かいことを知らない。何かが心臓にあることは知っているけれど。「それをあなたに渡したら、私はどうなるの?」
「そうね、」ミチコトは口元に指を当て、いたずらっぽく微笑み、言う。「死ぬんじゃないかしら」
一瞬、目の前を恐怖が横切った。
アンナはそれを見過ごす。
そして来るスリルが。
堪らない。
間違いじゃない。
革命的な真実だ。
そうよね?
ミヤコもそう思うでしょ?
「バーニング、」アンナは手の平を上に持ち上げ、がなる。「スターダスト!」
天井、近い場所に、巨大な炎の星、一つ。
アンナが大切に、緻密に、迅速に、編み込んだ。
太陽だ。
それが落ちる。
ミチコトを襲う。
「シエルミラ」響く、ミチコトの流麗な声音。
圧倒的な煌めきを放ち、出現する、光の障壁、シエルミラ。
アンナのスターダストとミチコトのシエルミラが衝突する。
互いにそれは色を削り合う。
激しいクラクションが一度。
炸裂の衝撃波。
周囲の輪郭が見えなくなるほどの閃光。
二人が編み込んだものは消失。
煙漂う。
煙が沈む。
視力の回復とともに、状況を把握。
魔女でいられるのはあと二分を切った。
アンナはミチコトの背後を取った。
ミチコトの背中には。
白勝ちの桜錦が孤独に泳いでいる。
アンナは声を上げて、渾身の回し蹴りを叩き込む。
しかし。
シエルミラにブーツの爪先が弾かれる。
アンナの全身は後ろに飛ばされる。
絨毯の上を横に回転。
痛い。
痛い。
痛い。
でも、ブーツは無事だ。
「ドゥービュレイ軍のブーツね、」ミチコトは振り返り、言う。「間違いない、ブランドね、私のずっとずっと前のお祖母ちゃんは、ドゥービュレイの人だったの、そのお祖母ちゃんはドゥービュレイのあらゆることを非難していたけど、ブーツの頑丈さだけは褒めていたのよって、お祖母ちゃんが言っていたわ、だからブーツはシエルミラに弾けて、あなたは右足を失わなかった、でも、近い未来に予告して、あなたは死んでしまうのだから、意味のないところだけれど、ええ、とにかく、こういうことは早く終わらせましょうね」
ミチコトは二つ指を合わせ、片目を瞑り、アンナに照準を合わせ、発声する。「イレイザ」
光の熱線が来る。
「アイギス!」アンナは無事だった右足のブーツの底で床を叩いた。
鋼鉄の盾がアンナの前に出現し、熱線を阻む。
右足のブーツはシキによって改造され、地面を底で叩くことによって鋼の魔法、鉄壁、アイギスが編まれるようになっている。装着者にエネルギアがある限り、何度もアイギスを発動させることは出来るが、ブーツの底が地面から離れてしまえば、アイギスは解ける。そしてそのアイギスは鋼の魔女が編む本物に比べて、脆い。
ミチコトのイレイザに、シキのアイギスは中心から溶けた。
アンナはアイギスから躍り出た。
右足が地面から離れたのでアイギスはゆっくりこの世から消える。
「へぇ、しっかり、意外としっかり、研究しているんだね」アンナは首を竦めて強がりを言った。
「そうなの、これでも、光の魔女の総本山、大連の大学を出てるのよ、だから、分かったでしょ? 研究が不十分、センスだけのあなたの魔法じゃ私を焼けない、私を溶かせない、私を殺せないわよ」
「まだ本気出してないだけっ」アンナは素敵な笑顔を作って、ウインクする。
「ふうん、そうなんだ、」ミチコトは悠長に言って、左手の腕時計を見た。「でも、もう時間がないよ、本気を出すなら今しかないよ」
「そうね、じゃあ今から、本気出す」
アンナは考えていた。
ガトリングガンがない今の最高の方法を。
時間はすでに一分とちょっと。
天井を見上げた。
教会の扉から、祭壇に向かって並んだ、すでに機能を失って久しい照明。
その形は。
ちょっと横に幅広い、楕円。
楕円でも、丸ければ、即ちそれは、円筒形。
決めた。
アンナは紅色を煌めかせ、再び人差し指を天に向け、ハイトーンで発声する。
「ジェット・ロケッタ・ブースタ!」
アンナの強烈に煌めく紅色に連動し。
並んだ照明の内部は炸裂し。
火を噴いた。
ブースタから噴射された炎は瞬間的にミチコトを飲み込んだ。
アンナも一緒に炎に飲み込まれたが、自分の炎だから支障ない。
ただちょっとだけ、熱いシャワー。
熱いシャワーに、ミチコトは溶けただろう。
魔女を殺すのはコレで三十七度目。
ああ。
微熱だ。
松本の冗談に付き合う気はないけれど、微熱だ。
クスリと笑う。
クスリと笑ってから。
はっと思い出す。
ピカソは大丈夫だろうか?
しかし、そんな心配はすぐに消し飛んだ。
炎が。
アンナの編んだ、ジェット・ロケッタ・ブースタのコントレイルが吹き飛ばされた。
巨大な風に。
「ああ、もうっ!」ミチコトのヒステリックな声が教会に響く。「あっついじゃないのよ、もうっ!」
「……ど、どうして?」
完全に炎で包み込んだはずだ。
それなのに。
ミチコトの黄金が斜めに走る白い着物の袖しか、焦げていない。「ああ、言わなきゃ分からない? 私は光と風のデュアル、そうイレギュラな魔女なの、魔女じゃないあなたは知らないかもしれないけれど、光の魔女で純粋な魔女って少なくて、他の属性を何かしら、備えているものなの、私の髪の色の煌めきは、風の無色のせいで、信じられないくらい煌めいているでしょ? 私、ちょっと、自分の煌めき過ぎる髪の色が恥ずかしくて、ローブを頭から被っているんだ、まあ、どっちにしろ、目立っちゃうんだけど、でも、髪の色を見られるよりはいいかなって、って、ああ、どうしたの?」
アンナは仰向けに倒れていた。
時間切れだ。
髪の毛の色が元の黒に戻る。
最低な時間が来る。
頭痛が痛い。
最低最悪で幸せじゃない時間が来る。
許せない時間が来る。
「ああ、ちくしょうっ!」アンナは額を押さえて叫ぶ。「なんて日だっ!」
「そっか、」ミチコトはアンナの顔を覗き込み言う。「魔女の終りね」
アンナに再々度、来る恐怖。
怖い。
何も出来ないから怖い。
どうにもならないから怖い。
素敵な未来を描くことが出来ない今が、怖い。
死ぬ未来を考えたことは、何度もある。
三十六度、魔女を殺したのだから。
殺される未来を考えたことだってある。
考えて。
考えて。
考え抜いて。
覚悟を決めたつもりだった。
それなのに。
「さっさと殺せっ!」アンナは叫んだが、でも、すぐに怖くなった。もう一度言おうとしても、震えていた。「……さっさと、殺して、」アンナの覚悟は甘かった。目元が熱い。涙が出てくる。ミチコトの魔女の目が怖くて、信じられない量の涙が溢れてくる。「……お願い、殺さないで、……お願いします」
「惨めね、」ミチコトはそれだけ言って、爪を光らせた。「バイバイ」
「嫌ぁ!」アンナは惨めに悲鳴を上げた。
その瞬間。
アンナの体が水に包まれた。
すぐに水を飲み。
呼吸の仕方を忘れ。
アンナの意識は消える。




