第六章
第六章
私が小さい頃から両親はとても厳しかった。とにかく礼儀正しく、他人に気遣いがしっかりと出来るような大人になりなさい、と教えられてきた。だから私は両親から好かれるように、言う事をちゃんと守ってきたと思う。
両親が変わったのは私が保育園に通っていた頃。二つ上の姉が亡くなった時から。姉の名前は由美。姉は交通事故で亡くなった。スピード違反の車に撥ねられたのだ、私の目の前で。即死だったと聞いている。特に顔はぐしゃぐしゃで、思い出を守るために見ない方がいいと警察の方に言われた。だから姉の顔は家族全員、最期まで包帯巻きにされた状態でしか見る事が出来なかった。
両親はずっと泣き叫んでいた。子供ながらにあの光景は非常に堪えたのを今でも覚えている。特に母は姉の亡骸をずっと抱きかかえていた。まるで丸太のように硬くなってしまった愛しの姉の亡骸を。
あれくらいの年頃でも、私はなんとなく【死】という概念をぼんやりと認識していた。だからもちろん私だって悲しかった。いつも優しく私に接してくれた姉の事を、私は本当に大好きだった。でも両親があまりにも泣き叫ぶから、そちらの方が気になってしまった。
「どうして!どうして!どうして!どうして!」
私の肩を大きくゆすりながら、母が問いかけてきた。
「なんで!なんで!なんであの子なの!?なんであんたじゃないのよ!」
私に言っているのか、私以外の誰かに言っているのかそれは分からなかったけど、何となく感じた。感じてしまった。事故に合うのなら姉ではなく、私の方が良かったのだ。
確かにそれまでも、姉より私に対しての方が両親の当たりが厳しいとは思っていた。そしてその考えは当たっていたのだ。
姉が亡くなってから両親は分かりやすく私に対して冷たくなった。叩いたり殴ったりはなかったものの、何といえばいいか。私に興味が全く無くなってしまったようだった。
父にも母にも、話し掛けても会話は続かなかったし、ひどいときは無視されたりするようになった。食事もこれまでとは違い、冷凍食品だけの時や両親が食べた残り物が出るようになった。保育園の迎えにも来なかったりする事があった。
「ごめん、忘れてた。」
母のあの言葉は今でも覚えている。
さらにそれから、両親は二人でよくどこかに出かけるようになった。朝方から出掛けて、夜に帰ってくるから、日中私は家で一人きりになる事が多くなった。よく姉の遺影に話しかけていた。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん。」
ただただ遺影に向けて声を掛け続けた。何でいなくなってしまったの?何で私は一人きりなの?数々の質問を投げかけたように思う。
両親はしばらくして、時折何かをぶつぶつと唱えるようになった。それは歌にも聞こえるし、呪文のようにも聞こえた。何をしている時でも唱え続けていたので、さすがに不気味だった。母に
「何を話しているの?」
と問いかけると
「うるさい!邪魔しないで!」
と怒鳴られた。
父が姉の仏壇の前で座りながら、いつものように何かを唱えていた時、私は母にしたように話しかけた。
「お父さん。」
父の唱えが止まった。
「何だ?」
「お母さんといつも何をお話ししているの?」
「お姉ちゃんのことだよ。」
「お姉ちゃん?」
「そう。お姉ちゃんに会いたいだろ?」
「うん、会いたい。」
「お姉ちゃんと遊びたいだろ?」
「遊びたい。」
「じゃあ静かにしていなさい。」
「でも・・。」
「聞こえなかったのか?」
父の冷たい目線が私を指す。あんな父の表情は、あの時初めて見た。
ある日、私は両親に連れられて、どこかわからない山奥にある廃ビルへと連れて行かれた。そのビルの屋上は開けており、松明が所々に置かれ、火を灯していた。
周りには黒い布を体にまとった人達が大勢いた。男性も女性も、若者もお年寄りも、様々な人がそこには集まっていた。私は両親に地面に描かれたよくわからない模様の真ん中に立たされた。そして皆が私を取り囲み、何を言っているのかよく分からない言葉を一斉に唱え始めたのだ。
「天津罪、国津罪、八百万の神の耳を塞げ。穢れは流れに逆らい、封じられし淵より昇らん。黄泉比良坂にて捨てし命、根の国底の国に縛られし魂よ、名を忘れ、形を喪いし者よ、鏡の水を裂きて、葦原中津国に還り来たれ。我、祝詞を捧ぐ。導きし神よ、血の道に足跡を刻み、産土の地に再び降れ。千度の鈴が鳴り響き、千柱の封が解かれ、千の眼が、ひとつずつ開かれる。九度目の鼓動にて、八咫烏の影が落ちる。夜の帳は裂かれ、その名を持つ者、今ここに現れん。厭魅女よ、厭魅女よ、厭魅女よ。汝が名を以て、此処に門を開く。厭魅女よ、厭魅女よ、厭魅女よ。ここに来たりて、空に還らず。我は名無き者、六道の外に座す破滅の胎。無限の眼を持て、千の口を裂き、万の心臓を沈めん。一文字成らば、血は煮え、二文字成らば、骨は崩れ、三文字成らば、魂は虚無に散る。ここに曼荼羅は転ぜられ、仏の座は黒き蓮に沈む。天は折れ、大地は口を開き、因果は断たれる。響け、最後の鐘。我が声に応じ、全ての名を消し去れ。滅せよ。ここに輪廻は閉じ、厭魅女は完成せり。」
松明の炎が激しく燃え上がり、皆が輪唱する声が次第に大きくなっていった。
「厭魅女よ厭魅女よ厭魅女よ厭魅女よ厭魅女よ厭魅女よ厭魅女よ厭魅女よ厭魅女よ厭魅女よ。」
「一切縁起、悉皆断絶。」
「九天滅却。」
「八方地裂。」
「六道逆転。」
「三界破滅。」
「呪唱一節、魂崩散。」
「呪唱二節、血潮沸騰。」
「呪唱三節、天地消融。」
私は最前列で皆に紛れて必死になって何かを一心不乱に唱える両親を見て、涙を流していた。これは全て亡くなった姉のためなのだ。私の事なんかどうでもいいのだ。悲しくなった。悲しくて、悲しくて私はどうにかなりそうだった。
私は叫んだ。思い切り叫んだ。その時、何かが私の近くに来た気がした。周りの人達の声も次第に大きくなっていき、両親も体を大きく揺らしていた。もうどうでもいい。どうにでもなってしまえ。そういう気持ちだった。そう思った瞬間、確かに感じたのだ。
「お姉ちゃん?」
私は間違いなく近くにお姉ちゃんを感じた。私が呟い事に両親は気付いたのか、私の方をじっと見つめている。何かが、何かが私の中に入った。あの感覚は何とも言い難い、特別な体験だった。
周りの人達が一斉に私に向かって両膝をついた。皆頭を下げて、両手首を地面に伏せ、手のひらを空へ向けている。
「終焉者を称えよ!厭魅女を称えよ!」
泣き声や喜びの声があちこちから聞こえてきた。両親も歓喜の表情をしている。
「由美・・!」
母がそう言った瞬間、私は母を強めに睨んだ。反射的に睨んでしまった。すると、母の体が後方へ吹き飛び、後ろに跪く黒服の何人かに衝突した。父が啞然とした顔をしている。それでも両親は嬉しそうに笑顔を浮かべていた。
私の中に、お姉ちゃんが帰って来たのだ。
それから私の生活はまた大きく変わった。母も父もまるで人が変わったように、私に対して優しくなった。二人とも嬉しそうな表情を浮かべるようになった。
「食べたい物はある?」
「欲しい物はある?」
「行きたいところはある?」
「由美!」
私は由美として生きる事を強要されるようになった。でも人前で両親は私の事を決して姉の名前で呼びはしなかった。それが私を苛立たせた。結局両親は、世間体の事を気にしていたのだ。
それでも私は嬉しかった。まだ小さな子供だったからだろう。優しくしてくれる事がとても嬉しくてたまらなかった。だから私はお姉ちゃんになった。それでお母さんもお父さんも優しくしてくれるなら、それだけで十分だった。
でもそんな日は長くは続かなかった。ある日両親が外から帰ってくると、とても暗い顔をしていた。疲れ切った様子で、一目見て何かがあったとわかった。
母と目が合った。母は私を見ると叫び声を上げながら、急にその場に泣き崩れた。父はその肩を抱き、私を見た。憐れんでいるかのような表情だった。何でそんな目で私を見るんだと、私は悲しい気持ちになった。
その瞬間、家中が揺れた。棚に置いてあった花瓶や本が落下し、両親は怯えた様子でその場で固まっていた。私が体の力を抜くと、揺れは収まった。そう、私がやったのだ。私がこの超常現象を引き起こした張本人だったのだ。
私の中に何かが憑いた。でも、それは亡くなった姉ではなかったのだ。姉を感じたのはなく、姉のふりをした何かを感じたのだ。
両親の私への態度がその頃からまた変わった。優しさはそのままに、どこか私の事を恐れるようになった。びくびくと怯えているようで、まるで私の召使いのようになった。子供の私は、何でこんなに私に対して色々してくれるのか、ただただ不思議で仕方なかった。
私はたまに私に対して何かを入れた、あの山奥の廃ビルによく連れて行かれるようになった。いつも大勢の黒服の人達がいて、私に跪いて何かを懇願するように祈りを捧げてきた。だから私は何だか面白くなってきて、絵本に出てくるようなプリンセスになった気分になってしまった。正直に言うと、嬉しくなってしまったのだ。
「あなたは終焉をもたらす者。どうか良き終焉を。静かな終焉を。安らかな終焉を。」
皆が私にこう語りかける。その時はまだ分からなかったけど、後にわかった。どうやら皆、死にたいらしいと。そして私は、死にたい人達のためには祀り上げられたのだと。
それでいい。それでいいのだ。だってお母さんとお父さんが、私にそうしたんだから。




