第8話 スミレティー ――一言だけ、ちゃんと伝えたい日に――
「言わなくても伝わるだろう」と思っていたことが、どうやら全然伝わっていなかったらしい。
そんな出来事が重なって、その人は口を閉ざしがちになっていた。
喫茶クロノ・ロードの隅の席に座ると、静かな気配が近づいてくる。
お一人様席担当のスミレだ。
「今日は、誰かに何か、言いたいことがありますか?」
ドキリとして顔を上げると、スミレは小さく微笑んだ。
「よろしければ、スミレティーをどうぞ。“一言だけ”のためのお茶です」
薄紫色のハーブティーがテーブルに置かれる。
湯気から立ち上る香りは、どこかほっとする。
「これを飲んだあと、一言だけ、“ちゃんと伝えたいこと”を言ってみてください。
長いスピーチじゃなくていいんです。一文で足りるくらいの」
「……そんなことで、変わるんでしょうか」
「世界はすぐには変わりません。
でも、“その日の自分”の記憶は、少し変わるかもしれません」
その人は、カップを両手で包み込むように持ち上げ、一口飲んだ。
喉のあたりが、じんわりと温まる。
頭の中で、言いたかった言葉を探す。
(ごめん、も違うし。ありがとう、でもない気がする)
何度か飲み込んできた言葉の中から、ひとつだけ選び取る。
『あのとき、実はすごくうれしかった』
それを、どこで、誰に、どう伝えるか。
考えているうちに、少しだけ胸のあたりが軽くなっていく。
スミレが、カップの縁を指でなぞりながら言う。
「言えなかった言葉って、時間が経つほど重くなっていくんです。
一つだけでも外に出してあげると、その分だけ軽くなりますから」
店を出るころには、その人は決めていた。
帰り道、メッセージでもいいから、その一言だけはちゃんと伝えてみよう――と。




