第5話 月下美人フロート ――一夜だけの、そっと背中を押す一口――
夜遅く、喫茶クロノ・ロードの看板には「本日、夜の部開店中」の札がかかっていた。
いつもなら通り過ぎてしまう時間。
その人は、スマホの画面に浮かぶ「投稿」ボタンを何度も開いては閉じていた。
小説の原稿、応募フォーム、心臓の鼓動。
どれもが落ち着かない。
気づけば、ベルを鳴らしていた。
店内は、昼間よりも照明が落とされている。
カウンターには、月下美人が静かに立っていた。白い花を思わせるワンピースに、淡い光が落ちる。
「こんばんは。今夜は、少しだけ特別なメニューが出ています」
その人の手元のスマホに、月下美人の視線が落ちる。
「“あと一歩”で止まってしまう夜、でしょうか」
「……そんなところです」
かすれた声で答えると、月下美人はうなずいた。
「でしたら、月下美人フロートを。今夜だけ、背中をそっと押す一杯です」
透明なグラスに注がれたソーダの上に、白いアイスが静かに浮かぶ。
グラスの中で泡が弾ける音が、妙に大きく感じられた。
「副作用は、少しだけ夜更かしになること。明日の朝、少し眠いかもしれません」
「それくらいなら……」
スプーンですくって口に運ぶと、冷たさが舌の上で溶けていく。
甘さは控えめで、代わりに何かが胸の奥にじんわりと広がる。
「完璧なものじゃなくてもいいんです」
月下美人が、カウンター越しに静かに言う。
「今のあなたが、今のまま出してあげられる夜を、一つつくるだけ」
スマホの画面を開く。
投稿ボタンの光が、いつもより少しだけ柔らかく見えた。
(どうせ誰も読まないかもしれない。
でも、読んでくれる誰かがいるかもしれない)
指先が、ボタンに触れる。
――送信しました。
表示された文字を見た瞬間、ソーダの泡が一斉に弾けた気がした。
「おめでとうございます」
月下美人が、ほんの少しだけ口元を緩める。
「今夜のあなたは、ちゃんと自分の味方をしてあげましたね」
店を出ると、夜風が頬を撫でた。
明日の朝はきっと眠い。
それでも、この夜だけは、きっと覚えている。




