第3話 藤ソーダ ――待ち時間を、自分の時間に変える――
チリン、とベルが鳴る。
その人は、腕時計を何度も見ながら入ってきた。
約束の時間まで、三十分。待ち合わせ場所の近くをぶらぶらしているうち、喫茶クロノ・ロードを見つけたのだ。
「いらっしゃいませ」
藤が、やわらかな笑みを浮かべて迎える。
「お時間まで、少し余裕がありますか?」
「……そうなんです。待つの、ちょっと苦手で」
「でしたら、“待つ時間”を味わうソーダはいかがでしょう。藤ソーダ、おすすめです」
すすめられるまま、窓際の席に座る。
運ばれてきたグラスの中では、淡い紫色のソーダがしゅわしゅわと細かな泡を立てていた。
「これを飲むと、待ち時間が少し“自分の時間”として感じやすくなります。読書でも、ぼんやりでも、お好きな過ごし方でどうぞ」
藤はそう言って、テーブルに小さな文庫本をそっと置いた。
「……これ?」
「店内読み専用の本です。気が向いたら、どうぞ」
その人は、ページをめくる。
最初は時計が気になって仕方がなかった。
が、物語に引き込まれていくうちに、ソーダの泡の音とページをめくる音だけが耳に残り始める。
ふと顔を上げると、窓の外の人の流れがスローモーションのように見えた。
(こんなふうに待ち時間を過ごすの、初めてかもしれない)
最後の一行を読み終えたところで、時計を見る。
約束の時間まで、あと五分。
「……あ、ちょうどいい」
立ち上がるとき、藤がカウンターから声をかけた。
「お待ち合わせ、うまくいきますように。
もしまた、待ち時間ができたら、いつでもどうぞ」
外に出ると、人のざわめきが戻ってくる。
けれど、さっきまでの焦りはどこかに消えていた。
三十分は長いと思っていた。
でも、本とソーダで、ちょうどいいくらいの長さなのかもしれない――その人はそんなことを考えながら、待ち合わせ場所へと歩いていった。




