第2話 アネモネブレンド ――くたびれた一日のすみに、小さな楽しみを――
その人は、仕事帰りの足を重たく引きずっていた。
駅と家を結ぶ一本道。いつもなら一直線に帰るのに、ふと、横道の先に灯る看板に目が止まる。
――喫茶クロノ・ロード。
吸い寄せられるように中へ入ると、カウンターの中でアネモネが穏やかに微笑んだ。
「お疲れさまです。今日は長い一日でしたか?」
その問いかけだけで、肩の力が少し抜ける。
「……まあ、そんな感じで」
「それなら、アネモネブレンドはいかがでしょう。
今日の中に、“ちいさな楽しみ”をひとつ見つけやすくなるコーヒーです」
説明はさらりとしているのに、声は真剣だ。
その人は、半分冗談のつもりで、頷いた。
「じゃあ、それを」
豆を挽く音が、静かな店内に心地良く響く。
アネモネの動きは、どこか儀式めいている。
ひとつひとつの所作がゆっくりで、迷いがない。
「はい。アネモネブレンドです。“今日の終わりに一つご褒美を足す用”」
カップを手に取ると、ほろ苦さの奥にほのかな甘さが隠れている。
その人は一口飲み、ふと思う。
(このあと、まっすぐ帰って、また明日同じように……?)
カウンター越しに視線を上げると、アネモネが柔らかく首をかしげた。
「帰り道に、何かひとつ、楽しみを差し込んでみませんか?」
「楽しみ、ですか」
「コンビニのスイーツでも、気になっていた雑誌でも、寄り道でも。明日のためじゃなくて、今日を終えるための、小さな何か」
頭の中に、コンビニのショーケースが浮かぶ。
新作スイーツのポップ。気になっていたけれど、「太るから」と通り過ぎてきたものたち。
(……ひとつくらい、いいか)
そう思った瞬間、コーヒーの香りが少しだけ甘く感じられた。
店を出るとき、アネモネは小さく手を振った。
「よい一日の“しめくくり”になりますように」
帰り道のコンビニで、その人はショーケースの前に立ち尽くした。
ずらりと並ぶスイーツたちの中から、一つを選ぶ。
紙袋を提げて歩く足取りが、来るときよりも少しだけ軽かった。
明日はまた同じ一日かもしれない。
でも、今日の最後の五分だけは、自分のために使ってもいい――そう思える夜だった。




