第1話 向日葵ラテ ――通勤路の十五分をあたためる――
チリン、とベルが鳴る。
雨上がりの夕方、傘の先から雫を落としながら、その人はふらりと喫茶クロノ・ロードに入ってきた。
スマホを握った手には、通知の赤い数字がずらりと並んでいる。
「いらっしゃいませ〜!」
弾む声と一緒に駆け寄ってきたのは、エプロン姿の向日葵だった。胸元には、花の名札。
「お席どうぞ。あ、よかったらカバン、ここ置いてくださいね」
ぎゅうっと握っていたスマホを、なんとなくテーブルに置く。その人はメニューを開いた。
『向日葵ラテ ――通勤路の十五分をあたためる――』
目に入った文字を、そのまま口にする。
「じゃあ……それを」
「はーい、向日葵ラテ一丁!」
カウンターの向こうでフォームミルクを作る音がして、ふわりとコーヒーの香りが立ち上る。
カップが運ばれてきたとき、ラテの泡に小さな太陽の絵が描かれていることに、その人は気づいた。
「それ、飲んだあと十五分だけ、スマホを見忘れやすくなるんですよ」
向日葵が、ひそひそ声で笑う。
「……そんな効能が?」
「はい。“今ここ”を味わう練習用です。効き目には個人差ありますけどね」
冗談半分に聞きながら、一口飲む。
ミルクのやわらかさと、コーヒーのほろ苦さが喉を通っていく。身体の奥に、じんわりと温かさが広がった。
会計を済ませて店を出るとき、その人はいつもの癖のようにスマホに手を伸ばしかけた。
が、不思議と画面を点ける気がしない。
(たまには、いいか)
ポケットにしまい込んで、顔を上げる。
雨上がりの空に、細い月がかかっていた。通勤路の街路樹は、雫をまとった葉をきらきらさせている。
踏切の待ち時間。
いつもならSNSを眺めているはずのその人は、今日に限って、線路の向こう側まで伸びる光の筋をぼんやりと見つめていた。
(……こんなだったっけ、この道)
電車が通り過ぎる風が、頬にあたる。
自分の歩幅で歩く十五分が、少しだけ長く、少しだけ短く感じられる。
向日葵ラテの温かさは、まだ胸の奥に残っていた。




