第11話 黒百合ブレンド ――今日までの時間に、ひとくぎりを――
その日、喫茶クロノ・ロードは、少しだけ静かだった。
ランチの混雑も、午後のコーヒータイムも乗り切って、
夕方と夜のあいだにできる、短い“すき間の時間”。
向日葵はカウンターでグラスを拭き、
アネモネは明日の豆の準備をしている。
藤はソーダのシロップを並べ直し、
カスミソウはショーケースの中の飾りをそっと整えていた。
奥のテーブルでは、スミレとガーベラが新しいPOPの相談をしていて、
窓際ではアジサイが、空の色の変化をぼんやり眺めている。
そんな賑やかな静けさの中、
「本日、休憩中」の小さな札がひっくり返る。
チリン、とベルが鳴った。
札が出ているのを知っているはずなのに、
扉の向こうから、控えめな気配がする。
「……すみません、少しだけ」
顔を覗かせたのは、よく見る常連だった。
名前は、黒百合も知らない。
いつも決まった席に座り、決まったようにメニューを眺めて、
最後は何も頼まずに帰ってしまうことの多い人。
「今日は、ちゃんと開いてます?」
黒百合は、カウンターの内側から静かに微笑んだ。
「休憩中ですが、“少しだけ”なら。どうぞ、お入りください」
スタッフたちが、わずかに顔を見合わせる。
向日葵が「手伝いましょうか」と目で聞いてくるのを、黒百合はそっと首を振っ
た。
「ここからは、私の時間ですから」
常連は、少し居心地悪そうにカウンター席に腰を下ろす。
おずおずと、メニューを開いた。
「……ずっと気になってたんですけど」
ページをめくりながら、その人はぽつりと言う。
「このお店、花のメニューはたくさんあるのに、
“黒百合”って、どこにも書いてないですよね」
向日葵ラテ、アネモネブレンド、藤ソーダ……
どのページにも、黒百合の名前はない。
黒百合は、少しだけ目を細めて笑う。
「よく見てくださっていましたね」
「だって、店長さんが黒百合なのに。
“店長ブレンド”とか、“黒百合ブレンド”とか、あってもよさそうじゃないですか」
「ふふ。作ろうと思えば、いつでも作れますよ」
黒百合はそう言いながら、いつものメニューではなく、
カウンターの下から古びたノートを取り出した。
表紙には、手書きでこう記されている。
――喫茶クロノ・ロード 開店前メモ。
「マスター……じゃなかった、店長さんの、ノートですか?」
「開く前に、ずっと一人で書いていたものです。
“どんな店にしたいか”を、忘れないように」
ページをぱらぱらとめくる。
丁寧な字で、いくつもの言葉が書かれている。
『劇的な奇跡は起こらない』
『命の代償は取らない』
『一日が、少しだけ好きになれれば合格』
「……最初に、決めたんです」
黒百合は、ノートに指先をそっと滑らせる。
「ここは、“時間を削る店”にはしないって。
がんばり過ぎている人から、これ以上何かを奪う店にはしたくなくて」
常連は、思わず息を呑んだ。
自分のカレンダーを思い出す。
余白のない予定表。詰め込まれた「やらなければならないこと」。
「むかし、私も予定で真っ黒なカレンダーを使っていたんです」
黒百合は、さらりと言う。
「仕事の締切、人付き合い、家のこと。
“頑張っている自分”でいようとしているうちに、
気づいたら、自分の時間がどこにもなくなっていて」
「……それで、店を?」
「はい。
“他人のための時間”ばかりになってしまった人が、
たまに立ち寄って、今日一日のどこかだけでも、
自分のために味わえるように、と思って」
ノートの最後のページには、
こう書かれていた。
『黒百合ブレンド:今日までの時間に、やさしく線を引く』
「本当は、開店の日に、一度だけ出すつもりだったメニューなんです」
「一度だけ?」
「ええ。
“ここまで頑張ってきた時間に、お疲れさまを言うための一杯”なので」
黒百合は、ゆっくりと立ち上がる。
「今日は、私のほうからお出ししてもいいですか」
常連は、驚いたように目を丸くした。
「注文、まだ何も……」
「これは、私からの注文です」
黒百合は、静かに豆を量り、挽き始めた。
他のスタッフたちも、自然と口を閉ざす。
ギィ、とミルの音が響く。
湯気が立ちのぼる。
カウンターに、黒いカップが一つ置かれた。
表面はなめらかで、泡も模様も描かれていない。
「こちらが、黒百合ブレンド。
“今日までの時間に、ひとくぎりをつける”ためのコーヒーです」
常連は、両手でカップを包むように持ち上げる。
香りは、驚くほどやわらかい。
少しだけ苦くて、そのあとに、ほんのかすかな甘さが追いかけてきた。
「……なんだか、懐かしい味がします」
「どこかで、似たような香りを嗅いだことがあるからかもしれませんね」
「どこで?」
「今日まで、ずっと頑張ってきた場所です」
常連は、しばらく黙っていた。
カップの中身が半分くらいになったころ、
ぽつりと、言葉が零れる。
「たぶん、自分の時間を削ってきたのは、他人じゃなくて、自分なんだと思います」
黒百合は、ただ静かに聞いている。
「誰かに求められてる気がして、“やります”って言い続けてきて。
本当はしんどいのに、それでも“まだいける”って思ってて。
気づいたら、何のためにやってるのか分からなくなってて……」
「その時間は、きっと、ぜんぶ本物だったと思いますよ」
黒百合の声は、驚くほどやわらかかった。
「たとえ方向が少しずれていたとしても、
誰かのために、何かのために、と信じて使った時間は、
ちゃんとあなたの中に残っています」
「でも、もう……これ以上は、ちょっと」
言葉が詰まる。
黒百合は、そっと頷いた。
「だからこそ、“ここまで”って、線を引く一杯なんです」
カウンターの上に、細いナプキンが置かれる。
そこには一本の線が引かれていた。
「この線より左側は、“今日までのあなた”の時間。
右側は、まだ何も書かれていない、“これからの時間”です」
常連は、ナプキンを見つめる。
「左側を消す必要はありません。
ただ、“ここまで頑張った”って、区切りをつけてあげてください」
黒百合は、ペンを差し出した。
「もしよかったら。右側に、ひとつだけ、
“これからの自分のための時間”を書いてみませんか?」
常連は、しばらく迷ったあと、ペンを受け取る。
震える指で、小さく文字を書いた。
『週に一度、何もしないでコーヒーを飲む時間』
それを見て、黒百合が微笑む。
「とても、すてきな予定ですね」
「……ここに来てもいいですか」
「もちろん。
でも、ここじゃなくてもいいんですよ」
常連は目を瞬かせる。
「喫茶クロノ・ロードは、“どこかにあるかもしれない場所”であってほしいんです。
どこで飲むコーヒーでもかまいません。
その一杯ぶんだけ、“自分のための時間だ”と、ちゃんと思えたら」
カップの底が見えるまで飲み干すと、
胸の奥に、静かに沈んでいた何かが、ふわりと浮かび上がったような気がした。
「……ごちそうさまでした」
「お疲れさまでした、今日まで」
黒百合は、深く頭を下げた。
それは、店員としてではなく、一人の人間としての挨拶に見えた。
常連が店を出るとき、ベルが二度、やわらかく鳴った。
扉が閉まると、スタッフたちが一斉に息をつく。
「黒百合さん、今の……」
向日葵が、そっと口を開きかけると、
黒百合は、いたずらっぽく片目をつぶって見せた。
「内緒の、限定メニューです。
“メニューに載らない一杯”って、なんだか特別でしょう?」
「ずるいです〜、私も飲みたい」
ガーベラが身を乗り出す。
カスミソウが「きっと、いつかですね」と笑い、
スミレは、ナプキンの線をそっと目で追った。
黒百合は、カウンターの奥で、ひとつ深呼吸をする。
――今日までの時間に、ひとくぎり。
店の外の空は、ゆっくりと夜の色に変わっていく。
「さあ、そろそろ夜の部の準備を始めましょうか」
黒百合がそう言うと、
スタッフたちは一斉に「はい」と返事をした。
誰かの二十四時間を、
ほんの少しだけ飲みやすくするために。
喫茶クロノ・ロードの時間は、今日もまた、静かに流れていく。




