第10話 アジサイクリームソーダ ――どっちを選んでもいい日のために――
進路、転職、引っ越し。
選択肢が二つあるのに、どちらにも決め手がなくて、頭の中だけがぐるぐる回っている。
その人は、そんな迷いを抱えたまま喫茶クロノ・ロードの扉を開けた。
窓際の席には、アジサイがいた。
淡い色のエプロンに、やさしい笑顔。
「迷っている日に、ようこそ」
言われてドキリとする。
「どうして分かったんですか」
「ここに来る人の顔を見てると、なんとなく分かるんです。
“どっちを選んでもいい日”用のソーダ、お作りしましょうか?」
すすめられるまま、アジサイクリームソーダを頼む。
グラスの中で、青と紫のグラデーションがゆっくり混ざり合っている。
「これを飲んでいるあいだだけ、“どっちでもいい”気分になっても怒らないであげてくださいね」
「……怒らないで?」
「真剣に悩んでいる人ほど、“どっちでもいい”って思う自分を責めちゃうでしょう?」
図星だった。
その人は、ストローをくわえて小さく息を吸う。甘さと冷たさが喉をすべり落ちる。
「どちらを選んでも、それぞれ別の後悔と別の良かったことがあるはずです。
完璧な選択肢なんて、たぶんどこにもありません」
アジサイは、窓の外の空を見上げる。
「だから今日は、“どっちでもいい自分”を許す日でいいと思うんです。
とりあえず、今日ちゃんとごはんを食べて、眠れるなら合格」
「……そんなものでいいんでしょうか」
「そんなもので、案外どうにかなりますよ」
ふと気づくと、向日葵がホールから手を振っている。
カウンターの奥では黒百合が静かにグラスを拭き、アネモネが新しい豆を量ってい
る。
奥の席には、藤と彼岸花がなにやら静かに話し込んでいて、
スイーツケースの向こうでカスミソウが飾り付けをしている。
スミレは隅の席で、誰かの話に耳を傾けているし、
ガーベラは新しいPOPを描いているところだった。
みんな、それぞれの「時間」を扱っている。
その光景を眺めているうちに、胸の中のぐるぐるが、少しだけほどけていく。
「今日は、決めなくてもいいですよ」
アジサイが、そっと言う。
「どちらの道を選んでも、ここに寄り道してくれたら、その日の時間を一緒に整えましょう」
グラスの底に残ったソーダを飲み干して、
店を出るとき、空から細かな雨が降り始めていた。
折りたたみ傘を開きながら、その人は思う。
(どっちに転んでも、今日のこの時間は、もう決まってる)
喫茶クロノ・ロードで過ごしたひとときだけは、
迷いごと全部ひっくるめて、自分のものだと言える。
それだけ分かれば、今はそれで十分だと思えた。




