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第9話「条件が揃う日」

南東4m/s/16:03/引き潮+20分


 風待ち坂の階段は、昼の熱を石に含んだまま、ゆっくり冷え始めていた。蝉にはまだ早いが、草むらのどこかで鳴く見慣れない虫の連打が、シャッター速度の誤作動みたいに耳に触れる。参道の杉は汗を吸ったように色が濃く、葉の縁が風に合わせて微かに裏返る。湿度は高いが、風がある。ここ数日の中で、一番条件がいい。息を吐くと、胸の底に塩の薄い味がする。潮は引いている。東浜の岩が、いま露出し始めている頃合いだ。


 石段の中腹で、僕は足を止める。腕時計の分針が「四」に重なり、秒針がその上に滑っていく。午後四時。瀬名がメモの端に書いた数字。南東の風、午後四時。僕は空を見上げる。光はまだ高いけれど、樹間をかすめた逆光が、葉と葉の隙間に流線を描く。写真で言うなら、ハイライトは控えめ、シャドウに密度。露出、±0。——揃っている。揃ってしまっている。


 ——でも、「僕ら」はまだ揃っていない。


 瀬名とは約束していない。今日は図書室の当番が終わったら神社に寄るかも、と彼女が言っただけだ。地歴研究会のコピー機が詰まると遅くなるとも。待つと決めたのは僕で、誰にも責められない。それでも、石段の上のほうから人のざわめきが降りてくるのが、今は少しだけ恨めしい。風鈴の音に混じって、子どもの声、紙袋の擦れる音、誰かの笑い。平日なのに、妙に人が多い。社務所の張り紙には、小さく「今週末 夏越の準備」とあった。茅の輪が、拝殿の横で青い。


 白いシャツの背中が三、四枚、石段の上に並ぶ。僕は浅く息を吸い直して、上がる。身体の露出だけが半段上がって、周囲より明るく浮き上がってしまう感じ。もう少し、フラットに歩きたいのに。足元の影が、風のリズムにほんの少しだけ震える。


「——あれ、透?」


 声に反応して振り向くと、杉の根元の陰から瀬名が顔を出した。息が上がっているわけではないのに、頬の色がほんのり火照っている。手に古地図の束。細い紐でまとめた背表紙の角が擦り減って白くなっている。


「来たんだ。」


「来ちゃった。コピー機、やっぱり詰まって、大騒ぎだった。」


「大丈夫だった?」


「裏紙が救世主だった。で、ここは……。」


 彼女は参道の奥を見る。風鈴が、二度鳴った。最初の音は丸く、二つ目は少しだけ平たい。二音の間に、風の密度が一度薄くなる。体感でわかるくらいの、目に見えない凹み。僕と瀬名は、同時に右手を持ち上げかけて——やめる。人が多い。右手をひとりで翳すには、少し勇気が要る。二人なら、平気なのに。


「今日は、揃ってるんだよね。」


 瀬名が囁く。その声は、紙の余白に鉛筆で書き足すときの音に似ている。強くないけれど、確か。


「揃ってる。風も、光も、潮も。」


「じゃ、参道の端……。」


 瀬名が参道の左端、玉砂利と苔の縁まで歩きかける。そこ——「影が指す先へ行け。」、宮司の千歳さんの言葉が、掌の裏に走る。僕は彼女の斜め後ろに歩幅を合わせる。が、人の流れが横から差し込んで、二人の間に小さな乱れを作った。茅の輪のところで写真を撮ろうとスマホを掲げる親子。ベビーカーの車輪が砂利にとられ、父親が抱き上げる。社務所から、運ぶ人たちの足音。石段の上から降りてくる中学生の集団が、私語の小さな群れを落とす。音が粒になって、足元の空気に散る。


「すみません。」と僕は言って道を譲る。譲った、そのわずかな角度変更が、瀬名との並びを崩す。二人以上で現れやすい。——暗黙のルール。頭のどこかで、誰かが読み上げる。


 風鈴が、もう一度だけ鳴った。今度は一音だけ。短い。瀬名が右手を半分だけ上げる。指の隙間に、光が糸のように通る。地面に、うすい帯。僕らの足元に触れるまであと少し、というところで、目の前を白いシャツが横切った。風はある。光も。潮も。——だけど、歩幅が合っていない。僕の足は一歩分、遅い。彼女は半歩、速い。帯は、靴の縁でほどける。


「ごめん、僕……。」


「ううん、私だよ。角度、ミスした。」


「いや、いまのは。」


「どっちでもいいや。——まだ、時間は。」


 瀬名は腕時計を見ず、空を見る。光の角度は、さっきよりわずかに低く、樹間のラインが細くなる。逆光の輪郭が甘くなる時間帯。午後四時十二分。僕は、癖でカメラの巻き上げレバーに指をかける。シャッターは、今日はまだ一度も切っていない。切るべきか。切らないべきか。何を撮るのか。迷いは、画面を白で埋め尽くす。この間合い——先輩の言う「撮らない勇気」を、今日は持ってくるのを忘れた。


「透、今日は人が多い。たぶん、茅の輪のせい。条件は揃ってるけど、心のほうのタイミングが、ちょっとだけズレてる。」


「心の速度。」


「うん。昨日、体育館からの帰り道、風がこうやって……。」


 瀬名は手を胸の前で少しだけ開いて、閉じる。手の中に風を捕まえて見せるみたいに。その仕草に、僕の喉が軽く鳴る。言葉が口の中で滑る気配。——誘えよ。真田の声が、別の場所からやってくる。まだ言えない。まだ、言えないのか。今、言えば、何かが手前で曲がるかもしれないのに。


「風鈴、二度鳴ったよね。」


「鳴った。」


「二度鳴るときは、だいたい“近い”。でも、立ち止まると遠ざかる。——走る?」


「走ると、たぶん逆に短くなる。立ち止まるほど短くなるけど、焦っても短くなる。どこまで行っても、七分。」


「七分。」


 僕らは笑う。笑いが少しだけ水分を含んで、喉に貼りつく。人の流れが、いったん薄くなった。今だ。瀬名と目が合う。彼女の右手が、ふわりと上がる。その影が、参道の左の線を指す。僕も一緒に歩み出す。歩幅を合わせる。合わせる。合わせたつもりで、合わせ損ねる。歩く速度が、意識した途端にぎこちなくなる。二人の足音が、吸い込まれ——ない。地面は、ただの苔と玉砂利の触感のままだ。薄い帯は、すぐにほどけた。僕の息だけが、無駄に速くなる。


 千歳さんが、拝殿の陰から顔を出した。目だけ笑って、口元は動かさない。彼は近づいて、囁きではなく通常の声で言う。


「影が指す先へ行け。……と、わしは言う。だが、影は時々、遅れて指す。慌てるな。」


「遅れて、ですか。」


「風が南東でも、道が南東とは限らん。影は嘘はつかないが、意地悪はする。」


 彼は茅の輪の藁を確かめるふりをして、僕らから少し距離を取った。その間に、人の流れがまた濃くなる。風鈴は鳴らない。葉の隙間の光が、さっきより柔らかい。ハイライトが、少しだけ眠った顔をする。


「……ごめん、私、今日はこれから家の用事で。」


 瀬名が小さく言う。言い訳の口調じゃない。事実の報告、という露出。避けられない影。彼女は古地図の束を持ち直し、僕の視線の高さに合わせるように少しだけ背伸びをした。


「たぶん、またある。こういう日。今日逃しても、ちゃんと来る。」


「うん。」


「だから、焦らないで。焦ると、影が拗ねる。」


「影が、拗ねるのか。」


「拗ねるよ、案外。——またね、透。」


 彼女はそう言って、社務所の脇を抜け、茅の輪の前で一瞬だけ足を止めて、くぐらずに手だけ合わせた。肩越しに、振り返りはしない。歩く。彼女の歩幅は、いつもの速さ。僕はその背中を追わない。追っては、いけない気がした。ここで、僕の速度を勝手に上げると、次に合わせるのが難しくなる。じわりと汗が背中に広がる。風鈴は、鳴らない。


 僕は石段の端で、カメラを構えて、一枚撮った。風鈴でも、茅の輪でも、人でもない。参道の端、苔と玉砂利の境目。さっき、細い帯がほどけた場所。そこだけ、湿りの質が別物みたいに濃く光っている——ように見えた瞬間。シャッター音は、意外なほど軽い。画面の中に、うまく意味が写るとは限らない。でも、今の僕には、ここしかない。


 もう一枚。拝殿の軒の影。茅の輪の向こうで、薄く揺れる影。人の背中がよぎり、画面の右端で白が過剰に飛ぶ。一瞬のブレ。迷いの形。——体育館で撮ったブレの続き。二枚目の音は一枚目よりわずかに高く、シャッター幕が乾いているように感じる。「残り15」、という数字が一瞬頭に浮かんで、すぐに遠ざかる。最後の一枚は夏の入口に温存する、と先へ投げておく。


 階段を下りる。空はさっきより白い。風はある。潮の匂いが、町の角に沿って曲がる。パン屋「角砂糖」の看板の前を通ると、窓の内側で店主がミトンをはめて何かをオーブンから引き出していた。焦がし砂糖の匂いが風にのる。看板の手前で曲がる角を、今日は曲がらない。手前で曲がるのは、言葉のほうだ、と真田は言った。言葉は、まだ切り出しの角度が決まらない。直角でも、カーブでも。僕は通り過ぎ、校舎へ向かう。


 暗室。赤い光。蛇腹をくぐると、湿り気の別世界。トレイの水が一日ぶんの埃を飲んで、表面に小さな虹を作っている。花村先輩はいない。僕はひとりで機材を整え、フィルムをリールに巻く。暗闇の中で手先だけの世界に集中すると、心の露出が正常に戻る。化学薬品の匂いが、失敗した午後を淡く溶かしていく。


 現像液の時計は見ない。体内のメトロノームで数える。十分。停止。定着。水洗。赤い光を灯して、トレイに印画紙をすべらせる。さっきの一枚目——苔と玉砂利の境目——の輪郭が、乳剤の白から浮かび上がってくる。意味があるのか、ないのか、判別がつかない。けれど、画面の左下で、ほんのわずかに輪郭のピントが甘くなっている。風の帯の名残のようにも見える。思い込みかもしれない。思い込みでもいい。僕の速度の証拠なら、たぶん写っている。


 二枚目。茅の輪の影。右端で白が飛んで、肩のブレが斜めに走る。——迷いの線。体育館の窓で白が飛んだときの、あの過剰さ。今日の過剰。過剰は、焦燥の別名だ。けれど、その線は、画面を壊していない。むしろバランスを崩したことで、写真が自分で立った気がした。背の低い椅子の上で、初めてしゃがんで撮ったときの、不器用な安定感。僕はピンセットで紙の端を持ち上げ、水を切りながら、口の中で確かめるように呟く。


「——待つだけじゃ、近道は現れない。」


 声が赤い光に吸われる。トレイの縁に水滴が複数の光点になって並び、それらが僕のささやきに合わせて震えたように見える。暗室の換気扇の音が、遠い波みたいに続く。僕は乾燥機を回してから、机に両手をつく。汗で湿った掌が、冷たい合板に吸い付く。


 明日は雨の予報。南から湿った雲。夕方は雷も。——透明なビニール傘を、玄関の隅から持ち出しておこう。媒質。瀬名の祖母の言う“雲が割れる音”。あの話の続きは、まだちゃんと聞いていない。バス停の屋根の下なら、きっと、誰にも見られずに、右手を翳せる。二人なら。


 暗室の電気を落として、蛇腹を押し分ける。廊下の蛍光灯が瞬いて、すぐ安定する。窓の向こうに、濃い雲の端。風は、まだ南東。僕は階段をひとつ飛ばしで降りて——やめる。飛ばすのは、明日に取っておく。順番は、壊すためではなく、並ぶためにある。


 玄関で靴紐を結び直しながら、ポケットの中のカメラの重みを確かめる。さっきまでの失敗が、鉛のように沈んでいくと思っていたのに、意外にも軽い。軽さは、次の行き先を知っている。僕は大きく息を吸う。雨の前の匂いが、空気の下のほうに潜んでいる。胸の中でメトロノームが、いつもよりわずかに速い拍で鳴る。


「次は——僕が時間を作る。」


 誰に聞かせるでもなく言って、廊下の先のドアを押す。外の風が、僕の額の汗を一度で乾かしていった。風鈴は鳴らない。けれど、遠くで、雲が低く鳴った。


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