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第8話「スキップしたい心」

南東3m/s/16:07/引き潮−12分


 体育館の観客席は、熱気が天井で渦を巻いて戻ってくる。空気の層が厚くて、そこに光の埃が浮かぶ。午後四時の手前、窓の上のすりガラスから入る光は鈍いが、床に落ちる白はまだ新しくて、ラインの白と重なって見分けがつかない。金属製の手すりに指をかけると、汗で少し滑る。僕の視野の周辺では、観客の肩やうなじがブレのように揺れている。露出が半段、オーバーしている感じ。息を吸うたび、ワックスの匂いとゴムの焦げが肺の底で混ざる。


 真田海斗は、コートの真ん中でボールを受けると、床と親指で何かを確かめるみたいに一度静止して、次の瞬間には速度を変えていた。ドリブルが床を叩くたび、音が胸骨に刺さる。——置いていかれる音。アリーナの中では、全員が同じ方向を見ているのに、音だけは僕を選んで背中のほうに抜けていく。僕より先を歩く二人の背中を撮ってしまったときの、あの鈍いきしみが蘇る。スキップしたい心は、いつも足の甲ではなく、胸の真ん中に住んでいる。


 残り時間一分。相手のゾーンが揺らいだ瞬間、真田はわざと強く一歩踏み込んだ。床が鳴る。二人引きつけて、逆サイドへ鋭いパス。綺麗に決まって歓声が湧き、ベンチのタオルが一斉に跳ねた。点差はわずか。時間は、跳ねるボールと同じリズムで縮む。


 ブザー。勝った。歓声の白い泡が一度に弾けて、僕は座ったまま手すりに額を寄せる。視界に黒い斑点が出て、すぐ消える。彼らの輪の中心で、真田がチームメイトに背中を叩かれ、笑っている。あの笑いは、彼の速度だ。誰かの速度を羨むことと、憎むことは違う。僕はそれを知っているつもりで、つもりのまま、息を吐く。


 試合がはねた後の体育館は、さっきより暗い。照明が一段落ちたのか、光の粒が減る。人が引いていく音のほうがよく聞こえる。僕は階段を下り、コートサイドの出口で待つ。汗の蒸気が廊下までついてくる。真田が現れる。タオルを首にかけ、額を拭いながら、僕を見つけると顎を上げて合図した。


「来てたの、透。」


「うん。……良かった、今の。」


「お前の“今の”、いつも短いな。」


「長く言うと、嘘が混ざるから。」


「写真と同じか。」


 笑い合って、歩く速度が自然に合う。廊下の端にある窓から、風が少し入ってくる。南東。湿った塩の気配。引き潮は、町の中の金属部品にうっすら白い粉を残す。窓枠の下辺にも、それが細く積もっている。


「瀬名は?」


「図書室。今日は当番らしい。」


「そっか。」


 真田はタオルを握り直して、僕の横顔を一瞬だけ盗み見た。それから、わざとらしくない調子で言う。


「——誘えよ。」


 僕は足を止める。さっきのドリブルのような短い音が、胸の中で反射する。


「何を。」


「海。お前、それしか考えてない顔してる。」


 言い当てられて、笑いが出る。防犯ベルみたいに鋭い笑いじゃなくて、緩い、救いのあるやつ。真田は続ける。


「俺さ、間合いを取るのが得意だと思ってたんだけど、最近わかってきた。間合いって、相手と自分の速度の平均じゃない。合わせたいほうに、半歩寄ること。寄らないと、ずっと同じ距離のまんま。」


「半歩。」


「お前の“手前で曲がる”って話、瀬名から聞いたよ。うまくいったんだって?」


「……手前では、ね。」


「じゃあ次は角じゃなくて、言葉のほうを手前で曲げろ。直角に曲がらなくていい。カーブでいいから。——誘えよ。」


 言葉は強くない。押しつけでもない。けれど、廊下の淡い光を受けて、輪郭がくっきり見える。善意は、時々、刃より鋭い。でも、切れる方向が違う。僕の躊躇のほうを切り落とす。彼の速度は、押すのではなく引く。呼び込む。


「真田は、行かないの?」


「俺? 行くわけないだろ。あいつはお前と行くのが似合う。」


 軽く肩をぶつけてきて、すぐ離れる。バスケシューズのソールが廊下で鳴る。置いていかれる音——なのに、不思議と痛くない。


「写真、撮った?」


「撮ってない。今日は。」


「そう。——でも、試合中に一回、客席でお前が息を止めたのが見えた。ああいう顔のとき、撮るんだと思ってた。」


「撮りたいと撮るは、同じじゃない。」


「なるほどね。じゃ、撮りたいほうで、行け。」


 彼は笑って、出口へ向かう。扉の向こうから、夕方の薄い光が滲む。背中が小さくなる前に、彼は振り返って手を振った。汗が光って、そこだけ夏が先に来ているみたいだ。僕は、手を上げずに会釈だけした。手を上げるのは、誰かと一緒のときにとっておきたい。


 ——暗室に行こう。僕はそう決めて、体育館脇の外階段を下る。風が階段の隙間を通り抜けて、金属の匂いを残す。校舎の影は長く、でもまだ“沈みきっていない”。印刷室の前を通ると、インクの匂いが短く刺さる。写真部の部室は、そのさらに奥だ。


 暗室は、いつもの赤がやわらかく灯っている。蛇腹のドアを開けると、先輩の花村梨生が白衣の袖を捲って、トレイを覗き込んでいた。水面に浮かぶ紙の上で、どこかの空がゆっくり現れて、固まっていない表情でこちらを見返す。


「お、透。暑かったろ。」


「体育館、洗濯機の中みたいでした。」


「比喩が湿ってるね。」


「梅雨なので。」


 僕は笑ってから、カバンからカメラを取り出し、空のリールを二つ出して並べる。今日は現像するフィルムの予定はない。けれど、暗室にいると、言葉が整理される。露出を決める前の、頭の絞りが整う。


「さっきの試合、行った?」


「行ってない。写真展の出品、選ばないと。」


「先輩は、何を出すんですか。」


「“何を”って、透、またそれ。」


「また、って。」


 花村先輩は、ピンセットを水切りの網に置いて、こちらに向き直る。赤い光が彼女の目に薄く入って、黒目が大きく見える。


「透。前も言ったけど、もう一度問うよ。——何を撮りたい?」


 問われるたび、言葉が違う場所から集まってくる。今日の言葉は、体育館のドリブルの音と、廊下の風の匂いを連れている。


「撮りたいのは……速度、です。いや、“同じ速度”のほう。違う速度の中にいる二人が、一瞬だけ並ぶ、そのタイミング。」


「ふむ。」


「でも、いまの僕は、並ぶ前の“スキップ”ばかり見てる。順番を飛ばしたい心。置いていかれる音。——それも、撮りたい。」


「いいね。『撮りたい』と『いま撮れる』は別だけど、言葉のピントは合ってきた。」


「合ってますか。」


「合ってる。たぶん。露出は、まだちょっと明るすぎるかも。」


「明るすぎる、か。」


「今日撮ったもの、見せて。」


「……一本、巻くほど撮ってないです。一枚だけ、体育館の窓の白で、ブレを。」


「持ってる?」


 僕はポケットから、試し撮り用に使っていた24枚撮りの別ロールから切り出した一片——窓際で一度だけ切った、そのコマの試写プリントを出す。白が飛んでいて、ラインの白と窓の白が重なり、どちらも境界を失っている。手すりの一部と、ぼやけた人の肩が斜めに流れている。過剰な光は、迷いの形をしていた。


「うん、いい。過剰で、ぎりぎり。迷ってるのが画になってる。——これ、使える。」


「使える、んですか。」


「“迷ってる自分”を撮れるやつは、走れるよ。」


「走るの、苦手です。」


「知ってる。」


 先輩は笑って、棚から乾いた紙を数枚出す。光が紙の上で跳ねる。暗室にいると、時間の速度が変わる。伸びすぎもしないし、削れすぎもしない。等速で進む、と言えば嘘になるが、少なくとも“間に合わない恐怖”だけは、ドアの外で待っていてくれる。


「明日、四時だろ。」


「はい。風待ち坂。」


「誘うの?」


 誘う。動詞が喉の手前で整列する。今日、真田が言った言葉が、背中の真ん中を軽く押す。


「——誘います。」


「いいね。じゃあ、今日の最後は撮らないで帰りな。手は温かいままにしておきなよ。」


「撮らない、って勇気が要りますね。」


「要る。けど、透は持ってる。最後まで私はそれを評価する予定だけど、途中だって使っていい。」


「途中。」


「そう。途中で使う勇気が、一番効く。」


 暗室を出ると、廊下の蛍光灯がまたたいた。停電寸前みたいな揺れ方。けれど、落ちはしない。窓の外では、風が建物の角を撫でて通り過ぎる。南東の匂い。遠くのほうで、体育館のドアがもう一度だけ跳ねた。音は、一拍、胸に残って消える。


 僕は階段を下り、靴ひもを直してから、角砂糖のほうへ歩く。手前で曲がる角の、さらに手前で足を遅くする。夕方の空は、沈みきらない。灰色の層の間に、薄いオレンジが指一本分だけ挟まっている。右手を上げる。翳すまではいかない高さ。指の隙間を通る光の筋が、瞬間、路面に揺れを落とす。道にはならない。ならなくていい。今日は、それでいい。


 家の前でシャツを脱いで、洗濯機に投げ入れる。汗の塩が白く縁取りされているのが見える。目を閉じる。真田の「誘えよ。」が、耳の奥でまだ響いている。——誘う。言葉にしてみる。声には出さない。喉の手前で、明日の形が整っていくのを感じる。


 寝る前に、カメラの巻き上げレバーを半分だけ引く。次のコマの“手前”で止める。カウンターは、十八から一つ進んで、十七になった。数字を見て、深く息を吐く。残りの枚数は、脅しではなく、味方だ。最後の一枚は夏の入口に温存する——その約束を、いまはまだ遠い未来として、優しく棚に戻しておく。


 明日の四時。南東の風、三から四。引き潮は、干潮から四十分の幅。風待ち坂の風鈴が、二度鳴るかもしれない。鳴らなくても、行く。スキップしたい心をポケットに入れたまま、順番を守る速度で。——間に合わないのがいちばん怖い。でも、走り出す前の一歩で、もう半分は届いている。そう言い聞かせながら、目を閉じる。耳の中で、さっきのドリブルが最後に一回だけ跳ねて、静かになった。


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