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第7話「角を曲がる」

南東4m/s/15:53/引き潮+18分


 パン屋「角砂糖」の白い看板は、午後の逆光に縁を焼かれて、角が少しだけ柔らかく見える。いつもならそこを目印に、信号を渡って大通りへ出る。今日は違う。僕は看板の“手前で曲がる”。しかも、その“手前の手前”で速度を落とし、呼吸を整えた。歩幅を半コマ分だけ狭めると、体の影がアスファルトに濃く乗って、足音が静かになる。写真でいえば、感度を一段下げた感触だ。


 角の手前に、古いブロック塀の切れ目がある。緑の蔦がほどけて、路地の口を半分ほど隠している。そこを抜ければ、瀬名の通る帰り道へと斜めに合流できる——未来地図に、昨日二人で描いた薄い線。僕は壁に手を触れず、風で蔦が揺れる瞬間を待った。南東の風が、ゆっくり路地の奥から吹き返してくる。匂いは洗い立てのタオルと、どこかの家の生姜。遠くで波の白がはぜる音が、粒立ちの細かい雑音になって耳の奥を撫でた。


 秒針が目に見えたら便利だのに、と時々思う。けれど見えないから、気配を拾うしかない。壁の影がひと目盛り短くなった。空がほんのわずかに澄んで、雲が薄い層を一枚だけ剥いだように明るむ。——いまだ。


 右足でアスファルトの目地をひとつ跨ぎ、僕は角を手前で曲がった。視線の奥行きがふっと入れ替わって、いつもの通学路の裏表みたいな風景が現れる。少しだけ湿った塀、低い雨樋、軒先のプランター。そこに、影がひとつ動いた。少し先、横断歩道へ向かう前の細い道。白いリュック。短く結んだ髪が、逆光で淡く透けている。


「瀬名。」


 呼びかける声は、声というより、喉から滑り落ちる小石みたいな手触りだ。彼女は振り向くと、目を丸くして、それからいつもの笑い方——目尻だけが温度を帯びる——をした。驚きが残る笑いは、輪郭線の太さが一瞬だけ揺れる。


「透。どうしたの、ここで。」


「手前で、曲がってみた。」


「うん。……うん、そういう作戦だった。」


 僕らは歩幅を合わせる。歩幅って、合わせた瞬間は簡単に思えるのに、三歩、四歩と続けるほど、心の速度のほうを合わせ直さなきゃいけないから、いつもそこに少し汗をかく。瀬名の白いスニーカーのゴム底が、アスファルトに「しゅっ」と短い音を残すたび、僕のスニーカーもやや遅れて、同じ高さで音を返す。路地の陰は涼しく、風が通るところだけ、髪の表面がささやかに逆立つ。


「昨日の地図、役に立ってる?」


「たぶん。影が、指す先に君がいた。」


「影が指す先へ行け、だっけ。」


「宮司さんの言葉。」


「うん。あの人、言葉選びがすごく“古い”のに、いまの速度のまま届く。」


「速度。」


「うん。——ねえ、今日は四時、ちょっと手前に行けそう?」


 僕は首を縦に傾けつつ、心のどこかでタイマーを巻き直す感覚がした。今日こそ、角を曲がった勢いで、言葉の角も曲がり切る。そのための“手前”。目的地の手前で速度を調整するみたいに、会話も、前後を整えてから跳ねたい。


「行ける。風、いい感じだし。」


「南東、四。掲示板、さっき見た。」


「僕も見た。」


「だよね。」


 彼女はリュックの浅いポケットから手帳を取り出しかけて、やめた。紙を開かずに、表紙の布を親指で撫でる。その布の毛羽立ちが、指に微細な摩擦を作る。摩擦は、速度の味だ。速くすると消えて、遅すぎると痛くなる。ちょうど良い摩擦は、進んでいるときの音のない拍子。


 パン屋の看板の裏手を回るルートは、住宅の壁が近く、人の気配がところどころに落ちている。窓の向こうで夕飯を作る音。郵便受けに新聞が当たる音。庭先の風鈴はまだ鳴らない。鳴らない手前が、町じゅうに充満している時間帯だ。


「瀬名。」


「うん。」


 言葉が喉まで上がってくる。いつもなら、喉のところで少し滞って、声帯の手前で冷たく固まる。それを、今日は押してみる。角を手前で曲がったみたいに、声も手前で倒す。


「海——。」


 言ってから、音を選ばなかったことに気づく。海、という名詞は広すぎて、誘いにならない。誘いにしてしまうには、動詞と時刻が要る。動詞が間に合わなくても、せめて確度を変える。


「海、好き?」


 瀬名は、少しだけ不意をつかれた顔をして、それから頷いた。頷きは短く、でも明確に傾く。

「うん。好き。……でも、海って、誰と歩くかで色が変わるね。」


「色?」


「今日の海は今日の色。明日の海は明日の色。でも一番変わるのは、人。誰と行くか、で。私、ひとりで行く海は、いつも“明るいけど薄い”の。」


「薄い?」


「うん。露出オーバーみたいな。」


「わかる。」


 わかる、と言いながら、僕の指は無意識にカメラの巻き上げレバーに触れていた。撮るのは、いまじゃない。わかっているのに、指は記憶の習慣で金属の冷たさを探す。彼女の言う「薄い」は、僕の中で具体的な画質になる。白が白のまま広がって、影が細くなる。そんな海に、動詞を連れていくのは、今日である必要がある。あるのに、喉の手前で、日時の確定がまだ蒸気みたいに逃げる。


「じゃあ。」


 僕は言いかけて、歩道の縁石の影に目が止まった。逆光で濃く伸びた影が、ちょうど二人の足元をまたいでいる。影は直線ではない。舗装の凹凸で微妙に震え、そこに風が通るたび、数学では書けない曲がり方で揺れる。僕は立ち止まる。


「ちょっと、いい?」


「うん。」


 ファインダーを覗く。縁石の影が画面を斜めに分け、左上の白が飛びそうになる。絞りを一段絞めて、シャッタースピードを少し速くする。二人分のつま先が影の縁に並ぶ、その前瞬間——合わせるのではなく、合いかけ。合う手前。そこにしかない距離の濃さを、逃したくない。指は、迷わず落ちた。カシャン。金属の軽い音と一緒に、胸の奥で小さな緊張がほどける。「残り18」。数字を数える自分を、今回は少し赦す。


「歩幅の写真?」


「うん。——歩幅の“手前”。」


「手前、が好きなんだね、透は。」


「たぶんね。手前が長いと、次を選びやすい。」


「選びやすい、か。」


 彼女は足先で縁石をひと蹴りして、影のこちら側と向こう側をまたいだ。その動作に、すこしだけ潮の匂いが濃くなる。引き潮は、町のどこにいても、密度を変えて知らせにくる。海は近い。近いのに、言葉は、まだ。


「明日も、四時?」


 瀬名のほうから、時間が差し出される。僕は頷く。頷くとき、喉の手前にいた動詞たちが少し行儀よく並び直すのがわかる。誘う、という動詞も前列に出てくる。でもまだ、それを声にしない。しないまま、彼女の歩幅に合わせて、パン屋の横を抜ける。甘い匂い。ガラス戸の向こうでバゲットをトレーに載せる音。店の人影が逆光で黒く見える。


「ねえ、真田くん、最近どう? 練習、明るい時間にやってるの見かけた。」


「夏の大会があるから。——うまくいってる、と思う。」


「透は見に行く?」


「行く、かも。」


「行かない、かも?」


「うん。……行って、帰りに角を手前で曲がる練習する、かも。」


「練習、ね。」


 歩きながら笑い合う。笑いは短く、息を奪わない笑い。呼吸は走るためにも必要だけど、歩き続けるためにはもっと必要だ。風が少し強くなり、信号機の表面に薄い埃が流れていく。四時まであと十分。僕らは信号を渡らず、路地に沿って学校とは反対方向へ足を向けた。遠回り。遠回りは、今日の僕らには正しい選択だ。


「透。」


「うん。」


「——また今度ね。」


 その言葉は、予告のようで、しるしのようで、刃のようでもあった。刃、と気づくまでに半拍。気づいてから、心の奥の油紙に、薄く切れ目が入る感覚が走る。「今度」は未来の常套句で、優しい。優しいのに、ときどき鋭い。僕は笑って頷き、それでも、言葉の背後に潜む薄い刃を指で確かめる。指に血はつかない。けれど、確かに切れ目はある。そこに風が通ると、音が変わる。


「うん。また今度。」


 言いながら、今度を具体に変えるべきだと、どこかで思う。思って、飲み込む。飲み込むのは敗北じゃない。今日は手前で曲がれただけで、十分だ、とも思う。二つの思いが、ファインダーの中で二重像になって、まだピントが合わない。合わないまま、僕は次の角の影の伸びを見て、歩幅を微調整する。瀬名も、少しだけ靴の位置をずらす。ずれた二つが同じ速度で進むとき、距離は縮まる。


 校門を遠くに見ながら、僕らは分かれる。分かれる“手前”で、短い間だけ立ち止まった。彼女が右手を胸の高さに上げる。指が、光をゆるく編む。右手は、翳すには低すぎる高さ。翳す“手前”。風は、通る。指の隙間に、南東の細い帯が通って、地面にかすかな筋を描く。筋は、すぐに消える。消えるけれど、見たという事実は消えない。


「じゃあ、また。」


「うん、また。」


 瀬名は軽く手を振って、角を通常の位置で曲がる。僕は違う。僕は、さっきと同じ路地に、もういちど入り直す。角を、手前で。角の手前で曲がる練習は、何度だってできる。できるけれど、誰かと“同じ速度”で曲がらなきゃ意味がないことも、もう知っている。遠くで、体育館のほうからドアの跳ねる音が一度だけ鳴った。ドリブルの音はしない。今日は、音が鳴る“手前”だけが、町に満ちている。


 明日の四時。風は南東、四。潮は引いて、うねりの筋が岩場の陰に白を残すだろう。僕は角の位置を頭に入れ直す。角砂糖の手前——ではなく、手前の手前。時間も、手前の手前。四時の十二分前。信号のサイクル。歩幅の呼吸。合わせる練習ではなく、並ぶ準備。胸の内側に置いた見えない地図に、細い鉛筆で印をつける。鉛筆の芯は、刃ではない。刃より柔らかくて、やさしい。けれど、線は残る。残った線の上を、明日、何かが滑るはずだ。


 ——今度、を刃のままにはしない。そのための“手前”は、まだ残っている。僕はカメラの底を軽く叩き、金属の薄い音を聞いてから、フィルムの残りを数えないことにした。数字が背中を押すときと、足をすくうときがある。今日は、押されすぎない。歩きすぎない。走らない。明日のための速度で、家へ向かう。湿った風が、背中のシャツをふくらませて、またしぼませる。四時の光に、町がほんの少しだけ輪郭を濃くしていくのを、振り返らずに感じながら。


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