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第6話「未来地図」

南東3m/s/15:58/引き潮−12分


 図書室の窓際に据えた長机は、臨時のライトテーブルになっていた。窓の乳白色の光が紙の繊維を透かし、古地図の海岸線と現在の地図の道路が、二枚の肌の上でゆっくり重なっていく。僕と瀬名は向かい合って、地図の端をそれぞれの指で押さえた。紙は呼吸を覚えたみたいに、押せば凹み、離せばふわりと戻る。


「この年代だと、まだ“潮鳴り小路”が残ってる。」


 瀬名が昭和三十年代の写しを指先で辿る。鉛筆で薄く引かれた細道が、今の地図の白地にかすかに浮かぶ。白い余白の上に出現する灰色の線は、消えたものが一瞬だけ姿を貸す幽霊みたいだ。


「ここ、角砂糖の手前の筋と、ほんの少しだけ角度が違う。」


「違うけど、重なる瞬間がある。午後四時、東の影が伸びる角度なら——。」


 言いながら、瀬名は手帳を開いた。親指ほどの幅のページに、点と線のメモがびっしり並ぶ。風向、時刻、湿度。余白に小さく丸がついている箇所には「風待ち」と書かれていた。ページの右隅に、付箋が一枚。終業式の日付。付箋はまだ剥がれず、そこにいる。


「風向は?」


「南東。三から五。四時を中心に、±十二分。」


 彼女の声は、数字を言うときだけ、かすかに硬くなる。硬さは緊張ではなく、確かめの硬さだ。僕は彼女の手帳のページに落ちた彼女自身の右手の影を見た。影の縁が、窓からの光で柔らかく溶けていく。影が濃いほど、地図の線が鮮明になる。写真でいえば、逆光のなかで露出を−1/3に寄せる瞬間に似ている。


「重ねて、ずらして、戻す。」


 瀬名が古地図と現代地図を数ミリずつスライドさせる。そのたびに、二つの時代の汐見町が、ほんの刹那だけ同じ速度で歩く。東浜の湾曲、風待ち坂の取りつき、パン屋のある角——名前を持った場所が、透明な皮膜のようにずれては合う。ずれと合致の間に、近道の気配は潜む。


「透、撮って。……いまの、この“重なった瞬間”。」


 彼女が言ったとき、僕はすでに指で巻き上げレバーを探っていた。ファインダーを覗き、二枚の地図の境界を画面中央に置く。斜めに走る鉛筆の線、コピートナーの粒、紙の繊維。僕は息を浅く止め、シャッターを一度だけ落とした。カシャン。紙に落ちた小さな音の影が、時間を一枚、こちらに引き寄せる。


「一枚目、置いた。」


「ありがとう。」


 巻き上げながら、僕はカメラの底に貼った紙片に心の中で線を引く。「残り20。」。数字は、目安という名の拠りどころだ。拠りどころがあると、人は急ぎたくなる。急ぐと、露出を間違える。間違えないように、僕は肩の力を一段抜いた。


「次、ここ。」


 瀬名が手帳の別のページを開いた。そこには「南東/四時」と太字で書かれ、その下に短い棒線が並ぶ。棒線は短い心音のようで、端に小さく「3.8」「4.2」とある。風の速さの数字らしい。僕はそのページに落ちた彼女の指の影を、真正面から見た。指が動くと、影が地図の道をまたぎ、止まると、影の先だけが紙の繊維に沈んでいく。沈む影は、目に見えないものの輪郭を一瞬だけ掬い上げる。


「そのページ、もう一枚。」


「ページを?。」


「うん。メモの跡が欲しい。」


 僕の言い方は説明になっていないのに、瀬名は頷き、手帳を紙の上に置き直した。僕は画面の端に彼女の指先の薄い汚れを入れ、開いたページの余白に光が薄く溜まるタイミングを待った。白は白のままでは写らない。白に落ちる影が、白を写す。呼吸を一度、細く吐いて、二枚目。カシャン。フィルムの歯が一コマ進む手応えに、数字がひとつ減る感触が重なる。「残り19」。奇数のほうが落ち着くのは、僕の性格か、写真の癖か。


「……未来の地図みたいだね。」


 瀬名が、撮ったばかりの二枚を見られもしないのに言った。未来の地図。いま見えている線の先に、いまはまだない道を描く地図。僕は頷く。


「未来の地図は、たぶん歩きながら描く。」


「歩かない地図は、過去の地図。」


「過去の地図、好きだけどね。」


「うん。過去がないと、未来は薄い。」


 言葉が机の上を滑って、紙の縁で止まる。止まったところに、窓の外の雲から漏れた少し強い光が差した。机の木目がいきなり立ち上がり、地図の白地に細い縞を投げる。縞は数秒で退いて、また戻る。光の呼吸。僕は無意識にシャッタースピードを指で回し、すぐにやめた。撮りすぎない。撮らなさすぎない。中間を選ぶ勇気は、走る勇気とは違う筋肉を使う。


「ねえ、透。」


「うん。」


「『間に合う』って、誰の速度だと思う?」


 遠い前触れのような言葉が、ふと落ちた。僕は答えを持っていない。でも、答えの方向だけはわかる気がした。四時に重ねた地図が、微妙にずれたその薄い誤差の中に、言葉の行き先がかすかに見える。


「まだ、僕のじゃないと思う。」


「うん。私のでもない。」


「二人の速度に、なりたい。」


 自分で口にして、たぶん遠回りの言い方だなと思った。遠回りは嫌いじゃない。嫌いじゃないけれど、期限はある。終業式。付箋。付箋の角が机の上で少しだけ反り返り、時間の角度を示す三角定規みたいに見える。


 ドアが開いて、図書室に涼しい空気が入った。花村先輩が顔を出す。写真部の顧問に用があるのだろう。僕に気づくと、顎でカメラを指した。


「雨宮、何を撮りたい?」


 唐突でも、問いはいつも核心を外さない。僕はすぐに答えられず、窓の外の雲を見た。雲は厚くも薄くもなく、途中で迷っているみたいな形をしている。


「——歩幅、です。」


 口から出た言葉は自分でも意外だった。花村先輩は少しだけ笑って、「いいじゃん。」と言って出ていった。いいじゃん、という軽さが、問いの重さをちょうどよく支える台座になる。瀬名が僕を見た。笑わない。笑わないで、目尻だけをやわらかくして、「歩幅の写真、見たいな。」と言う。


「作戦、決めよう。」

「四時を中心に、三日間。私の古地図の“重なりポイント”を順に歩く。パン屋の手前の角、一つ前の曲がり角、風待ち坂の石段の右端。どれも、少しずつ角度が違うから。」


「歩く順番は?」


「角砂糖の前——じゃなくて“手前の手前”から。」


「手前の手前。」


「うん。角の角でもいいけど、それは最終日に。」


 角の角。角の辺。言葉遊びが、戦術の芯になる。僕はノートを出し、地図のコピーの片隅に「手前の手前」と書いた。書いた文字のインクが、紙の繊維にゆっくり吸い込まれる。吸い込まれる速度は、心拍と歩幅と、たぶん同じ場所に絡み付いている。


 放課後のチャイムが遠くで鳴り、図書室に人が増え始めた。紙の擦れる音があちこちで立ち、鉛筆の芯が折れる音、ページがまとめてめくれる音、カウンターで栞を借りる音。音はみんな短い。短い音の間を、光が長く伸びる。四時まであと数分。光の性格が、ゆっくり逆光の準備に入る。


「行こうか。」


「行こう。」


 机の上の地図を丁寧にクリアファイルに戻し、手帳をリュックの浅いポケットに滑り込ませる。窓ガラスに近づくと、外の空気の温度が一段上がっているのがわかる。梅雨の湿度のなかで、四時の光だけが季節の境界を先に跨ぐ。僕たちは図書室を出て、廊下を小走りに抜けた。歩く速度と走る速度の合間を、靴底が探る。探るたび、心臓が少しだけ確かになる。


 校舎を出ると、風が変わっていた。午前中は南南東だったのが、午後になって純粋に南東へ寄っている。旗が同じ角度で揺れ、プールの水面が微細にさざめく。光は、もう逆光の斜面に差し掛かっている。風待ち坂の鳥居が、遠くからでも鈍く光って見えた。


「角砂糖まで、今日は“手前の手前”で曲がる。」


「了解。」


 通学路のアスファルトは昼の熱をまだ保っていて、ゴム底が音を吸う。パン屋の前の白い看板が見える手前の電柱——その一本前の細い路地。僕はそこで速度を落とし、瀬名を見た。彼女は首を少しだけ傾け、右手でリュックのベルトを軽く持ち替えた。いつでも曲がれる姿勢。僕も、同じ。


「いまだよ。」


 声が落ちると同時に、僕らは角を曲がった。曲がる動作は、写真でいえば画面の中の水平をほんの少し傾けることに似ている。傾けると、流れが生まれる。路地は狭い。洗濯物の匂い、花壇の土の匂い、誰かの夕飯の準備の匂い。匂いの層に、海の薄い塩が混じった。遠い白が近づく合図。


「——ねえ。」


 瀬名が右手を胸の高さに上げ、指を少しだけ開いた。翳す、というほどではない。翳す手前の、選び直し。指の隙間に、家々の壁から跳ね返った柔らかい光が通り、地面に影が落ちる。影は、さっき図書室で見た彼女の手帳の影と同じ形をしている。影の先には、路地の出口の四角い明るさ。四角の縁に、風の薄い帯がかかった。


 ——鳴らなかった。風鈴はここにはない。それでも、風の粒が一瞬、舌を鳴らしたような音を作った気がした。耳ではなく、胸の皮膚で聴く小さな「ひっ。」。雲は割れない。割れない手前。手前の手前。


「今日は、知らせだけ。」


「うん。知らせが重なると、道になる。」


「次は、四時の“前”に。」


「十二分前?」


「たぶん、そのくらい。」


 路地を抜けると、風待ち坂へ上る参道の手前に出た。鳥居の下、風鈴は今日はおとなしい。鈴の舌がわずかに斜めを向いているだけで、音は出ない。音が出ないことが、音の準備のように見える。僕たちは立ち止まらず、石段を二段上って、また降りた。上るだけだと、すぐに期待が呼吸困難を起こす。降りることで、期待に酸素が入る。


 帰り道、僕は瀬名に訊いた。


「転居のこと、家で何か言われた?」


 自分で訊きながら、まだ早い質問かもしれないと思った。瀬名は少し考えてから、「まだ。」と答えた。「“終業式までに”って言われたまま。だから、歩くしかない。」


「歩くしかない。」


「うん。走るのは、最後に、とっておく。」


 走る勇気と並ぶ勇気。順番は、まだ入れ替えない。僕は頷いて、彼女の歩幅に自分の歩幅を合わせ直した。合わせ直す、という行為が気持ちいい。合わせ続けるのは、もっと難しくて、もっと気持ちいいはずだ。


 駅前の広場を横切ると、電光掲示板のニュースと天気のテロップが流れた。僕らは同時に足を止めた。そこに、今日と明日の風向と風速が表示される。


 ——南東の風 4m/s


 数字は従順だ。従順な数字は、背中を押す力の単位にもなる。僕は掲示板の白い光に目を細め、「明日、四時の前。」と口に出した。瀬名は小さく拳を握り、「うん。」と言った。声は短い。短い声のあとに、長い光が続く。光はゆっくり傾き、僕らの影は少しだけ伸びた。伸びた先のアスファルトは、まだ熱を残している。熱は、合図の手前で、静かに待っていた。



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