第5話「風待ち坂の伝承」
南東4m/s/16:03/引き潮+11分
風待ち坂は、坂の形をした深呼吸だった。石段の際から際へ、風が透明の布みたいにかぶさっては剥がれ、木漏れ日の粒を行き先のわからない矢印に変える。六月の午後四時。参道脇の竹の葉が擦れ合う音は、誰かが遠くで小声にする「おいで。」の練習みたいだ。
「今日は、揃ってる気がする。」
瀬名が言った。白いリュックの肩紐を少しだけ緩め、額の上で前髪を整える。右手は、まだ翳さない。翳す手前の、息。
「潮、引いてるね。」と僕。石段の隙間から上がる湿った匂いに、白い塩の粉をひとつまみ足したみたいな気配がある。見えないのに、鼻の奥が確信する種類の白。
参道の鳥居は、赤というよりも古びた朱で、角は夏の光を鈍く零す。軒先には風鈴が十ほど下がっている。いずれも同じ形なのに、同じ音を出さない。風は、鈴の舌に個別の用事を言いつけてから通り抜けていく。
社務所から、麻の半纏を着た宮司が出てきた。千歳賢吾——風待ち神社の主であり、この町の季節の出入り口を見守ってきた人。白髪を後ろに撫でつけ、目尻には海の塩で刻まれたみたいな皺がある。
「おや、図書館の子と、写真部の。」
「こんにちは。」瀬名が深く頭を下げる。僕もそれに合わせて会釈する。宮司は僕らを見て、風の向きを一度だけ仰いだ。
「南東だな。四時。潮は下がりぎわ。悪くない。」
悪くない、という評価は、期待を少しだけ本物にする。僕は肩からカメラの重さを降ろさず、ストラップを指でつまみ直した。石段の一段目が、今日に限って薄く明るい。光が地面に残ったまま、ゆっくり伸びようとしている感じ。
「千歳さん、昔話を、もう一度聞きたいです。」
瀬名が言う。宮司は頷き、拝殿の脇にある木のベンチを手で示した。僕らは座らず、立ったまま耳を傾ける。立った体のままで聞く話は、足の裏にまで染みる。
「この坂の途中でな、右手を翳す。指の隙間へ風を通す。影が地面に落ちるだろう。その影が、指す先へ行け。——昔から、そう言う。」
僕は反射的に自分の右手を見る。掌の中央、薄い皺が集まるところは、誰にも見せたことのない地図に似ている。そこに風が入るとしたら、どんな音がするだろう。
「影が指す“先”って、目に見えるんですか。」
「見ようとすると見えん。」
「見ようとせず、歩くんだ。歩くのが肝心。立ち止まるほど、道は短くなる。」
七分。瀬名が図書室で言っていた持続時間が、僕の耳の裏でひそかに頷く。僕はベンチの横の木の根に目をやった。根の上に、落ちた葉の影が二重三重に重なり、濃淡が小さな谷を作っている。谷というより、迷い。
「いつ出るかは、あんたらの速度次第だ。」
宮司はそう言って、拝殿の方に目をやった。軒の風鈴が、ちょうど一度だけ鳴る。澄んだ音が石段の上へ逃げ、木々の間へ散っていく。
「……一度目。」瀬名が小声で言う。気づくための一回。僕は息を飲み、歩き出す足の角度を脳内で整えた。石段の端、影が柔らかく伸びているところを踏む。靴裏のゴムが、苔の細かい粒を軽く撫でる。
歩く。止まらない。瀬名が半歩先、僕は半歩後ろ。歩幅を合わせても、位置はずれる。位置がずれると、見える光が変わる。変わるたびに、僕は“並ぶ”という言葉を胸のポケットで裏返す。
四段目あたりで、風が角度を変えた。東南東寄り。葉の表がひっくり返り、光の粒が斜めに走る。参道の右側、狛犬の足もとに、薄い明るさの帯が現れた。帯は、動く——ように見える。目を凝らした僕の意識から、写真という単語がしばらく消える。ファインダーを覗かないまま、世界の露出が僕の網膜に直接乗る。
鳴った。二度目の風鈴。さっきよりも近い音。合図、だと体が勝手に解釈する。解釈に合わせるみたいに、瀬名が右手をゆっくり翳した。指の間をすり抜ける光と風。地面に落ちた影は、輪郭が甘いのに、やけに確信に満ちている。影の先端が、参道の端に延びていく。そこに——薄い、細い、ほとんど見えない道筋が、確かに“流れようとしていた”。
僕は、ひとつ余計な呼吸をした。ほんの一瞬、立ち止まる。立ち止まると、足の裏から、地面に吸い込まれていた気配がふっと逃げた。逃げたのは、道のほうかもしれないし、僕の勇気のほうかもしれない。瀬名が振り向く。目と目が合う。彼女の瞳に、僕の一瞬の停止が正直に映っている。
帯が薄くなる。風の角度がまた変わって、葉の表は裏に戻る。二度鳴った風鈴は、三度目を出し惜しむ。空気の揺れは残っているのに、“道”は濃くならない。僕は踏み出すつま先の方向を変えかけて、やめた。変えられないのではなく、変えないと選んだことにする。選んだことにした瞬間、その選択はたちまち言い訳に変わる。
「……いま、少し、見えたね。」
瀬名が微笑んだ。責めない笑い。責めないほど、刺さる。
「止まると、短くなるって、ほんとだ。」と僕。
「うん。でも、止まらないのも、むずかしい。」
宮司がゆっくり近づいてきた。僕らの足もとを一瞥して、頷く。「今日は“知らせ”だけだな。知らせは、次の知らせを呼ぶ。」
知らせ。合図。半押しの、長い呼気。僕は肩にかけたカメラの重さを、受け直す。ファインダーを覗かずにいた目が、急に“撮る”の焦点距離に戻ってしまい、世界が少しだけ四角く見える。四角の端に、薄い帯の残りが揺れている。
「千歳さん、古い地図、見せてもいいですか。」
瀬名がリュックからクリアファイルを取り出し、年代の違う汐見町の地図を数枚、宮司の掌に渡す。宮司は指先の皺を地図の海岸線に沿わせ、丘の起伏の等高線を爪の先でなぞる。古地図の上で、指が時代を歩いている。
「潮鳴り小路……。」と宮司が小さく呟いた。「今の地図にはもうない。だが、風は覚えておる。」
「風が、覚えてる。」
「うむ。道は土だけではない。風の通り、ひかりの通り、人の通り。三つが揃うと“近道”は顔を出す。」
人の通り。僕らの歩きの速度。僕は自分の靴紐に目を落とした。結び目が濡れていない。今日の僕は、慎重だったのだ。慎重は、時に怠慢の別名になる。怠慢は、臆病のやさしい仮名遣い。
「これ、良かったら。」
瀬名が、B4サイズのモノクロコピーを僕に手渡した。古地図の一枚——昭和三十年代の汐見町。東浜の上に、鉛筆でごく細く手書きの矢印がある。矢印は、現在の歩道にかすかに重なりながら、途中で紙の余白へ抜けていた。余白に、細い字で「潮鳴り小路?」と書かれている。最後のハテナが、海風にめくられそうな小ささで震えている。
「コピー、ありがと。」紙の角は暖かい。誰かの手から受け取った紙は、物の温度ではなく、時間の温度が移る。時間の温度は、写真には写りにくい。写りにくいものほど、見たくなる。
「来週は、南東が続くって予報だよ。」
「四時を中心に、少しずつずらして、歩いてみよう。」
「ずらす?」
「うん。同じ四時でも、四時“ちょうど”じゃない。四時の前後。影の速度が変わる。」
前後。もっと手前で。角砂糖の看板の前で躊躇した自分の足が、僕の脳内で別の角へ曲がる練習を始める。曲がるのは、速度の変更より難しい。難しいことは、たいてい良い写真になる可能性を持っている。可能性は、露出のど真ん中では光らない。
「雨宮君。」
宮司の声が、その練習を呼吸に戻す。「あんた、今日は撮ったか。」
僕は一瞬迷ってから、首を横に振る。「まだ、です。」
「ならば一枚、置いていけ。」
「置いていく?」
「ここに、今日の“足”を。」
僕は躊躇ってから、ようやくファインダーを覗いた。拝殿の柱の根元、石段の縁、薄い帯が消え残ったあたり、瀬名の右手の影がまだ甘く落ちている。影は主張しない。主張しないものを中心に置くと、周りが勝手に語り始めることがある。僕は露出を−1/3に振り、息を小さく抜き、シャッターを一度だけ押した。
カシャン。音は小さいのに、胸の骨の間で響く。響きは、さっきの風鈴の一度目と二度目の間に滑り込んでいったように感じられた。巻き上げレバーを親指で戻しながら、カメラの底に貼った紙片に心の中で線を引く。「残り21」。数字は従順だ。従順な数字は、残酷にも優しい。
「ありがとう。」
「今の一枚は、誰のためでもない。あんたらの“歩き”のためだ。」
僕は頭を下げる。レンズキャップをつける手が、少しだけ震えた。震えは、恐怖と期待の共通語。変換を間違えると、写真はぶれる。ぶれた写真にも、良いぶれがある。今日は、そのぶれではない。
参道を下りる。風は相変わらず南東。鈴はもう鳴らない。鳴らないで、いる。鳴らないことにも、意味がある。足もとに残った光の粒が、下り坂の角度に従って前のめりに転がる。転がる粒を追うと、歩幅が自然に小さくなる。小さくなった歩幅は、会話の隙間に居心地の良い影を作る。
「さっき、出そうだったね。」
「うん。僕が、止まった。」
「私も、止まりかけた。」
「でも——。」
「うん。知らせは、来た。」
僕らは顔を見合わせる。見合った顔は、どちらも少し赤い。参道の緑が、その赤を優しく奪っていく。奪われる赤は、恥ずかしさの証拠品。証拠品は、いつだって現場に戻りたがる。
「角砂糖の前、明日、もっと手前で曲がってみようか。」
僕は笑って頷いた。角砂糖。あの白の前で、僕は何度も立ち止まった。立ち止まった白は硬い。硬い白の前で、柔らかい決心を取り出すのは難しい。難しいことは、僕に似合うかもしれない。
鳥居の下、風が一段強くなった。鈴は——鳴らない。鳴らないけれど、鈴の舌は風でわずかに曲がり、その曲がった角度が目に残る。鳴らなかった音の輪郭を、目で聴く。目で聴いた音は、あとから胸で遅れて鳴る。
坂を下りきったところで、瀬名がふいに僕の右手を見た。
「掌、見せて。」
言われるまま、僕は右手をひらいた。皺だらけの小さな地図。瀬名はそこに、鉛筆でごく小さく矢印を描いた。矢印は、「今」と書かれた見えない点から、ほんの少し手前へ向かっている。ほんの少し、手前。
「どこに、向かうの?」
「さあ。——“角の手前”、かな。」
僕は笑い返し、右手を空に翳した。今日は陽が薄い。薄い陽でも、掌の皮膚の上に柔らかい白を作る。白は輪郭を持たない。持たないから、影が生きる。影の先は、さっきよりも平凡で、さっきよりも確かだ。
帰り道、角砂糖の看板はいつもの場所に立っている。白いペンキのひびは七本のまま。ひびの一本一本が、別の一日みたいに僕を見ている。今日は曲がらない。曲がらないことを選んだうえで、僕は一呼吸置き、看板の真下で右足を半歩引いた。引いた足の甲に、風の影が薄く乗る。乗った影の先を、目で辿る。
「次は、もっと手前で曲がる。」
声に出した言葉は、誰にも聞こえないくらい小さかった。小さくて、でも確かに空気に触れた。空気は、その触れたところを少しだけ冷たくし、僕の足首へ返してきた。返ってきた冷たさが、歩き出す合図になる。歩き出すと、角砂糖の白はゆっくり後ろに下がり、僕の右手の矢印は、今よりわずかに手前で、次の角の位置を指した。