第4話「雨は止みそうで止まない」
南東3m/s/16:11/引き潮−18分
四限が終わるころ、空の色が教科書の余白みたいに薄くなった。五限のチャイムとほぼ同時に雨音が立ち上がり、窓の外が一段暗くなる。雨粒はまだ小さいのに、地面に触れるたび音を増やし、音の層が重なるほど、教室の会話は自動的に小さくなった。六月の雨は、話し声の露出を勝手に絞る。
放課後、写真部に顔を出すつもりで廊下を歩いていると、蛍光灯の光が一瞬だけ呼吸を忘れた。空気から音が抜け、次の瞬間、暗がりが校舎の中を滑っていく。停電。ほんの短い間隔で電源が戻り、薄い白が復活する。復活したばかりの光は硬い。硬い白は、指で触ると粉をふくような感じがある。僕は階段の踊り場で足を止め、天井の蛍光灯がうなり声をあげるのを聴いた。雨は止みそうで止まない。それどころか、音の粒が大きくなっている。
図書室の前まで来ると、扉のガラス越しに瀬名の姿が見えた。カウンター内で紙の束を抱え、窓際の机に置き直している。外の雨で空間の明るさが安定しない。彼女の動きに合わせて影が伸び縮みし、窓ガラスに水の縦線が何本も急いでいる。
「透。」
開けた扉の音より先に、彼女の声がこちらへ届いた。停電の反動で静かになった廊下に、その二音だけがはっきり乗る。
「手伝って。」と言われる前に、僕は腕をまくっていた。机の上では、古地図が数枚、乾いた魚の骨みたいにめくれ上がっている。窓からの風がわずかに入ってきて、紙の端がユラユラする。湿度を含んだ古紙は、呼吸を覚えたみたいに柔らかい。
「乾いた指で触って。」
「濡れてると、インクがにじむから。」
「大丈夫。」
僕は親指と人差し指の腹で紙の角を押さえる。押さえたところが、体温でゆっくり平らになる。窓の外、体育館の屋根を叩く雨の音が、時々、低い太鼓みたいに響く。遠くでほんの一度だけ、ドリブルの音が混じった気がした。音はすぐ雨に溶ける。真田の練習が終わったのか、それとも始まったのか。判断できない曖昧さが、今日の湿度にぴったり合っている。
「さっき停電した?」
「した。非常灯、薄い緑になってた。」
「図書室で非常灯、似合うね。」
「怖いの“似合う”って言う?」
言いながら、瀬名は笑い、カウンターから透明のビニール傘を取り出した。水滴は乗っていない。まだ使ってないのだろう。骨組みの一本に、細い金属の傷が走っている。そこへ光が当たると、細い白い線が浮かぶ。柔らかくはないが、鋭くもない、曖昧な白。僕はその白を写真に収めたい衝動にかられる。けれど、暗室の赤を思い出し、指はポケットの内側で止まる。今日は撮らないと決めてきた。決めたことを守るのは、だいたいの場合、逃げることより難しい。
「返却、ここまで。あとは棚に戻すだけ。」
「うん。」
二人で黙って作業する。紙を重ねる音、引き出しの金具の擦れる音、背表紙が棚に収まるときの短い息の音。雨の層と校舎の音の層が重なり合う。層と層の隙間に、言葉がうまく入り込めない。だからこそ、その隙間で話す話題は、いつもより少しだけ本当になる。
「ねえ、透。」
「うん。」
「雲が割れる前に、音がするって、信じる?」
言われる前から、その話題が来る気がしていた。瀬名は傘の石突を床に軽くつき、傘布を少しだけ開いた。開ききらない半透明の曲面に、窓の外の縦線が弱く映る。映り込みの白は柔らかい。傘の内側の空気が、ひとつの部屋みたいに感じられる。
「信じるよ。」と僕。「この雨も、止む前に、何か音がするのかも。」
「うん。祖母がね、小さい頃、夏の夕方に、雲が『ひっ』って鳴くって言ってた。」
「『ひっ』?」
「声じゃないよ。空の膜が、薄くなるときの音。耳じゃなくて、胸の皮膚で聴くやつ。」
胸の皮膚。写真で言えば、絞りをどこに合わせるか、という話に似ている。耳で聴くのはピント面。胸で聴くのは前ボケ。どちらも“音”と呼べる。どちらも少し正しい。
「そのときね、右手をこうやって翳すんだって。」
瀬名は傘を持たないほうの手を、窓に向けて持ち上げた。指の間を雨の白い線が通り、背景の曇天がわずかに明るくなる。その手のひらの影が机の上の地図に落ちる。影は薄い灰色で、輪郭がとても甘い。甘い影は、写真にするとすぐ嘘になる。けれど、嘘でも、いい嘘がある。いい嘘は、現実を少しだけ希望の方向へ曲げる。
「そうするとね、道が現れる。」
道、という単語はどの辞書にも載っている。けれど、瀬名の言う“道”は、地図の線と同じ字なのに違うものだ。僕はそれを、彼女の声の露出から判断する。明るすぎず、暗すぎず、湿度を含んだ一定の声。信じる声だ。
「どこに?」
「足元だって。地図にないところに、光が薄く集まる。七分くらいで消える。」
七分。具体的な数字は、物語のなかでいちばん現実に近い部分だ。僕は一瞬、カメラの底に貼ったメモ用紙の「残り22」を思い出す。七分と二十二枚。数字は、時間と同盟を組む。
「行ったこと、あるの?」
思わず訊いてしまって、すぐに後悔する。訊いてはいけない質問は、いつも親切そうな顔をしてやってくる。瀬名は首を横に振った。
「私じゃない。祖母。あの人、昔は東浜のほうで暮らしてたんだって。風が抜ける道があって、そこに立つと、潮の匂いがいつもより近くなる。『道はね、呼吸をしてる人みたいに現れたり消えたりするのよ』って。」
「呼吸。」
「うん。だから、急いでる人には見えない。逆に、立ち止まりすぎてる人にも見えない。歩いてる人がいちばん見つけやすいって。」
歩いている人。僕の足は、どうだろう。昨日、角で待った。待ったのは“歩き”だろうか、それとも停滞のうちだろうか。写真における手ブレと被写体ブレの違いみたいに、動いていることが必ずしも前進ではない。前進に見える停滞も、停滞に見える前進もある。
停電がもう一度きた。今度はさっきより長い。蛍光灯の縁に青い影が滲み、薄暗い図書室で雨の線だけがはっきりする。非常灯が緑に点り、真ん中に白い丸が滲む。その淡い白が床に落ちて、傘布の内側にも小さな輪を作る。丸い白は玉ボケに似ている。硬い白と柔らかい白の中間に、形だけが先に現れる白。
「怖くない?」と僕。
「少しだけ。……でも、ね。」
「うん。」
「こういうとき、音が近くなる。紙の音も、雨の音も、人の呼吸も。音が近いと、何かが割れそうで、わくわくする。」
わくわく、という言葉の子どもっぽさが、停電の緊張の中で不思議と似合う。僕はうなずいて、「割れる前に音。」と口の中で反芻する。言葉は口の中で形を変える。さっきの『ひっ』が、舌の上で跳ねる。
「祖母、もうひとつ言ってた。道が出るとき、風鈴が遠くで二度鳴くって。」
「二度。」
「一度目は、気づくため。二度目は、踏み出すため。」
気づくためと踏み出すため。写真でいえば、半押しと全押し。ピントを合わせてから、ほんの少しだけ力を足す。ほんの少しの力の差で、世界の露光が決まる。
明かりが戻った。蛍光灯の白が復権して、非常灯はすぐに消える。戻った直後の光は、目に刺さる。僕は無意識に瞬きし、視界のコントラストが整うのを待った。雨は弱くならない。むしろ屋根を叩く密度が増した。止みそうで止まない、という言い方が、今日ほど正確に思えたことはない。
「……透明、似合うね。」と僕は傘に視線を落とす。
「透明?」
「うん。透明のなかに白があるの、好きかも。」
「透だけに?」
「それ、便利な駄洒落だね。」
二人して笑い、笑いながら、僕は気づく。こういう瞬間を撮ってこなかったことに。撮ればよかった、ではない。撮らなくてよかったのだ。撮るより先に覚えていたい。覚えていたい瞬間は、案外写真に向いていない。向いていないと認めるのは、カメラを持つ者として敗北に似ているが、たぶん違う種類の勝ちがある。
窓の外、廊下を誰かが走った。濡れたスニーカーの底が床を叩く音のあと、体育館のほうから短くホイッスル。真田の声が混じっている気がした。雨の層に紛れ、音はすぐほどける。僕は傘の骨の一本についた傷に視線を戻し、その小さな傷が今日の話の目印になるだろうと思った。目印は、いつも固い白の近くにある。
「このあと、返却もう一段?」
「ううん、終わり。……バス、遅れるよね、これ。」
「だろうね。」
「角まで、一緒に行っていい?」
角、という単語が胸のなかで反響した。パン屋の看板の角じゃない。校舎の角、玄関へ向かう曲がり角。僕は頷く。頷き方が急いでいたかもしれない。僕は急いだふりが下手だ。
図書室を出ると、廊下の蛍光灯は部分的に消えていた。節電なのか、故障なのか。ところどころ薄暗く、ところどころはやけに明るい。雨の音が天井からも床からも来る。瀬名が傘を半分だけ開き、二人でその下に入った。透明の屋根が頭上に来るだけで、音の質が変わる。直射だった粒が、布で拡散して柔らかくなる。柔らかい白が耳の中にできる。
「ねえ。」
「祖母の話、まだある。」
「うん。」
「道はね、証明しようとすると消えるんだって。ものさしとか、機械とか、数字とか、向けると。代わりに、右手には“空気”が入ってくる。」
「空気?」
「うん。空気を掴む感じ。掌の中で、風がすこし重くなる。」
掌の中で、風が重くなる。僕は自分の右手を傘の中で広げ、ゆっくり閉じる。何も掴めないが、何かを掴みそこねた感じは確かにある。掴みそこねた感覚が、今日の湿度とよく馴染む。歩幅を揃えようとすると、自然に肩が触れそうになり、でも触れない。透明の屋根の端から、落ちた水滴が一粒、僕の手首に跳ねた。冷たさは短い。短いけれど、輪郭がある冷たい時間。写真にすると失われるかもしれない輪郭。
玄関の手前で、また一度、電気が落ちた。暗い廊下を非常灯の緑が浮かび上がらせる。緑の中央の白は、さっきより小さい。小さいけれど、見失わない。僕たちは立ち止まらず、歩いた。止まると、傘の内側の空気の温度がすぐに上がる。歩いていれば、温度はゆっくり一定に戻る。歩いているときだけ、近道が見える——瀬名の祖母の言葉が、ここで実感に変わる。
「……雲、鳴ってる?」と僕はふざけ半分に訊いた。
「まだ。割れる前の、手前。」
「手前が長い。」
「長いほうが、気づけるよ。」
長いほうが気づける。短いほうが決めやすい。気づくと決めるは別物で、僕はいつも前者の側に寄りかかる。寄りかかっていることに気づいても、決めるほうへ動かない。カメラの半押しが、長すぎる。
玄関で立ち止まり、外の雨脚を見た。濡れたアスファルトは灰色で、街路樹の葉はいつもより濃い。校門のほうから、風が低く吹いてくる。南東。傘の布を叩く音が、そこだけ一拍遅れる。遅れて、追いつく。そのリズムに、僕の心拍が少しだけ合う。合ったと思った瞬間、風は止み、また吹く。止みそうで止まない。雨の言い方は、今日に限って執拗だ。
「行く?」
「行こう。」
短距離の並走。透明傘の中は狭くて、足の運びがお互いにバレる。段差の手前で自然に速度を揃え、ポーチの端で同時に曲がる。曲がるたび、傘の骨の小さな傷が、光の位置を変える。変わるたび、目印は別の顔になる。
バス停までの短い屋根のある通路で、僕らは傘をたたんだ。プラスチックの留め具が小さく噛み合う音。手の平に残る水滴を払うと、指先に雨のにおいが残った。金属の薄い味が混ざっている気がする。停電のせいか、バス停の表示板は黒いままだ。並んで立っていると、風が片方の頬だけを撫でていく。
「透。」
「うん。」
「さっきの、道の話、笑わないでね。」
「笑う理由、ないよ。」
「よかった。……ほんとにある気がするんだ。季節のドアって言うか、歩いてる人だけが押せる隠しボタンみたいな。」
「隠しボタン。」
「うん。押すと、いつもよりも少しだけ速く、でも走るほどじゃない速さで、たどり着ける。ズルじゃなくて、勇気のほう。」
勇気。雨音の層のなかで、その言葉はすこし重く落ちた。重いのに、沈み切らない。透明の傘布の内側に残っていた湿度みたいに、空気の高さの中で浮かんでいる。
遠くで雷が鳴ったかもしれない。いや、雨粒の増減が一瞬大きくなっただけかもしれない。音は境界を曖昧にする。曖昧さの中で、瀬名が僕を見る。僕は視線を受け止める。受け止めることと、答えることはまた別だ。別だとわかっているのに、今日の僕は別を同時に抱えることができる。そう思った矢先、校舎のほうから微かな風の匂いが届いた。草いきれに、海の塩が混じる。潮位は下がり切る手前。引き潮の匂いは、遠くの白を近づける。
「——ねえ、透。」
「うん。」
「いつか、ほんとに、道が出たらさ。」
彼女は言葉をそこで一度止めた。止めるのが上手い。止め方に、次の一歩の余白を残す。
「うん。」
「一緒に、行こう。」
僕は頷いた。言葉にしない頷き。頷いた理由は幾つもある。彼女が言ったから。僕が聞きたかったから。雨がそう言わせたから。どれでもなく、どれでもある。透明の傘布に残った水滴が一滴、重力でゆっくり移動し、留め具の金属のところで止まった。その小さな球に、僕たちが並んでいる像が反転して映る。映った像は上下が逆だ。逆さまでも、並んでいることだけは確かだ。
校舎の廊下の奥で、非常灯がもう一度だけ点滅した。緑の輪郭が薄く揺れ、すぐ消える。電気が戻る寸前の、あの、空気が張り詰める一秒。張り詰めたまま、雨の音だけが支配する。僕はカメラに触れず、指を組んだ。撮らない。今日は撮らない。撮らない勇気という言い訳を、今日は肯定してみる。肯定が言い訳をやめさせることも、たまにはある。
風の匂いが、少し強くなった。潮の白が近づく。止みそうで止まない雨は、僕たちの会話の行間に居座り続ける。その居座りが、今日だけは頼もしい。隙間を埋めるのではなく、隙間を隙間のまま保ってくれる。遠くで、誰かが扉を開ける音。金属と木が触れ合う短い擦過音。雲はまだ割れない。割れない手前の長さを、僕は正しく測れない。測れないまま、歩幅を眠らせずにおく。
非常灯の記憶の緑が視界の片隅に残像として滲む。僕はその緑の向こうに、風鈴が二度鳴る未来の映像を、勝手に置いた。置いただけだ。置いただけなのに、胸の皮膚がほんの少し、音を待つ体勢をとる。微かな風の匂いが、それに応じて、さらに微かに強くなる。雨は——まだ止みそうで、止まない。