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第3話「待ち伏せの角」

南東2m/s/16:07/引き潮まで−38分


 放課後のチャイムが鳴りきる前に、僕は教室を出た。机の上に広げっぱなしのノートは、わざと開いたままにしてきた。戻る理由を残しておくのは、逃げ道を作るのと同じだ。そう自分に言い訳しながら、カメラのストラップを肩にかけ直す。今日の目的地はひとつ——パン屋「角砂糖」の手前の角。待ち伏せの角。


 廊下は湿っている。窓ガラスの外側に薄く汗をかいたみたいな曇りが出て、向こうの校庭は柔らかい白の膜越しにゆれて見える。階段を降りるたび、踊り場の窓辺に溜まった熱気が、膝から上へと貼りついてくる。六月の終わりは、空気が身体の一部みたいになる季節だ。吸い込むと肺が満ち、吐くと足が重くなる。


 校門のアジサイは昨日より色が深い。その横を抜けると、南東からの風が真正面に当たった。シャツの前身頃だけがふくらみ、背中は張り付いたまま動かない。僕は歩く速度を半歩落として、信号二つ分の距離を、意味のない数字で刻む。角砂糖の看板まで、ちょうど四百歩。測ってどうするんだ、と思いながら、今日だけは数えた。数えていれば、考えすぎずに済む。


 三百九十歩目あたりで、看板が見えてくる。白い立方体のペンキは、遠目にはまだ新しい。近くで見ると、昨日数えた七本の細いひびが、やはり七本のままそこにある。硬い白に、ひびの影が細い鉛筆線のように刺さっている。角の手前に立つと、商店街を抜ける風の方向がわずかに変わる。ここは風の分岐点だ。風は角に触れると、音を少し低くする。耳をすませば、曲がる前の指示みたいな、弱い低音が聞こえた。


 僕は看板の白の影に入り、腕時計を見た。針はまだ四時を少し過ぎたばかり。指先が汗ばんで、ストラップの布地に湿りが移る。右肩に重さを感じる。重さの正体はカメラではなく、たぶん決心のほうだ。決心は、いざ使おうとすると急に重くなる。


 ここで声をかける。昨日もそう決めて、結局直進した。今日は違う。今日は、角で待つために来た。待つという行為は、行動していないふりをして、実はかなり能動だ。逃げ道を閉じて、選択をここに集める。そう言い聞かせながら、僕は看板の裏側へ半歩だけ回り込む。真正面からではなく、視界の端に入る角度で待つのが、僕にできる最大値だ。


 十分ほどして、遠くから瀬名の姿が見えた。白いリュックは、日なたでは柔らかい白、日陰では紙の白。歩幅は僕よりわずかに小さいが、速度は一定で、歩くという行為に迷いがない。彼女は歩きながら空を見上げ、指先で額の前髪を整え、ふいに右手を軽く持ち上げた。手のひらが陽を受けて淡く透ける。指の隙間に、ごく細い光の筋。筋は一瞬だけ角砂糖の白に重なって、静かに消える。僕は息を止めた。


「……瀬名。」と呼ぶ予定だった声は、喉の入口まで来て、そのまま引き返した。彼女は看板の真下に差しかかり、ほんの少しだけ速度を緩めた。誰かがそこにいることに気づいたのかもしれない。僕は、気づかれたくて隠れているという矛盾の中に立っている。矛盾は、露出を迷った写真と似ている。どちらに合わせても、正しくはならない。正しくならないまま、何かが写る。


「瀬名!」


 遠くから飛んできた声が、僕の迷いの上を軽々と跳んだ。真田海斗。バスケ部の、あいつ。体育館の床で育ったような弾みで、彼の声はぜんぶの角を丸くしてしまう。彼は小走りに近づきながら、「見た? 駅前の店、今日からサイズでっかいソーダ。」と笑った。瀬名が笑い、僕の立つ影は、急に居心地の悪い温度になった。


 声をかけるタイミングは、目に見えない小さなドアみたいだ。開いたかと思うと、すぐ閉まる。僕はそのドアの前に立ち続ける訓練をしてこなかった。立ち続けていれば、いつか向こうから開けてくれる——そんな楽観に、僕はむやみに頼って生きてきた。


「雨宮?」


 真田が看板の影の僕に気づき、手を上げた。逃げ道のないやさしい手の角度。瀬名もこちらを見る。僕は笑って、看板から半歩だけ出た。


「やあ。」


 やあ、なんて言葉を使ったことがあっただろうか。舌の上に乗せた違和感を誤魔化すために、カメラのストラップを親指で持ち上げる。視線の置き場が見つからないとき、人は道具に頼る。


「待ってた?」瀬名が言う。


「……うん。ちょっと。」


「角砂糖の新作食パン、予約しに来たとか?」


「いや、その……。」


 言え。今だ。ここで言うのだ。言葉は、光の縁みたいに一瞬だけ形になる。形になったときに重ね撮りをしないと、すぐに消える。僕は、喉の奥で「海。」という二文字を転がす。転がる音はするのに、口まで上がってこない。上がってくる前に、真田が自然な流れで言葉を挟む。


「駅前、寄ってこうぜ。今日、サイズでっかい——。」


「うん。」と瀬名。「透も行く?」


 行く、と言えば、三人で行く。行かない、と言えば、二人で行く。結末は二つに限られているのに、どちらの道にも僕の勇気は足りていない。勇気の残量ゲージが、突然視界に現れるような気がする。写真の露出計みたいに小さな針が右往左往して、結局センターで止まらない。


「僕は——。」と口を開いた瞬間、角砂糖の自動ドアが開いて、焼きたての甘い匂いが外に溢れた。匂いは白い。柔らかい白だ。匂いの白に、瀬名の笑顔が重なる。僕は、またもや一呼吸遅れて、言葉が変質する。


「用事があって……ごめん。」


 用事なんてない。あるような顔をして言う自分に、自分が飽き飽きする。真田は「あいよ。」と肩をすくめ、瀬名は「また明日。」といつもの調子で言った。言い方に責めがないことが、逆に刺さる。刺さった痛みを隠すために、僕はカメラの位置を整えた。


 二人が並んで歩きだす。歩幅の違いを、速度で埋める。段差の手前で自然に速度を合わせる。信号にかかる前に、会話のテンポが少し早くなる。そういう細部の連続を、僕は職業病みたいな感覚で追ってしまう。追ってしまい、その結果——僕はシャッターを押した。わずかに遅れて、しかし確実に。


 カシャン、と小さな機械音。背中に焦点を合わせた罪悪感が、ファインダーの四隅から漏れてくる。押した。押してしまった。二人の背中が半歩だけ遠ざかり、その距離感がフレームの中で固定される。露出は少しアンダー。意図ではなく、条件のせい。条件のせいにしたい自分がいる。視界の端で、角砂糖の白いペンキが固い光を跳ね返す。僕の写真は、いつだって固い白をどう扱うかで質が決まる。今日のは、たぶん失敗だ。


「一枚、撮った?」

瀬名が振り向いて、口だけで訊いた。声には出さない、唇の形の問い。僕は、曖昧に頷く。彼女は笑って、目線で許す。許されるのはありがたいのに、許されることが、こんなにも情けない。


 駅前の交差点で信号が変わり、二人が斜めに横断する。横断歩道の白と黒が、彼らの影を規則正しく切り分ける。僕はそこに重ね撮りをする度胸がない。胸の中の露出計の針は、まだ揺れている。風が髪の根元を一度だけ持ち上げ、落とす。瞬間、瀬名の後ろ姿の肩甲骨のあたりに柔らかい白が乗った。その白を撮れなかったことの後悔が、背中に持っている鞄の重さを一段増す。


 ふいに、体育館の方角からドリブルの音が響いた。空気を一度だけ張り替えるような、低い芯のある音。遠いのに、身体の真ん中を突く。僕は振り返る。音はもうやんでいる。さっき押したシャッターの残響と混じって、胸の内側に二重の輪として残る。


 商店街のアーケードに入ると、光は一段やわらいだ。天井の古いプラスチック板を通った陽は、硬さを失い、路面の濡れた部分にだけ淡く集まる。雨は降っていないのに、朝の清掃で撒いた水がまだところどころ光っているのだ。僕はその白い反射をまたいで、角砂糖の脇を抜けた。足元に落ちる自分の影が、さっきより長い。夕焼けはまだ本格的ではないのに、沈む準備を始めている。


 信号四つ分の距離を、今度は数えずに歩いた。数えないと、頭の中の音が大きくなる。「押した。」という単語が、歩幅に合わせて繰り返される。押した。押してしまった。押したくなかったのか、本当は押したかったのか。自分に問いながら、うまく答えを出せない。


 公園の脇を通ると、ベンチに腰掛けていた花村先輩が、缶コーヒーを片手に片眉を上げた。


「お、透。レンズ、曇ってない?」


「……曇ってないです。」


「顔が、ちょっと曇ってる。」


「気圧のせいだと思います。」


 先輩は笑った。笑ってから、缶の口を拭い、空を見上げる。「夕焼け、遅いね。」と言って、僕の肩あたりを軽く指先で叩く。


「何、撮ったの。」


「……背中。」


「誰の。」


「友達、二人。」


「いいじゃん。背中は顔より難しい。表情が直接出ないから、光と距離で語らせるしかない。」


 僕は頷いた。頷きながら、自分の撮った一枚のアンダー具合を頭の中で再現する。語ってくれるだろうか。距離が、語ってくれるだろうか。距離が語るのは、たぶん僕の臆病のことだ。先輩はそれでも「いい」と言うだろう。先輩は、僕が嫌いなところを責めない。責めない代わりに、問いを置いていく。


「何を撮りたい?」


「……“変わり目”を。」


「どのくらいの速さで。」


 どのくらいの速さで——その問いは、喉の奥をひやりと撫でた。速さ。僕の速さは、いつも遅い。遅いことは悪ではない、と頭ではわかっているのに、胸がそれを許さない。胸は、他人の速度を基準にしてしまう。


「決めてないです。」


「なら、その“決めてない”を撮るのも、ありだよ。」


 先輩は立ち上がり、缶をゴミ箱に放った。缶は縁に当たってから中に落ち、小さな金属音がアーケードの天井に跳ね返る。「じゃ、部室にプリント持ってきな。」と背中で言い、歩いて行った。背中は、たしかに顔より語る。自分の背中が何を言っているのか、僕は知らない。


 家に着く前に、文房具店に寄って、小さなメモ用の付箋を買った。色は薄いグレー。カメラの底に貼った紙片に「残り22」と書き直し、上からグレーの付箋で半分だけ隠した。隠したところで数字が変わるわけではないが、視界のコントラストは調整できる。残り枚数の白さが、少しやわらいだ。


 夕飯の支度をする母の横で、水を張ったボウルに手を入れた。冷たさが指の皺に入り込み、今日いちにちの湿気を洗い落とす。窓の外は、相変わらず沈むのが遅い。遅さは、心の猶予と比例しない。遅い光に焦らされることがある。光が伸びるほど、昨日まで延ばしてきたことの輪郭が濃くなる。濃くなった輪郭に向き合うのは、夜より夕方のほうが難しい。夜は言い訳が効く。夕方は、言い訳が光に透ける。


 食後、部屋に戻って鞄からカメラを出し、机に置く。ファインダーを覗かず、レンズキャップをつけたまま、両手で挟む。挟んだ黒い塊は、何かの心臓みたいに温みがある。温みは僕の手から移ったものでしかないのに、道具が生きている気がしてくる。生きているなら、いっそ勝手にシャッターが下りてくれればいいのに。そんな子どもじみた願いを、誰にも聞かれないように胸の内で言ってみる。


 机の端に、図書室で見た風待ち神社の写真集のコピーが置いてある。瀬名がこれ見よがしに忘れていった——のかもしれないし、純粋に忘れただけかもしれない。表紙の端、風鈴の写真。鈴の舌が斜めの位置で止められ、その周囲に丸い白が散っている。丸い白は、僕には硬く見える。しかしこの写真では、硬さがどこかで溶けている。空気の層のせいだ。層がある。層のあるものは、簡単に断言できない。断言できないものだけが、長く残る。


 スマートフォンが震えた。瀬名から。「今日、角で待ってた?」——読まれていたのだ。僕は一拍置いて、「うん」とだけ打つ。すぐ返ってくる。「雨、明日降るかも。風、南東。」——短い天気予報のような文が続き、「図書室、またお願い」。僕は「行く」と返し、それから打ち直して「行くよ」に変える。最後の「よ」が、たった二画の線の交差でしかないのに、心の枚数を一枚だけ増やす。


 夜になっても、窓の外はしばらく明るかった。薄い布を何枚も重ねた向こうで、街全体がゆっくり暗くなる。暗くなる速度に、今日はようやく心が追いついた気がする。追いついた、と言えるのは、遅かった証拠かもしれないけれど。


 ベッドに入る前、僕はもう一度だけ角砂糖の白を思い出した。固い白。その前で瀬名の笑顔は柔らかい白に変わった。固い白の前で柔らかい白を見たとき、僕は撮りたくなる。撮りたくなるのに、今日の僕は背中を撮った。正面ではない。正面が怖かった。怖さを正直に認めても、写真は柔らかくならない。ただ、少しだけ曇る。曇っているものは、光のほうから優しくしてくれる日がある。明日がそうであるといい。そうであれば、角で待たなくても、どこかで会える。


 僕は目を閉じる。耳の奥で、低い音が跳ねた気がした。体育館のほうから、ドリブルが一回。看板の陰の温度が、その音に反応する。音は一瞬で止み、空気の層だけが揺れを記憶する。記憶は写真より長持ちがする、と信じたい夜だった。



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