第2話「夕焼けが沈むのが遅い」
南東1m/s/16:32/満ち潮まで+58分
暗室の赤い灯は、夕焼けの代用品みたいだ。僕はトングを持つ手首の角度をゆっくり変えて、現像液の表面に小さくできる波を眺めた。波は規則的に寄せて、規則的に戻る。トレイの中の白い紙には、まだ何も浮かんでいない。浮かびあがるまでの数秒から数十秒が、僕は昔から苦手だ。待つという行為は、伸び縮みする時間のゴムを握りしめるみたいで、力加減を間違えるとすぐ千切れそうになる。
「透、すこし硬いよ。」
背中から花村先輩の声。暗室の中では、声まで赤く聞こえる。
「はい。」
「肘、力抜いて。画面の外にある“今”に、ちょっとだけ信用を置く。」
外にある今。外側に今があるのだとしたら、僕の“今”はどこに置けばいいんだろう。そんなことを考えている間に、紙の中央に斜めの影が一筋、現れはじめた。校舎の柱。夕方の光が、鉄筋コンクリートの角を縞々にしていたあの瞬間。僕は昨日、初めてシャッターを切った。レンズキャップを外して、息を止めて、効果音もつかない古い機械の音に、自分の躊躇いを束ねて放った。
「夕方の柱……いいね。硬い白と柔らかい白の重ね方がちゃんとある。」
「硬い白と柔らかい白。」
「ペンキで塗った白と、空気の白。校舎の塗装は硬い。夕方の白は柔らかい。どっちも白だけど、性格が違う。」
先輩は、暗室の隅に置いた扇風機を止め、僕の肩ごしに紙を覗いた。影の縞は、暗室の赤に溶けながらも、確かに縞であり続けている。僕はほっと息を吐く。
「で、透。何を撮りたい?」
その問いは、先輩が折に触れて投げる、無音のボールだ。受け取り方が毎回わからない。僕が答えを伸ばしているうちに、ボールは床で小さく弾み、転がっていく。
「……光の縁を、撮りたいです。」
「光の縁、ね。縁は、輪郭ではないよ。」
「はい。」
「縁は“変わり目”のこと。透が見てるのが輪郭の線なのか、変わり目の時間なのか、いつも迷子になってる。そこ、面白い。」
迷子という言葉が、赤い光の中でも生々しい輪郭を持った。僕は喉の奥のほうで「はい。」をもう一度言い、プリントを定着液に移した。液体の温度が、ほんの少し指先に伝わる。二十四枚のうちの一枚が、紙になっていく音はしない。音がしないから、いいのかもしれない。
部室に戻ると、窓の外は薄雲。陽はあるけれど、角度がまだ浅い。机の上には文化祭の写真コンクールの案内が置かれていて、テーマ欄には「ひかりの縁」と手書きされている。先輩の字だ。僕はプリントを乾燥棚に差し込みながら、網棚の影が紙の上で細かい格子を作るのを眺める。それもまた、縁の一種だと思った。
チャイムが鳴る少し前に、図書室へ向かった。瀬名に言われた「地図の片づけ。」を忘れるのが怖かったからだ。忘れるのが怖い、と認めること自体が、少し怖い。忘れるのはいつも、意図せぬやさしさみたいな顔をして近づいてくるから。
図書室のドアを開けると、冷房はまだ入っていないのに、紙の匂いがひんやりしている。貸出カウンターの向こう、閲覧机のひとつに古地図が広げられていた。大判のトレペみたいに薄い紙と、厚手の色あせた紙。時代ごとに縮尺も図法もまちまちで、並べただけで頭がくらくらする。瀬名は腕まくりをして、薄手の綿のブラウスの袖口から手首の骨をのぞかせていた。
「来た。」
「うん。怒られる前に。」
「怒られる前にね。」
僕たちは無言で地図を重ね直し、端に寄せ、巻くものは巻き、筒に入れる。紙のざらつきが指に移る。瀬名の指先には、HBの鉛筆でついた細い黒が残っていて、僕はふとそれを写真に撮りたいと思った。撮りたいと思って、撮らない。暗室の赤はもうないのに、僕の中にはまだ薄い赤が浮かんでいる気がした。
「ねえ。」
瀬名が顔を上げずに言った。
「汐見町の道、動くんだよ。」
僕は地図筒にキャップをはめる手を止めた。
「動く?」
「うん。昔の地図、海沿いの路地が季節で太くなったり細くなったりしてる。潮の満ち引きのせいかもしれないけど、それだけじゃない。丘の道もそうだから。」
「へえ。」
地図の中の細い線が、時間といっしょに脈を打っている。確かに、紙の上の線は人が描いたものではあるけれど、描いた人は日によって違う光を見ていたはずだ。線が変わるのは、見ている側の速度が変わるからかもしれない。そんなふうに思ってから、僕は自分の考えが少しだけ気に入った。気に入ったものは、口に出すと薄まる。だから、言わない。
「風の向きと時間で道が“出やすいとき”があるって、祖母が言ってた。」
「出やすいとき。」
「うん。……雲が切れるときに音がする、って言ったでしょ。道も似てる。出る前に空気が変わるの。」
瀬名は、机に両手を置いて、左手の小指だけで紙の角を押さえた。押さえ方が、音楽で言う“弱起”みたいだと思った。始まりをちょっと手前から準備する手つき。もっと手前で角を曲がる、という言葉が頭の隅に引っかかる。
「風待ち坂のこと?」
「そう。あそこ、風が抜ける“方角”が季節で違う。」
「方角。」
「うん。南東のときと、東南東のときがある。どっちも似てるけど、違う。」
東南東と南東。角度にすると十五度くらいの差。写真で言えば、光源の位置が少し動く。シャドウの落ち方が変わる。人の顔の印象が、たった十五度で別物になることを、僕は知っている。角度に名前がつくのは、世界がそれを必要としているからだ。必要のないものに名前は残らない。
「片づけ、ありがと。」
瀬名は手をぱん、と軽く叩いた。図書室の窓からは、柔らかい白が差している。硬い白じゃない。頁の白と混ざって、温度のない温度をつくる。僕は息を吸って、吐いた。何かを言うべきタイミングに、何も言わないまま通り過ぎる自分の足音が、やけに丁寧だ。
「瀬名。」
「なに。」
「……地図、面白い?」
「うん。全部はわからないけど、“今”がどこに置かれてるかはわかる。」
全部はわからない。僕は、その言い方が好きだった。
貸出カウンターの棚に、風待ち神社の写真集が一冊だけあった。町内会が作ったもので、境内の大銀杏や石段の苔のアップが思いのほか良い。瀬名がそれを見つけ、ページをめくりながら「あ。」と小さく声を漏らす。
「これ、風鈴。お祭りの夜だけ鳴るやつ。」
写真には、鈴の舌が風で斜めに伸びている瞬間が写っていた。手前のボケに、無数の丸い白。玉ボケは硬い白に近い。けれど、この写真の白はたぶん柔らかかった。奥行きの空気がそうさせる。
「行ったこと、ない。」
「行こうよ。」
行こうよ、の言い方にはまだ日時がない。日時のない約束は、優しい。優しいものは、だいたい危うい。危ういものは、だいたい綺麗だ。
放課後、外は、うすい薄雲。西の空は色を決めかねているような、ゆっくりしたグラデーション。僕は部室に戻ってカメラをカバンにしまい、階段を降りた。踊り場の窓から見える校舎の柱は、昨日ほどくっきりしていない。それでも、縞はある。縞の濃淡が、今日の湿度のかたちをしている。僕はもう一度シャッターを切った——いえ、切らない。撮るのは、今日は一枚でいい。暗室での一枚に“今日”を全部使ったことにしよう。そう決めてから、やっぱり階段を降りきるまでの数十秒間、僕は何度も手をポケットに出し入れして自分に呆れた。
校庭の端に出ると、体育館の扉が開き、真田が出てくるところだった。タオルを肩にかけて、喉にペットボトルを当てている。体温で汗が蒸発して、ほんの薄い塩の匂いが風に混じる。彼は僕を見ると、いつものやり方で片手を上げる。誰にでも同じ角度で上げる手。誰にでも同じ、だから、特別でもある動き。
「お、雨宮。現像?」
「うん。柱を、一枚。」
「柱?」
「うん。夕方の、柱。」
言いながら、自分で笑いそうになった。語彙が偏っている。真田は「いいじゃん。」とあっさり言う。
「今日、瀬名、図書室?」
「うん。片づけ。」
「そっか。……雨宮、さ。」
「なに。」
「最近、夕方、遅くね?」
遅くね、の言い方には“彼女”のことが含まれているかもしれないし、含まれていないかもしれない。たぶん両方なんだろう。僕は空を見上げるふりをして、雲の縁がどっちに流れているかを確かめた。南から東へ、浅い角度でずれていく。雲の体温が、ほんの少しだけ下がった。
「遅いかも。沈むのが。」
「だよな。練習、終わって外出ても、まだ明るいから、つい走りたくなる。」
「走ればいいじゃん。」
「走ってる。試合のあとも走ってる。走りすぎると、遅く感じるのやめられる。」
彼の言葉は、汗を通り抜けて軽い。僕が同じことを言ったら、たぶん少し重くなる。言葉は体質に影響される。僕はそんなことを考えて、肩のストラップを握り直した。
「……メロンソーダ、昨日行ったの?」
「行った。うまかった。透明でさ、底に緑が沈んでんの。透は?」
「僕は、普通に帰った。」
「そっか。じゃ、また今度、三人で。」
また今度。また今度、の声は、やっぱり優しい。優しさの中で、何かが薄くなるときがある。薄くなる前に音がするなら、僕はまだ何かに間に合うのだろうか。真田は手を振って、体育館に戻っていった。僕はその背中を追わず、反対側の通用門から外に出た。
校門のアジサイは昨日より青い。青の粒が集まって、まだらな球をつくり、球の一部だけが光っている。球の中のどこを“正しい青”と呼べばいいのか、僕には決められない。決められないことは、だいたい好きだ。決められないもののほうが、長く見ていられるから。
通学路、パン屋「角砂糖」の看板の手前で、一度立ち止まった。昨日はここを通りすぎた。今日もたぶん通りすぎる。でも、立ち止まるだけならできる。立ち止まって、白い角砂糖のペンキのひび割れを数える。七本。昨日は気づかなかったひび。ひびは、昨日もあった。昨日の僕は、見ていなかっただけだ。昨日の僕が見ていなかったものを、今日の僕が見たとして、それは今日の僕の価値になるのだろうか。そんな疑問は、写真を始めてからずっとある。価値の答えを先輩は教えない。自分で決めろ、という態度で、でも「決めろ。」とは言わない。そこが、ありがたい。
角を曲がらず、僕はやっぱり直進した。直進しながら、曲がるための体の使い方を、頭の中でリハーサルした。曲がるのは、走るよりも勇気がいる。走るのは、まっすぐ前に脚を出せばいい。曲がるのは、前方の見えない何かに、自分の側面を差し出すことだ。側面は弱い。写真で言えば、横からの光に晒すようなものだ。ハイライトとシャドウの境界線が、自分の中を走る。露出をどこに合わせるかで、人の顔は変わる。
商店街の終わりの路地に、透明のビニール傘が立てかけてあった。誰かが忘れていったのだろう。骨は一本曲がっている。陽が傘の面で拡散して、薄い白が路面に広がる。僕はその白を踏まずに、脇をすり抜けた。白の上に足跡をつけるのは、罪悪感がある。罪悪感は写真に写らない。写らないものを撮ろうとすると、だいたい失敗する。
家に戻ると、母は台所でラップの芯を捨てるところだった。「地図、片づいた?」と訊かれ、「片づいた。」と答えた。母は納得も疑問も示さない顔でうなずき、「夕飯は遅め。」とだけ言った。遅め。今日の夕焼けも、遅めなのだろう。
自室で机に向かい、カメラの底に貼った小さな紙片に「残り23」と書いた。二十四から一を引く。数字は、現実の中でもっとも易しい魔法だ。引き算は、時間が進んだ証拠にも、機会が減った証拠にもなる。どちらに見えるかは、その時の僕の露出次第だ。
宿題を少ししてから、窓を開けた。向かいの屋根の上、雲の切れ目がゆっくり動いている。切れる前に音はしない。遠くで車のブレーキの擦れる音、近くで燕の小さな鳴き声。音がないのも、音のひとつだ。僕はレンズキャップを外し、ファインダーを覗いた。屋根の棟を横切る縞が、さっき暗室で見た柱の縞と重なる。重なり方は微妙に違う。違いを探す時間は、気持ちいい。違いを探している間は、同じだと決めてしまう怠慢から遠ざかれる。
シャッターには触れない。触れないと決めていても、指は迷う。指は迷うために付いているのだと、今日は思える。迷わず押す指は、スポーツのための指だ。写真のための指は、迷いといっしょに動く。
暗くなるまでの速度が、ここ数日、遅い。遅いのに、僕の中の何かは早まっている。速度が合わない。合わない速度のまま歩くと、足首の内側に痛みが出る。僕は高校に入ってから、その痛みを何度か経験した。経験しているのに、ふいに忘れて、同じ場所を擦る。擦って、また思い出す。
スマートフォンに通知がきた。写真部のグループで、先輩が明日の集合時間を送っている。それとは別に、瀬名から短いメッセージ。「明日、また図書室。“風”を調べたい」。僕は、短く「行く」とだけ返した。短さに意味を持たせないように、指先の力を弱めて打つ。
夜半、風鈴の音はしなかった。代わりに、冷蔵庫のモーターが低い音で回り、遠くの国道を走るバイクが一度だけ声をあげた。僕はベッドの上で、暗室の赤い灯の残像を思い出した。紙の上に、影の縞が遅れて現れる。遅れて、でも必ず現れる。夕焼けも、遅れて、必ず沈む。沈むのが遅い日は、心のほうが先に疲れる。疲れた心は、軽い嘘をつきやすい。明日やる。明日言う。明日撮る。
目を閉じたまま、僕は小さな声で言ってみた。「明日。」。言ってから、言葉が口の中で粒になって転がるのを感じる。転がった粒は、どこにも落ちない。落ちないのは良いことだろうか。僕は自分で決められない。決められないまま、眠りに向かう。窓の外の空は、まだ薄く光っているような気がした。時間が、伸びている。伸びているのに、猶予が削れていく感じがする。