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第10話「透明傘の対話」

南東3m/s/16:18/満ち潮へ転じたばかり


 雨は、粒の径を少しずつ変えながら、町の輪郭をやわらかく削っている。校門を出るとすぐ、電柱に巻きついたスピーカーが一度だけ低く唸って、ぷつりと黙った。停電まではいかないけれど、信号の赤がほんの一瞬だけ薄くなる。息を吸うと、濡れたアスファルトの匂いが喉の奥に貼りついた。カメラは鞄の奥。今日は出番がないと、朝から知っていた気がする。


 バス停の屋根は、金属の継ぎ目から滴が音符みたいに落ちる。その下で、透明な傘がいくつも重なって、遠目には巨大な水母みたいに見える。到着案内の電光掲示は黒いまま。「遅延」の貼り紙だけが新しいテープの艶を持って揺れている。


「——透。」


 名を呼ばれて振り向くと、瀬名がいた。髪の先が濡れて、頬に一本だけ張りついている。彼女の傘は細かい水滴で曇り、内側の骨が線画みたいに透けて見えた。


「一緒に入る?」と彼女が傘を寄せる。僕はうなずき、肩を少しすぼめる。透明の天井の下、二人の呼気が見えない膜をつくる。距離を詰めるほど、雨音のピントが上がる。密度の高いざあざあの中に、個々の粒が弾ける瞬間が分解されて立ち上がる。


「さっき、図書室の窓から見てた。空、割れそうだった。」と瀬名。


「割れる?」


「雲って、割れる前に音がするんだよ。」


 彼女は言って、傘の中心の小さなキャップに指先を触れた。耳を澄ます。すぐには何も聞こえない。ただ、遠くの海のほうで、低い音がひとつ、濡れた地面の下から持ち上がってくるみたいに鳴った。雷ではない。金属と空気の間の、境界が震える音。——僕は無意識に右手を、傘の内側に持ち上げる。指の隙間を雨の光が通る。透明の媒質越しに見る景色は、露出が半段上がって、世界が薄く軽くなる。


「……聞こえた?」


「うん。今の、そういう音?」


「わたし、祖母にそう教わったの。割れ目ができる前に、空が息を吸うって。ほんの一瞬。」


 瀬名の声は、傘の内側で増幅される。言葉の輪郭が、水滴のひとつひとつに反射して跳ね返ってくる。僕の心臓が、その反射にあわせて速さを変える。焦っている。分かる。雨が撮れないからではない。撮らないと決めているから心が落ち着くはずなのに、逆に落ち着かない。


「ねえ、透。昨日、神社で——ごめん。」


「なんで謝るの。」


「タイミング、合わなくて。わたし、歩幅合わせるの下手で。」


「僕だよ。僕が遅かった。」


「ううん、どっちでもいいの。たぶん、昨日は“人の速度”のほうが勝ってた。茅の輪の準備とか、そういうの。」


 僕は曖昧に笑ってから、呼吸をひとつだけ深くする。言わなきゃいけないことがあるのに、湿度で舌が重くなる。傘の骨が耳たぶに軽く触れ、その瞬間、言葉がこぼれた。


「——間に合わないのがいちばん怖い。」


 雨音の合間に、僕の声が自分で驚くくらい素直に出た。傘の内側、透明の膜の下で、瀬名が眉をわずかに上げる。目は逃げない。彼女は傘を少しだけ傾け、ふたりの頭上の天井を、より平らにした。


「間に合うって、誰の速度?」


 質問は矢の先が丸い。刺さらず、押してくる。僕は答えを探し、足元の水たまりを見てしまう。水面に、ふたりの輪郭が崩れながら映っている。僕の影は遅れて揺れる。瀬名の影は先に揺れて、すぐ戻る。影が指す先は、あるのに、今は見えない。


「……僕の、かな。僕が勝手に怖がってる。終業式までって期限が近づくって思うと、心だけ先に走って、足がうまく出ない。」


「わかる。」


 瀬名はそう言って、小さく笑う。その笑いは傘の天井にこすれて、柔らかい音になる。


「わたしね。」と彼女は傘の柄を持ち直した。

「家のこと、少し決まってきた。正確には、“決まるかも”って段階。夏の終わりから二学期にかけて、もしかしたら引っ越す。まだ白紙も多い。でも、終業式までに進路の希望を出さなきゃいけないのは変わらない。父と母が、先に動く可能性もあるから。」


 体温が一段下がる。けれど、氷水みたいに痛いのではなく、露出を絞ったときの、画面が落ち着いていく感じに近い。僕は頷く。


「それで、透に“間に合うって誰の速度?”って聞いた。わたしも、自分に聞いてる。」


「……そっか。」


「ねえ、透。わたし、思うの。速度って、誰かと合わせるためにあるんだって。長距離のペースを一緒に作る、みたいな。ひとりで全力疾走しても、道は拗ねる。」


「影が、拗ねるって言ってたね。」


「影もね。あの人——宮司さんも言ってたじゃない、“影が指す先へ行け”。でも、影が指す先までの“歩幅”は、たぶん人間が決める。うんとゆっくりでも、合っていれば道は出る、って信じたい。」


 その言葉を聞いたら、すぐにでも「明日の四時、風待ち坂。」と約束を切り出せばいいのに、僕はまだ舌をほどけないでいる。雨音が、会話の隙間を埋めてしまうからだ。透明な膜に打ち付ける粒が、すべて「まだ。」と言っている。息が浅くなる。深呼吸。傘の内側が白く曇り、瀬名が手の甲でそっと拭う。骨の影が、僕の頬に短い縞をつくる。逆光のコントラストが上がる。今だ。


「透。」


「うん。」


「この傘、好きかも。世界が軽くなる。重いことも、見えるままに透けるから。」


「好きだよ。写るものは同じでも、載ってくる音が違う。」


「音?」


「雨の粒の。傘の膜の。……それと、胸のやつ。」


 瀬名が小さく首を傾げる。笑う準備、という角度。僕も笑う。そうやって、笑いの小さな往復をしていると、バス停の屋根を叩く雨が、少しだけ弱まった。別の場所で強くなっている気配。電光掲示板が一度だけ点滅し、すぐ消える。遅延は遅延のまま。


「透。もうすぐテストだし、部活もあるし、いろいろあるけど。」


「うん。」


「どこかで、近いうちに、四時に。“風”、南東で。……って、言ってみたい。」


 その言い回しが、僕の肋骨の内側にそっと置かれる。彼女のほうから、角を手前で曲がるみたいに提示された。僕の役目は、線を結ぶこと。露出を決めること。切り出す角度を、迷わないこと。


「——明日、」


 と言いかけたとき、バス停の端のほうで、一台のバスがゆっくりと停車した。普段の倍くらいの間隔を空けて夜勤に向かう運転手が、申し訳なさそうに頭を下げている。行き先は反対方向。ひとり、ふたり、乗り込む。足元の水たまりが靴の重さで揺れ、波紋が重なる。その縁で、透明傘がひとつ風に煽られて裏返り、すぐに戻った。世界は少し笑って、少し咳をした。


「明日、の続き、聞くよ。」

「わたし、今日は帰らなきゃ。夕飯の手伝い頼まれてる。」


「うん。……送ってく。」


「いいよ。透の家、逆でしょ。」


 逆。言葉の中の地図が、透明な傘越しに重なって見える。逆から回り込む線もあるけれど、今日はたぶん、まっすぐ帰ったほうがいい。速度を合わすために。僕は頷き、傘の端で雨粒を一度だけ弾いた。


「ねえ、透。」


「なに。」


「焦ってる透、嫌いじゃないよ。」


 不意打ちの言葉で、僕の露出が一段上がる。眩しい。けれど、白飛びはしない。深いところにシャドウが残っているのが分かる。そこはまだ写っていない。写るのは、きっと明日だ。


「——ありがとう。」


「ううん。じゃ、またね。」


 瀬名は傘を傾けて、駆け出した。足音が雨に溶ける。僕はその背中を追わない。追わないことが、いちばん近い選択だと思うから。バス停の庇の下にひとり残ると、透明傘が少し重くなる。空の息がもう一度、低く鳴った。雲はまだ割れない。割れるのは、たぶん明日の四時。


 遠く、体育館のほうから、ドリブルが一度だけ響いた。濡れた町を跳ねるゴムの音は、雨音よりも乾いていて、だからこそ真っ直ぐ届く。置いていかれる音。だけど今日は、それが合図みたいに聞こえた。「走れ。」ではなく、「合わせろ。」と。


 僕は傘をたたむ。透明の膜にびっしりついた雨粒が滑り落ちて、足元の線路みたいに並ぶ溝へ消えていく。鞄の中のカメラは出さない。写真は撮らない。撮らないことで、画面の余白がひとつ分厚くなる。そこに、明日の四時の光を置くために。


 信号がふたたび安定した赤で交差点を染める。僕はゆっくり歩き出す。速度は、僕のものでも彼女のものでもない。ふたりで決める前の、その手前。角を曲がる前の真っ直ぐ。雨は、まだ止みそうで止まない。だけど、止む前に鳴る音を、もう知っている。



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