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第1話「右手の影」

南東2m/s/16:21/満ち潮


 放課後の校門を出ると、空気が薄く甘い。湿度の匂いに、白いチョークの粉がほんの少し混ざっている。六月の終わりは、匂いに層ができる季節だ。ひとつ深呼吸をすると、胸の奥のどこかが水で満たされるように重くなる。僕はカメラのストラップを肩にかけ直し、レンズキャップの丸い感触を親指で確かめた。今日も押さないで帰るつもりでいる。押してしまえば、たぶん同じ毎日を一枚増やすだけになる。


 校門の脇、アジサイの株がまだ色を固めきれずにいて、青と紫のあいだに揺れていた。その前で、瀬名が立ち止まった。白波瀬名。図書委員の腕章をまだ外していない。彼女はランドセルみたいに小さなリュックを背負い、ふいに右手を空へ翳した。指の隙間を、風が一本通り抜ける。その隙間の向こうで雲がほどけ、薄い日差しが彼女の頬の線に沿って滑った。指と光の間にできる影は、ほんの一瞬、方向を持っているように見えた。


 僕は勝手にピントリングに触れて、あわてて手を離した。まだ撮らない。顔の筋肉が、誰にも見られていないところでだけひどく緊張する。レンズキャップはちゃんとついている。だから今日は、押しようがない。そう言い聞かせると、少しだけ楽になった。


「……見える?」と瀬名が誰にともなく言う。自分の指を透かしているみたいに、まぶしそうに細めた目のまま。


 見える、と思った。見えるのは、たぶん光じゃなくて、彼女が見ているものの方だ。指の間に通路みたいなものができて、それが校門から伸びる道路の白線と重なる一瞬。僕がいつもフレームの四隅で切り捨てる、いちばん薄い線。


 そのとき、背後から「瀬名!」と呼ぶ声がして、彼女は手を下ろした。真田海斗。バスケ部の、あいつだ。体育館の床で跳ね返ってきたドリブルの余韻みたいに、彼の声はよく弾む。額にうっすら汗を浮かべ、タオルで首を拭きながら駆け寄ってくる。自然と彼女は笑う。笑うと、頬の線に沿って流れていた光が、きちんと輪郭を持つ。


「帰る? 今日、駅前の店、新しいメロンソーダが出たって。」

「そんなに甘いの、海斗は好きだっけ。」

「好きか嫌いかで言えば、うまい。」


 二人の会話は、行き先のないボールみたいに往復して、それでも落ちない。うらやましいのは会話の内容じゃなくて、間の取り方だ。投げ合う速さを、知っている。


 僕はシャツの袖をひとつ折って、校門の影から一歩だけ出た。なるべく音を立てないように。いつもの帰り道、駅に向かうまでの緩やかな下り坂。左手に市民プール、右手に古いパン屋の看板。看板には「角砂糖」と書かれていて、角のところにほんとうに砂糖の塊みたいな白い立体がついている。あの看板を目印にする人は多い。僕にとっては、声をかけるとしたら——という仮定の話でしかないけれど——いつもそこだった。いつも“そこで”だったから、たぶんいつまでも“そこで”のままだった。


 瀬名と真田は、僕よりも少し先を歩く。歩幅は違うはずなのに、速度が合っている。僕は二人の背中を真正面から見ないように、歩道の切れ目や電柱の番号を見ながら間を取る。電柱の白い札には「風待一丁目七」とある。風待。町の東側に小高い丘があって、その参道は風の通り道だという。昔から“風待ち坂”と呼ばれている。名前は知っているだけで、あそこへはまだ行ったことがない。


 風が体の前面だけを撫でていった。南東からの弱い風。シャツの背中は張りついたままで、胸元だけ少しふくらむ。瀬名の髪が、その一拍遅れて動く。遅れて、追いつく。その動きを見るのが、僕は好きだ。だからこそシャッターは押さない。押してしまうと、それはいつでも見られる“写真”になってしまうから。本当に見たいものは、いつでも見られない側に置いておきたい。そういう勝手な理屈に、僕はよく自分を逃がす。


「ねえ、透。」


 不意に名前を呼ばれた。彼女は振り返らない。前を見ながら呼ぶ呼び方。僕は返事が一瞬遅れた。


「なに。」

「さっき、空、見てたよね。」


 僕は嘘をつくのが下手だ。だから曖昧に笑うことにした。


「見てた。雲が、ちょっと薄かったから。」

「うん。薄くなる前に、音がするんだよ。」


 彼女はそう言って、もう一度右手を上げる仕草だけして、すぐに降ろした。笑い合う二人の横顔越しに、街路樹の葉が陽を跳ね返している。薄い反射。僕は反射に弱い。シャドウにのまれる前に、ハイライトの縁だけを見続ける癖がある。ハイライトの縁は刃物みたいに鋭くて、指で触れると切れる気がする。だから触らない。ただ見て、覚える。覚えるだけで、行動しない。そういう僕を、僕だけがよく知っている。


 市民プールの外壁に沿って歩くと、塀の向こうから塩素の匂いがした。濡れたコンクリートの匂いと混ざって、ほんの少しだけ海を思わせる。海はこの町の東に開いている。駅から歩いて三十分。母は「夏休みは混むから、近づくな。」と毎年言う。僕は言われなくても、あまり近づかない。海は広くて、どこを見ればいいかわからなくなるから。ファインダーの四隅で区切れないものに、僕は居心地の悪さを感じる。


「透、カメラ新しくしたの?」


 瀬名がそれを訊く声は、振り返らないで届いた。僕は慌ててストラップを握り直す。


「いや、同じ。フィルム、替えただけ。」

「フィルムって、残り枚数とか考えるんでしょ。」

「うん。考える。」

「じゃあ、いいやつだけ撮るの?」

「いいやつ、って何だろうね。」


 自分で言って、自分の声が少し硬いと感じた。瀬名は「そうだよね。」と短く笑って、真田と視線を交わす。僕の背中の中で、何かがひとつ落ちる音がした。落ちたのは、たぶん平衡感覚だ。彼女と“あいつ”が笑い合う、それだけのことに、僕の体は毎回小さく傾く。写真を撮るための水平器みたいに、心の中に泡の入った透明な管がひとつあって、その泡が端に寄ってしまう。


「メロンソーダ、行く?」

「うん。でも、透もどう?」

「僕は——。」


 僕は、と言ってから何も続けられなかった。ここで「行く。」と言えばいい。ここで「いや、今日は。」と言ってもいい。どちらでもいい。どちらでもよく見えて、どちらでもよくないと知ってしまうのが面倒で、僕はひと呼吸分、口を閉じた。その一呼吸の隙間に、風が横から入り込む。瀬名の髪が一拍遅れて揺れ、僕の言葉はその揺れに間に合わない。


「ごめん、今日はいいや。」結局、僕はそう言った。言いながら、自分で自分に呆れる。どうして“いいや”の方を選ぶのか、選ぶならせめてもう少し正常そうに見える言い方にすればいいのに。


「そっか。じゃ、また明日。」と瀬名。彼女はそれ以上追及しない。追及されないことで、逆に胸がきしむ。


 パン屋の角が近づく。看板の白い角砂糖は毎日同じ位置にあり、同じだけ陽を反射している。目印は動かないのに、僕は毎日そこにうまく辿り着けない。今日は、先に通り過ぎる。三人で並んで歩くには歩道が狭い。僕は半歩だけ後ろに下がって、二人が看板の下をくぐるのを見送った。「角砂糖」の白は、強い。僕が好む反射の白とは少し違う、ペンキの固い白。白の硬さにも種類があるのだと、カメラを持ち始めてから知った。硬い白は、写真に写すと嘘っぽくなる。柔らかい白は、光の側にある。硬い白の前で、瀬名の笑顔は柔らかい白をまとっている。不思議なことだ。


 駅前までの道は、鳩が多い。鳩は光のほうへ歩く。人は日陰のほうへ歩く。人が避けた日向に鳩が集まり、鳩のあとを光が追いかける。僕はその配置を何度も見てきた。何度も見てきて、何度も何もしてこなかった。どうせ明日も同じ配置が現れると思っているから。だから、僕は押さない。押す理由が見つからない。押す理由はいつも、明日へ先延ばしにできてしまう。


「透。」


 また彼女が僕の名を呼ぶ。今度は振り返りながら。目はまっすぐで、陽を細めていない。


「うん?」

「明日、図書室。地図の片づけ手伝って。」


「地図?」


「うん。汐見町の古いやつ。いろいろ出しっぱなしで怒られそう。」


「いいよ。」


 いいよ、と言いながら、僕は内側で慌てていた。地図。地図は、光よりも苦手だ。地図は全体を見せつける。全体を見せられると、どこを選ぶべきか考えなくてはいけなくなる。考えるのは、苦手だ。考える前に決められるなら、その方がまだましだ。


「じゃ、明日。」と瀬名が言う。真田が「じゃ、メロンソーダ。」と笑う。二人は駅の方へ曲がっていく。僕は角を曲がらず、直進する。直進すれば、遠回りになる。遠回りを選ぶとき、人は少しだけ呼吸が楽になる。選択をしたのに、選んでいないような顔ができるから。


 商店街を抜けると、道は緩く上がる。坂の上に見えるのは、風待ち坂の方向だ。神社のある丘の緑は、町の他の色に比べて一段暗い。湿りを含んだ暗さ。あの丘に、風の通り道があるという話を、僕は母から聞いたことがある。お祭りの夜だけ鳴るという風鈴の話も。そういう話は、現像液に浸けた紙みたいに、だんだん輪郭が現れてくるのに、まだ何が写っているのかはよくわからない。僕の生活はたいていそうで、現像途中で止まっているコマが多い。止めているのは誰かと訊かれれば、僕だ、と答えるしかないのだが。


 角砂糖の看板に背を向け、僕はわずかに足を速めた。足を速めながら、速める必要なんてどこにもないことに気づく。速くても遅くても、今は何も変わらない。変わるのは、変わったあとにしかわからない。そういうことを考えている間にも、光は傾く。六月の夕方は、沈むのが遅い。遅いのに、なぜか早く感じる。伸びていく影が、目盛りのない定規みたいに、地面に長さだけを置いていく。


 母からのメッセージがスマートフォンに入る。「夕飯いらないなら言って」。僕は「食べる」とだけ返した。シンプルな言葉は、責任の匂いが薄い。


 家までの道の途中、小さな空き地がある。子どもたちがサッカーをしている。ゴールの代わりに、ビニール傘がふたつ地面に伏せられている。透明な布地に泥の斑点がついていて、そこに夕陽が入ると柔らかい白ができる。柔らかい白は、光の側にある。さっき考えたことをもう一度思い出す。柔らかい白を撮りたいと思う。けれど、やっぱり撮らない。今日のフィルムは新しくしたばかりだ。二十四枚。何に使うのか、まだ決めていない枚数。決めていない枚数は、可能性と呼ばれる。可能性という言葉は便利すぎて、だから僕はあまり信じないようにしている。


 家に着くと、母は居間でアイロンをかけていた。「おかえり。」と視線を向けずに言い、「今日、遅くまで?」と同じトーンで続ける。


「普通。」


「普通なら、普通に食べるってことね。」


「普通に食べる。」


 普通という音は、皿の上で揺れない。僕は鞄を部屋に置き、カメラだけ机にひらいて、レンズキャップを外した。窓のカーテンを少しだけ開けると、向かいの家の屋根の上に夕焼けが乗っている。沈むのが遅い。遅いのに、こちらの気持ちは沈みきれないままで宙ぶらりんだ。ファインダーを覗くふりをして、すぐに目を離す。覗かなければ、失敗にもならない。覗かなければ、成功にもならない。


 机の引き出しに、現像したままの写真が数枚ある。学校の廊下、体育館の梁、プールの水面、パン屋の看板の白。どれも、よく見れば違う日の光なのに、並べると同じに見える。僕の撮り方がそうしているのだとすれば、たぶん僕の見方もそうなのだろう。どの一日も同じに見えるように、少しだけ視線を鈍くして生きている。そうすれば、変わることのほうが例外になって、驚いたり傷ついたりせずに済むから。


 母が皿を置く音がして、僕は居間へ行った。テーブルの上には茹でた枝豆と、焼いた魚、味噌汁。テレビのニュースは音だけ出ていて、誰かの声が「梅雨前線。」と言う。僕は枝豆のさやを指でしごきながら、明日の図書室のことを考える。地図。地図は全体を見せつける。全体の地図を見たあとで角を曲がるのは、卑怯に見えるだろうか。もっと手前で曲がるなら、地図を見ないうちに曲がるのがたぶん正しい。正しいという言葉は、写真の構図くらいには信じていい。


「透、たまには海、行ってくれば。」と母が言う。


「もうすぐ夏だし。」


「混むから。」


「今はまだ空いてるでしょ。」


「うん。」


 うん、と言いながら、僕の頭の中には、校門のアジサイと、瀬名の右手の影と、真田の笑い声と、角砂糖の白と、透明な傘に乗る柔らかい白が、互いに少しずつ重なり合っていた。重なり合い方は、美しい。美しさは、写真に撮るとすぐ薄まる。そう思っているのは、たぶん僕だけだ。


 食器を洗い、カメラをカバンに戻し、ベッドの上に仰向けになる。窓の外から、遠くのほうで子どもが叫ぶ声がして、すぐに収まる。風が網戸を抜ける音はしない。静かな夜。スマートフォンの画面には通知がいくつか、未読のまま並んでいる。写真部のチャットに、花村先輩が「来週のテーマは“光の縁”で」と書き込んでいた。光の縁。僕は得意だ。得意だと思っている。得意だと思っていることを、得意なまま出せたことがどれだけあったか、と考えると、指がこわばる。


 目を閉じると、右手を翳す瀬名の姿が、暗闇の明るい側に浮かぶ。指の隙間から、薄い道が伸びる。道は僕のほうへ来ているのに、僕はそこへ足をのせない。のせると、のせたあとのことを考えなければいけないから。のせなければ、明日、同じ姿をもう一度だけ見られる気がする。そうやって、僕は今日まで来た。たぶん、これからも。そう思いかけて、いや、と小さく否定する。今日、彼女は言った。薄くなる前に、音がする。音がするなら、薄くなる前に気づけるかもしれない。気づけるなら、間に合うかもしれない。間に合うということが、誰の速度で測られるのかは、まだわからないにしても。


 寝返りを打つ。目を開ける。部屋の隅に置いたカメラバッグの黒が、夜の黒よりも少しだけ浮いている。あの中に、二十四枚の可能性がある。可能性という言葉を信じない僕でも、それを“二十四”と数えることはできる。数えることができるものは、怖くない。怖くないものから始めればいい。たとえば、明日、図書室に行く。地図を片づける。片づけながら、彼女に何かを訊く。何を、だ。何でもいい。海が好きか。海が、好きか。僕は海が苦手だ。苦手だと、正直に言えばいいのか。正直さは武器になることもあるが、切っ先が自分に向くこともある。写真のハイライトの縁と同じだ。触れる前に、よく見る。


 窓の外、どこか遠いほうから、風鈴の音が一度だけ届いた。夜風はまだ冷たくない。季節は順番に変わるけれど、僕の心はときどきスキップしたいと思う。思うだけで、まだ膝は曲がっていない。音がしたから、そろそろ膝を曲げてもいいのかもしれない。そう考えて、それでも体は動かさないまま、僕は目を閉じた。まぶたの裏の夕焼けは、沈み切らない。沈み切らないまま、部屋の闇に薄く混ざっていく。遠い風鈴の一音は、長い尾を引いて、静かになった…。


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