第7話 壮介登場?!
「あら、滝川さんがどうして?」
志乃は書類を整理する手を止めて振り返った。
「まあ、なんていうか、その、つまり、例えば市役所の用事とかで」
明らかに嘘だった。本当は志乃に会いたくて来たのだ。啓一の頬が少し赤くなっている。
中川がニヤニヤしている。まるで二人のキューピッドのようだ。
「あっ、そうだ。在庫を確認するんだった。しばらく倉庫にいますね」
中川が慌てたように去り、二人きりになった。事務スペースは静かになった。
「あの」
啓一が口を開いた。声が少し震えている。
「この前の約束、覚えてますか?」
「友達としてなら、でしたよね」
「はい。今週末、どうですか?」
(そうだ、あのとき、曖昧だけど、たしかにちょっと頷いたんだった)
志乃は手帳を確認した。几帳面に予定がびっしりと書き込まれている。
「土曜日の午後なら」
「じゃあ、土曜日に」
啓一は嬉しそうに頷いた。
志乃も、悪い気はしていなかった。胸の奥で何かがかすかに疼く。
(友達、か)
悪くない響きだった。
翌朝の通勤電車。
まどかは吊り革につかまって考えていた。
(結婚って、慣れ合いになっちゃダメよね)
向かいの席で居眠りしている夫を見て、ホッとする自分を感じていた。昨夜の会話が嘘のように、また無口に戻った夫。
(でも一緒にいる安心感もある)
複雑な気持ちが胸の中で渦巻く。
同じ頃、キララも電車に乗っていた。
(志乃さんみたいに強い女性になりたい)
窓に映る自分の顔を見つめる。二十八歳という年齢が、急に重く感じられる。
(結婚もしたいんだよね)
彼氏とのぎこちないデートを思い出し、ため息をつく。
昼時。
志乃はレジ打ちをしながら、手を止めた。
(私にとって結婚って何だったんだろう)
カゴから商品を取り出す。バーコードを読み取る音が機械的に響く。
(二回とも離婚しちゃったし。一回目は納得ずく。二回目はやむを得ず。三度目があるなら、それもまた離婚まで行ってしまう運命なのかも……)
「ありがとうございました」
現実に戻って、笑顔で客を送り出した。
午後三時、高校の正門前。
市乃が友達と別れて一人になった時、オレンジのアルファ ロメオから男性が出てきた。背の高い男性。グレーのジャケット姿だった。
近づくにつれ、顔がはっきりしてくる。
「え?」
市乃の足が止まった。心臓が早鐘を打つ。
「パパ?」
田中壮介が微笑んだ。五十八歳。少し白髪が混じっているが、昔の面影がある。日焼けした顔に、成功者の自信が滲み出ている。
「市乃、大きくなったな」
「昨日くれたメッセージには、今日会えるなんて言ってなかったじゃない!」
壮介は苦笑いした。
「びっくりさせたかったんだよ」
「ほんと、びっくりした」
でも市乃の顔は嬉しそうだった。複雑な気持ちが表情に現れている。
「乗って」
壮介が車を指差した。
市乃は初めてスポーツカーに乗った。包み込まれるような座席に戸惑ったが、すぐにその快適さに馴染んだ。レザーシートの匂いが高級感を演出している。
「元気にやっているか?」
壮介が車をゆっくり発進させながら聞いた。運転は慣れたもので、自信に満ちている。
「ぼちぼちね」
「年寄りみたいな言い方だな」
市乃は窓の外を見た。街並みがゆっくりと流れていく。
「なんか困ったことはないか?」
「別に」
しばらく沈黙が流れた。低いエンジン音が心地よく響く。
信号で止まった時、市乃が口を開いた。
「なんか、昨日から留学したくなってきた」
壮介が振り返った。
「留学か」
「うん」
「若いうちに海外に行くのはいい経験になるぞ」
市乃の目が輝いた。
「やっぱ、そうだよね」
「ベトナムはどうだ?」
「自分が住んでる国だから?私はパリとかローマとかがいい!」
「イメージだけで決めるだろ?ベトナムは親日国家だから暮らしやすいんだぞ」
「はいはい、ちゃんと前向いて運転して」
壮介は前を向いた。
「でも、しっかり考えてから決めるんだぞ。費用なら任せておけ、今ならパパも出せるようになったから」
「わかってる」
市乃は初めて乗ったスポーツカーの座席がすっかり気に入ったようだった。
夜、志乃の自宅。
「私、留学しようかな」
市乃が夕飯を食べながら言った。箸を口に運ぶ手が止まらない。
志乃は箸を止めた。
「純の影響?まったく単純なんだから」
「そんなことないよ。ちゃんと考えたんだよ」
志乃は苦笑いした。
「はいはい、自分で学費を稼いでね」
市乃が不敵な笑みを浮かべた。
その表情に、志乃は何か引っかかるものを感じた。いつもとは違う、何か確信めいたものが娘の目の奥にある。
次の日の午前中、スーパーカガヤキの事務スペース。
中川が志乃を呼んだ。
「田中さん、重要な話があります」
志乃は緊張した。
(また、難題かな?)
「正社員になりませんか」
志乃の目が丸くなった。
「正社員?」
「しかも、本部勤務のエリアマネージャーです。大栄転です!」
中川は両手で辞令を志乃に渡した。きちんとした正式な辞令だ。
「本部が田中さんの能力を認めたんですよ」
志乃は辞令を見つめた。これで給与は大幅にアップするに違いない!
「責任重大ですよね」
「何言っているんですか。田中さんなら今まで通りでばっちりできてますよ」
志乃は、ふうっと息を吐いた。
「ありがとうございます。頑張ります!」
中川が笑顔で握手を求めた。その手は温かく、励ましに満ちていた。
夜九時過ぎ、志乃の自宅。
市乃は自室に入り、志乃は一人でソファに座っていた。リビングの照明を少し暗くし、静かな時間を楽しんでいる。
市乃の留学発言と正社員への登用。二つの出来事が頭の中をぐるぐる回っていた。
スマートフォンが鳴った。
見知らぬ番号。海外からのようだ。
迷ったが、電話に出た。
「はい、田中です」
一瞬の沈黙。
そして、低い声が聞こえた。
「俺だよ」
志乃の手が震えた。心臓が激しく鼓動を打つ。
「壮介だよ」




