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第5話 元バリキャリの証明

市役所の会議室。

長机を挟んで、志乃と中川、向かいに啓一とその上司が座っていた。

テーブルには資料が広げられている。

上司が資料を手に取った。50代後半の痩せた男性で、眼鏡の奥の目が鋭い。

「これまでのそちらの見積もり価格と主な食材の物価の推移です」

グラフが並んでいる。赤い線と青い線が徐々に乖離している。

「平均物価指数と比較すると、見積もりの価格上昇率が高い」

中川が慌てた。額に汗がにじんでいる。

「いや、販売価格は小売店の競争があるので物価と連動しない面がありますが、仕入れ値は卸業者と小売側の力関係で決まるところがあって……」

言葉が上ずり、説明がまとまらない。

上司は首を振った。

「見積もり単価の上下のブレも大きい。もう少し安定させてもらわないと、予算管理に支障が出ます。値下げとともに検討していただきたい。よその業者に相見積もりをとってもいいんですよ」

その言葉に、中川の顔が青ざめた。


中川は志乃にSOSの視線を送った。まるで溺れる人が藁を見つけたような目つきだ。

志乃は資料を見つめた。頭の中で数字が踊り始める。かつて企業で培った分析力が蘇る。

「提案があります。前職で似たような経験がありまして」

全員が志乃を見た。その瞬間、空気が変わる。

「市役所からの注文は現在、納品先がバラバラに発注していますよね」

「はい?」

上司の声に、興味の色が混じった。

「これを統合できませんか?」

上司が身を乗り出した。

「統合?」

「発注を一本化する。そして発注時期を現在の一週間前から二週間前を基本にする」

志乃の声は明確で、自信に満ちている。元バリキャリの血が騒いでいるのを、彼女自身も感じていた。

「追加分だけ一週間前に発注。これでスケールメリットが生まれます」

啓一が口を開いた。

「具体的にどれくらい値下げできますか」

「どれだけ統合化できるか、基本発注と追加発注の割合によります」

志乃はペンを取った。さらさらと数式を書き始める。

「試算値を出していただければ、値下げ率を返答できます」


上司は交渉が望ましい方向に進んだことに満足したようだった。眼鏡の位置を直し、にこやかな表情になる。

「いいでしょう。滝川君、基本発注と追加発注のシミュレーション値を出してください」

そして中川たちの方を向いた。

「近々、シミュレーション値を出します。色よい返事をよろしく」

志乃を連れてきて本当に良かったと、中川は心の底から安堵した。彼女がいなかったら、このまま値下げを要請されて、勢いに押されて、承諾するところだった。


打ち合わせが終わり、上司が去ったあと、三人は市役所の玄関に向かった。夕方の柔らかな日差しが、玄関ホールを照らしている。

「啓一、もう仕事も終わりだろ?」

中川が軽い調子で聞いた。すっかり余裕綽々な態度に変わっている。

「そうなんだよ。帰るつもりでいたら、急にカガヤキの店長と打ち合わせするって言い出したんだ。驚いたよ。市議さんからから何か言われたのかもしれない」

「それは深刻だな」

そして中川は志乃のほうを向いた。

「田中さん、大丈夫?うまいこと決着つけられそう?」

「ここじゃなんですから。明日相談しましょう。考えておきます」

志乃の言葉に安心したのか、中川が唐突に言った。

「啓一、田中さんを送ってあげて」

「え?」

「田中さんを家まで」

とってつけたかのように、中川はスマートフォンを取り出し、画面を見て、大げさに驚いた。

「急用だ!ここで失礼します」

そのまま小走りで去っていった。その後ろ姿は、どこか嬉しそうにも見える。


残された志乃と啓一。

「……送ります」

啓一が少し頬を赤らめながら言った。


啓一の車は、意外にも軽自動車だった。白い車体が夕陽を受けて輝いている。

「すみません、こんな車で」

「いえ、助かります」

助手席に座ると、ほのかに芳香剤の香りがした。シクラメンの香り。

(この人、単にシクラメンが好きだったのね)

車が動き出す。エンジン音は静かで、運転も丁寧だ。


信号で止まった時、啓一が口を開いた。

「結婚を前提として……」

「私は結婚する気はありません」

志乃の声はきっぱりとしていた。

「どうしてですか?」

啓一の声に困惑が混じる。

志乃の顔が強張った。

「ご存じないかもしれませんが、私はバツ二なんです。そしてシングルマザーです」

志乃は窓の外を見た。街路樹の並木が夕陽に染まっている。


啓一はハンドルを握り直した。その手に力が込められる。

「田中さんの人柄は中川から聞いています。

田中さんのこれまでの人生が、今の田中さんを形作っているんじゃないでしょうか。人柄も知性も申し分ない。それは、田中さんのこれまでの人生があってのことなんじゃないですか。

僕は今の田中さんが結婚相手としてふさわしいと思っています。

であれば、田中さんがバツ二であろうと、シングルマザーであろうと、全部ひっくるめて田中さんを好きになったんです」

「え?」

志乃は啓一の横顔を見た。真剣な表情だった。普段の頼りなさげな雰囲気とは違う、意志の強さを感じた。

(ただのお人好しと思っていたけど、こんなにしっかりと自分の意見を言える人だったんだ)


「私はあなたより三つも年上ですよ」

「承知しています。田中さんが百歳になれば、僕は九十七歳です。ほとんど同い年ですよ」

(計算上はそのとおり。でも、三歳の歳の差って、五十年後より、今のほうがずっと深刻じゃない?

だいたい、その頃はお互いに死んでるかもよ。あなたは善人そうだから天国だろうけど、私はいろいろやらかしてるから地獄にいるかも……。

せっかく見直した途端に、また変なこと言い出すんだから)

志乃は返事ができなかった。複雑な気持ちが胸の中で渦巻いている。

「田中さんが今は結婚する気がないことは承知しました。だったら、友達として会うくらいならかまいませんよね」

志乃は曖昧にうなづくしか、その場をやり過ごせなかった。


翌日早々に、啓一からシミュレーション値が届いた。志乃は中川と相談し、スケールメリットを活かした見積もり案を市役所に提出した。この調子なら、カガヤキ側も利益増につながりそうだ。


そんなある日、スーパーカガヤキにて。

「田中さん、在庫チェックを今日中にお願い」

中川がまた無理を言ってきた。しかし、その表情にはどこか企みめいたものがある。

「今日中ですか?在庫チェックって、週イチが全支店共通のルールですよね」

「すみません、本部から急に言われて」

その割には、中川はニヤニヤ感を隠しきれていない。

志乃は倉庫に向かった。段ボールが山積みになっている。薄暗い倉庫に、裸電球の光が揺れている。

(がんばれば七時頃には終わるかな。市乃には遅くなるって言っておこう)

とはいえ、仕事なので、気を取り直して在庫チェックに取り掛かった。


三十分くらい経った頃、キララが現れた。

「私も手伝うッス。一人で抱え込まないでくださいよ」

「いいの?」

「もちろんです」

二人で作業を始める。キララの手際が良い。おしゃべりをしながらでも、手は正確に動いている。

なんと定時に終わってしまった。

そのことを聞いた中川は唖然としていた。

(また失敗か……)


その夜、志乃の自宅。

スマートフォンが鳴った。純からのメッセージだった。

『いい牛肉が入ったので、週末に焼き肉パーティしようぜ?』

志乃は返信した。

『週末?』

『今から誘えば、みんなも都合つけてくれるはず』

相変わらず急な人だ。でも、それが純らしい。


週末、志乃の家にいつものメンバーが集まった。

リビングに焼き肉の香ばしい匂いが広がる。こんな時、換気扇に向かって空気を送るサーキュレーターは欠かせない。

「このタレに黄な粉をまぶすと美味しいんだよ」

純が得意げに言った。

「ほんとに?」

キララが半信半疑で試す。

「ホントだ、美味しいッス!」

感動したキララが突然言った。

「大石さん、私をお嫁にもらって」

純は即答した。

「ごめん、それはムリ」

空気が凍った。換気扇を回しても、凍り付いた空気はなかなか流れていかない。

その空気を察知した純が慌てた。

「いやいや、そういう意味じゃなくて」

全員が純を見た。その視線の圧力に、純の額に汗がにじむ。

「俺、再婚するんだ」

静寂。

そして、一斉に声が上がった。

「え?」

「なんで?」

「いつ?」

志乃も驚いていた。

「え?」

純は頭を掻いた。

「実は……」

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