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第4話 渡された花束

「え?え?」

志乃は花束を持ったまま、完全にフリーズした。夕陽が西に傾き、二人の影が長く伸びている。

それは仕方ないことだ。昨日が初対面で、しかも噛み合わない会話しかしていない相手にいきなり言われることではないからだ。


すると、何を思ったか、啓一は固まっている志乃の周りをゆっくりと回り始めた。真面目な顔をした背広姿の男が円を描くように歩く姿は、傍目には怖いことこの上ない。

一周、二周、志乃の足元をじりじりと狭めていくように円が小さくなってくる。

三周目に入ろうとした時、あまりの恥ずかしさに志乃は啓一の手を掴もうとする。

「何をしてるんですか」

と思った矢先、志乃の目の前に再びシクラメンの花束が!

思わず受け取ってしまった志乃だった。


真面目な顔から急に笑顔になった啓一は、そのまま右手を上げて去っていく。

「何なんですか、これ」

志乃の問いかけに答えることもなく、啓一は小走りで姿を消した。

通り過ぎる買い物客が、二人を不思議そうに見ている。志乃は頬が熱くなるのを感じた。


その夜、志乃の自宅。

「ただいま」

市乃がリビングから顔を出した。制服のリボンを緩め、少し疲れたような表情を浮かべている。

「おかえり。あれ、花束?」

志乃は花束を市乃に差し出した。

「あなた、お花好きでしょ。あげるわ」

「シクラメンね」

市乃は花を見つめた。その表情が急に真剣になる。

「花言葉は『遠慮』『内気』。たしかにママより私にぴったり!」

「へえ、そうなの」

志乃は首を傾げた。

(遠慮?内気?あの人が?内気とは対極の人だったわ)

さっきの出来事がますます理解できなくなった。


市乃はスマートフォンを取り出して、また画面を見てニヤニヤし始めた。青白い光が彼女の顔を照らしている。

「彼氏?」

「違う!ただの……知り合い」

市乃の表情が複雑だった。言いたいけど言えない、そんな顔。15歳の少女特有の、甘酸っぱい秘密を抱えているような雰囲気。

志乃は深く追求しなかった。娘にも秘密の一つや二つあるだろう。


あの花束の男性は一体何を考えているのか。何がしたかったのか。

志乃は台所に立ち、夕飯の支度を始めた。手は動かしているが、頭の中は混乱していた。

(結婚を前提?私に?なぜ?そもそも初対面みたいな人に言うセリフ?)

包丁でニンジンを切りながら、ため息をついた。

(五十三歳、バツ二、そんな自分にいきなり結婚を申し込むなんて。

明日、中川店長に聞いてみよう)

そう決めて、料理に集中することにした。

今夜はハンバーグ。市乃の好物だ。


翌日朝、スーパーカガヤキの事務スペース。

中川が電話を受けていた。受話器を握る手が、異常に力んでいる。

「昨日、とうとう告白したぞ!」

啓一の声が弾んでいるのが、こちらまで聞こえてくる。

「で、どうだった?」

中川の声も興奮している。

「花束を受け取ってもらえたよ!」

「すばらしい!なんて順調な!次は俺に任せろ」

中川は電話を切ると、作戦を練り始めた。

(もっと二人が触れ合う機会を作らないと。そうだ、市役所への請求書。いつも郵送だが、手渡しにすればいい)


そしてバックヤードで小休憩している志乃を見つけた。

「田中さん、お願いがあるんだけど」

「はい?」

「市役所への請求書、今月から手渡しで届けてほしいんだ」

志乃は首を傾げた。

「今まで郵送でしたよね?」

「速いし、確実だから。ねっ、頼みましたよ!」

中川は笑顔だったが、目は笑っていなかった。ちょっと怖い迫力があったが、志乃は引き受けた。

「わかりました」


ロッカールームで志乃が制服から着替えていると、キララが入ってきた。

「志乃さん、どこ行くんですか?」

「市役所。請求書を持参することになったの」

キララの目が輝いた。

「それ、私がやりたいです!」

「え?」

「ここの仕事って、バックヤードと売り場の往復ばかりですよね。外出って気分転換になるじゃないですか」

「じゃあ、お願いできる?」

志乃はどちらかというとデスクワークのほうが向いているのだ。

「はい!任せてください」

キララは請求書を受け取ると、嬉しそうに出て行った。


その夜、居酒屋。

中川と啓一が向かい合って座っていた。薄暗い店内に、赤提灯の明かりが揺れている。

「俺の請求書作戦、良かったろ!」

中川が勝手に祝杯を上げるかのように、ビールのジョッキを傾ける。

「手渡しすることになったんだって?それがなんの作戦なんだ?」

「田中さんに会えただろ。これから毎週会えるぞ!」

啓一は首を振った。

「会わないよ。金田さんという人が持ってきた」

「なに?」

中川は頭を抱えた。ビールが口の中で苦くなった気がする。

「今日は反省会だな」

啓一が苦笑いを浮かべた。


ある日の放課後、喫茶店。

市乃とミチコが向かい合って座っていた。窓際の席からは、夕暮れの街並みが見える。

「かあ様、聞いてよ」

「カオルくんはどう?」

市乃は肩を落とした。

「そっちは進展なし」

「そう」

「でも、別の事件があるの」

ミチコがティーカップを置いた。その仕草は優雅で、まさに貴婦人だ。

「事件?」

「元カレに彼女ができたらしくて」

「あら」

「わざわざ報告しに来たの。『ごめん、お前とはよりを戻せそうにない』って」

市乃は頬を膨らませる。

「そんな気ないのに」

ミチコは少し考えてから言った。

「もしかしたら、ウソかもよ」

「えっ、どうして?」

「市乃ちゃんの気を引くために、彼女ができたなんてウソを言ってるのかも」

「それはヘンよ。私たち、別れてから一度も彼のことが気になったことなんてないもの」

「男って、ときどきとんでもない勘違いする生き物なのよ。その元カレ、多分失恋したのね」

「失恋したら、どうなるの?」

「女は失恋したら新しい恋を探すけど、男は失恋したら元カノを思い出すのよ」

「そうなの?失恋したら、みんな次の恋を探すもんだと思ってたわ」

「男って、後ろ向きに生きていくものなのよ」

市乃は目を丸くした。かあ様の人生授業は面白くてためになる。そんな気がする。


それから数日後の夕方、スーパーカガヤキ。

「田中さん、すみません」

中川が申し訳なさそうに近づいてきた。危険を察知した志乃は反射的にあとずさりした。

「スーパーカガヤキ本店、私が店長になって以来、最大の危機です!」

中川の言う最大の危機とやらは、実際は年に一度くらいのペースで起こっている。

「今度は何が起こったんですか」

志乃の声には諦めの響きも含まれている。

「市役所が値下げ交渉をしたいようで」

「値下げ?」

「向こうから呼び出しがあったんです。だから田中さんにどうしても同行してほしいんです」

「でも私、今日は……」

「残業特別割増にするから」

志乃は考えた。元バリキャリとしては、こうした交渉事は嫌いではない。むしろ血が騒ぐ。

「わかりました」

中川の顔に、安堵の色が浮かんだ。

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