第3話 すれ違いの夜
「すみません、部屋を間違えました」
志乃は慌ててドアを閉めた。その時トイレから中川が戻ってきた。
「あ、田中さん!何してるんですか。ここですよ」
中川は待ちかねていたように、志乃を個室へ導いた。いつもより、目力が強い。
「でも、この部屋は……」
「大丈夫、大丈夫」
中川の顔が満面の笑みを浮かべていた。いや、笑みを通り越した何か異様なものがあった。
個室に入ると、男性はまだ立っていた。背筋をぴんと伸ばし、まるで面接を受ける学生のような緊張ぶりだ。
「……中川、その笑顔、ちょっと怖いぞ」
男性が小声でつぶやいた。声は低く、落ち着いているが、どこか震えている。
「店長の必死な笑顔を初めて見ました」
志乃も思わず口にした。
「い、いやいや!そんなこと、ないない!」
中川はおおげさに手を振って否定する。その動作が余計に不自然だ。そして志乃に向き直ると、
「さっき、ばったり店先で会ったんですよ。せっかくなので同席してもらいました。彼は高校時代の同級生で……」
男性が深々と頭を下げる。
「はじめまして、滝川啓一と申します」
声は真面目で誠実そうだが、どこかたどたどしい。
「市役所会計課勤務だから、我々とは仕事でも接点があるんですよ」
中川の説明に、志乃は首を傾げた。
(変だとは思ったけれど、男同士の付き合いというのはよくわからない)
「そうなんですか……」
仕方なく席に着いた。改まった席に座るようで、落ち着かない。
同じ頃、滝川家のダイニング。
分厚い木製のテーブルに、滝川啓太郎は夕刊を広げていた。85歳とは思えないほど背筋がピンと伸び、まるで軍人のような威厳を漂わせている。
「あなた、今日は啓一ちゃん、外で食べてくるからいらないって。さあ食べましょ!」
妻の和枝が嬉しそうに声を弾ませた。78歳の彼女は、夫とは対照的に穏やかな表情を浮かべている。
「ふん」
啓太郎の返事は素っ気ない。
「実はお見合いなの」
啓太郎の手に取ったばかりの箸が止まった。新聞から目を上げる。
「なに?」
「やっと決心してくれたのよ。本店の店長の中川さんって、啓一の同級生でしょ。お願いしたら、いい人を紹介してくれて」
和枝は満面の笑みで続けた。まるで少女のように頬を染めている。
「あなたが『世帯も持てないやつに会社は任せられん』って言ったでしょう?だから私、啓一に結婚するように言ったの。あれこれつてを頼って何人にも相談したら、中川さんが、この人ならという方を見つけてくれたの」
「余計なことを」
啓太郎の声は低く、不機嫌そうだ。
「余計じゃないわよ。あなたももう85。いつまで現役でいるつもり?」
「まだまだ引退なんぞせん」
「啓一が結婚したら考えてくれる?」
啓太郎は黙って箸を動かし始めた。その沈黙が、複雑な心境を物語っている。
和枝は満足そうな顔で食事を続けた。
レストランの個室。
料理が運ばれてきた。先付の胡麻豆腐と季節の野菜の和え物。上品な器に美しく盛りつけられている。志乃にとって、こうしたコース料理は久しぶりだった。
「ご趣味は?」
啓一が唐突に聞いた。まるで面接官のような硬い口調だ。
志乃は箸を止めた。
「お城巡りです。でも下調べをよくしないで行ってしまうので、城跡巡りになったりしますけど」
普通の世間話として答えた。胡麻豆腐の滑らかな食感が口の中に広がる。
「いいですね。一番好きなのはどこですか」
「それぞれに特長があるので、順位付けはできません」
会話が途絶えた。
志乃は気にせず、和え物に箸をつけた。柚子胡椒がきいていて美味しい。しかし、この沈黙は何なのだろう。
「僕、人と話すのは苦手なんです。でも、田中さんとはもっと話したいと思っています」
やはり唐突感が拭えない啓一の言葉。真面目な表情で、まっすぐに志乃を見つめている。
中川がとってつけたように口を挟む。
「啓一はこう見えて、独身なんですよ」
「あ、そうなんですね」
志乃の反応は薄かった。内心では(それがどうしたの?)と思っている。
また沈黙。空調の音だけが、妙に大きく聞こえる。
「次は何かな」
胡麻豆腐を食べ終えて、中川が話題を変えようとした。
「次はお吸い物、お刺身も一緒に出てくるかもしれませんね」
お品書きを読みながら、志乃が答えた。
「次はお吸い物、お刺身も一緒に出てくるかもしれないんですね」
啓一がそのままオウム返しをした。
志乃は返事のしようがないので、少し笑みを浮かべつつ無言のままだ。
(この人、何を考えているのかしら)
場が持たないので、お酌をしようと、志乃が徳利を手に取った。同時に啓一も徳利に手を伸ばす。
二人の手が触れそうになって、両方とも慌てて手を引っ込めた。二人とも徳利を持ったまま、立ち尽くしてしまう。
「はいはい、両方から注いでもらえるなんて、俺って幸せ者」
中川が慌てて自分の杯と啓一の杯を差し出した。その声は上ずっている。
なんとも気まずい空気の中、三人は盛り上がらない会話を途切れ途切れに続けた。志乃は料理の味に集中しようとしたが、どうにも落ち着かない。食事もあとは水菓子を待つだけとなった。
水菓子は抹茶のアイスクリーム。上品な器に盛られ、金箔が散らしてある。
志乃はさっさと食べ終えると、
「ごちそうさまでした」
深々と頭を下げた。その仕草は丁寧だが、どこか事務的だ。
「今日はありがとうございました。これにてお先に失礼します」
そのまま部屋を出て行った。足音が廊下に響いて、やがて聞こえなくなる。
残された中川と啓一。しばらく沈黙が続く。
「……反省会やろうぜ」
中川が頭を抱えた。
「なんでミラーリングが通用しないんだ」
啓一も頭を抱えた。
真面目に努力したのに、なぜかうまくいかない。
翌日昼休み、スーパーカガヤキの休憩室。
志乃は手作り弁当を広げていた。ミニとんかつ、玉子焼き、ひじきの煮物、プチトマト。彩りがきれいで、栄養バランスも考えられている。
キララはお惣菜コーナーの弁当を買ってきて、電子レンジで温めていた。
「志乃さん、すごいですよね。お弁当はいつも彩りまで考えてる」
「朝のルーティンだから。それに彩りを考えると、自然に栄養がまんべんなく取れるそうよ」
「へーえ、そうなんだ」
二人は向かい合って座った。休憩室の窓から、穏やかな午後の日差しが差し込んでいる。
「そうだ、志乃さん、聞いてくださいよ。私とカレシが倦怠期みたいなんです」
「どういうこと?」
「私が話してても、生返事ばかり。聞いてるのかなって不安になる。ヤツが話し始めるのは自分がハマってるゲームの話で、こっちはついていけないし」
志乃は箸を置いた。
「心理学にミラーリングというのがあるんだけど」
「はい!」
キララが目を輝かせた。
「相手の発言を繰り返すの。嫌味にならない程度のオウム返し」
「ふんふん」
「それから、相手の動作を真似る。飲み物を飲んだら自分も飲む。そうすると、親近感が湧いてくるそうよ」
「なるほど!」
「あと、会話を続けるコツは、相手の興味や知識を意識しながら、自分の持ちネタを話すこと。つまり、相手の立場を考えて、自分の立場で物を言うって感じかな。ディベートの必勝法なんだけどね」
キララは感心したように頷いた。
「さすが元バリキャリ!」
志乃は苦笑いした。
(昨日の男性、そういえば私の真似をしようとしてたような……まさかね)
午後、売り場にいた志乃に中川が近づいてきた。
「田中さん、今日は早番でしたね」
「はい、また特別残業ですか」
「いいえ、そんなにしょっちゅうは頼めませんよ。早番だと五時半上がりですね」
「そうです」
それだけ聞くと中川はバックヤードに戻っていった。
(何が聞きたかったんだろう。この頃店長なんかヘン)
同日放課後、喫茶店。
市乃はミルクティーを飲みながら、向かいのミチコに愚痴をこぼしていた。店内には静かなBGMが流れ、高校生の市乃には少し大人びた雰囲気だった。
「かあ様、聞いて」
「どうしたの?」
ミチコは上品にティーカップを持ちながら、優しく微笑んだ。
「カオルくんがさ、すっごく鈍いの」
市乃は頬を膨らませた。15歳らしい可愛らしい仕草だ。
「LINEの返事も遅いし、デートに誘っても曖昧な返事ばっかり」
「市乃ちゃん、自分が好きだからって、相手も同じように好意を返さないからって怒るのはおかしな話よ」
ミチコの言葉は穏やかだが、的確だった。
「え……」
「本当に好きなの?」
市乃は言葉に詰まった。
「実は……親友が最近ラブラブで」
「うん」
「悔しくて、自分もカレシ作ろうと思って」
「そう」
「親友の彼氏に見劣りしない人を探して、フリーだったのがカオルくんだった」
ミチコは紅茶をひと口飲んだ。その仕草はゆっくりと、思慮深い。
「形から入る恋愛もあるけどね」
「そうなんですか?」
「でも、その前に、市乃ちゃんはカオルくんが本当に好きなのかどうかをはっきりさせないと」
市乃はうなだれた。かあ様の言葉はいつも核心を突く。
「わかった、もうちょっと考えてみる」
夕方五時半、スーパーカガヤキの出口。
志乃が私服に着替えて出てきた。今日は定時上がりで、心なしか足取りも軽い。秋の夕日が、アスファルトを赤く染めている。
「田中さん」
振り返ると、滝川啓一が立っていた。昨日と同じ背広姿だが、何かを背中に隠している。
「あ、昨日の……」
志乃が言いかけた瞬間、啓一は背中からシクラメンの花束を差し出した。紫色の花が夕陽に照らされて美しく輝いている。
「結婚を前提として付き合ってください」
志乃の思考が停止した。まさか、こんな言葉が飛び出すとは。
「え?」
「結婚を前提として、付き合ってください」
啓一はもう一度、はっきりと言った。その声は震えていたが、意志の強さを感じさせた。
志乃は花束を持ったまま、完全にフリーズした。頭の中が真っ白になり、言葉が出てこなくなった。




