第2話 仕組まれたお見合い
十年後。志乃は地元のスーパーカガヤキでパートタイムで働いていた。
「志乃さーん!今日の特売、お昼すぎにはなくなりそうな勢いッス!」
茶髪を後ろで無造作にまとめたキララが駆け寄ってきた。エプロンの紐は得意の一文字結び。二十八歳の彼女は、いつも明るい口調で話す。
「落ち着いて。お客さんよりテンションが高いわよ」
志乃は手を止めることなく、冷静にレジの釣り銭を確認した。
「だって今日、デートなんす!仕事はサクッと終わらせて、気分上げていきたいんです」
「演歌のBGMが流れてても?」
「そんな発想するの志乃さんだけッスよ!」
キララは手をたたいて笑った。志乃の突拍子もないツッコミは、いつも職場の笑いを誘う。
(私にも、そういう時代があったはず)
志乃は苦笑いを浮かべながら、特売のトマトを台車に積み込んだ。手書きのポップも丁寧に準備する。50代になっても、こんな風にときめく恋があるのだろうか。
「志乃さんだって全然いけますよ!50代なんて今どき現役バリバリッス」
「卒業したわ、そういうの」
そう答えながらも、志乃の胸の奥で何かがかすかに疼いた。
店長の中川が小太りの体を揺らしながら近づいてきた。50歳の人の良さそうな顔に困ったような笑みが混ざっている。
「田中さん、ちょっと、ちょっと」
手招きされて、志乃はバックヤードの事務スペースに向かった。蛍光灯の白い光が、積み重なった書類を照らしている。
「また手直しお願いできる?」
中川が申し訳なさそうに頭を下げながら、月次報告書を差し出した。数字がびっしりと並んでいる。
「店長、もう毎月の恒例になっちゃいましたよね」
志乃は慣れた様子で中川の席に座ると、すぐにパソコンの画面を開いた。売上、仕入れ、在庫回転率。かつて企業で培った目が、数字の向こうにある意味を瞬時に読み取る。
「この商品の利益率、もう少し詳しく分析したほうがいいですよ。先月からかなり改善してますよね」
志乃の指先がキーボードを軽やかに叩く。元バリキャリの血が騒ぐのを、彼女自身も感じていた。
「いやあ、助かる。本当に」
中川の安堵のため息が聞こえる。
「田中さんがエリアマネージャーだったら、厳しくツッコまれそう!」
キララが覗き込んできた。
「すごーい。私、数字見ただけで頭痛くなります」
「慣れよ、慣れ」
志乃は伸びをして立ち上がった。昔取った杵柄とはいえ、まだまだ現役でやれる自信はある。
「さ、売り場に戻って。仕事よ」
夕方六時半、志乃の自宅。
キッチンでは包丁の音が聞こえている。
「今日は何人来るの?」
市乃が冷蔵庫から麦茶を取り出しながら振り返った。15歳の高校一年生。志乃によく似たはっきりとした顔立ちに、年頃の少女らしい生き生きとした表情を浮かべている。
「いつものメンバーよ。純は少し遅れるって」
「ニセパパは、なんといってもお土産が楽しみなんだよね」
市乃が大石純を「ニセパパ」と呼ぶ。
純は志乃の最初の結婚相手だ。二十代の頃、純の海外赴任を機に、お互いの生活を優先して円満離婚した。
その後は良き友人関係を続け、壮介との離婚後、まだ5歳だった市乃を気にかけてくれた純を、市乃は親しみを込めてそう呼ぶようになったのだ。
志乃はリズムよく野菜を切っていく。包丁の音が軽快にまな板を叩く。
コールスローサラダ、焼き餃子、春巻き。慣れた手つきで料理がテーブルに並んでいく。
ピンポーン。
「開いているわよ」
三崎まどかが赤ワインのボトルを掲げて玄関に立っていた。志乃と同い年の53歳、高校時代からの親友だ。少し太めの体型を隠すように、ゆったりとしたブラウスを着ている。
「いい匂い!今日も期待してるわよ」
「今日の議題は何? 愚痴の予感がしてるんんだけど」
「わかっちゃった?」
まどかが苦笑いした。
続いてキララ、丸山ミチコが到着した。
ミチコは48歳、専業主婦だ。おしゃれ着を来てもバーゲン品を来ても、いつも上品に着こなすのは、生まれの良さか。
「市乃ちゃん、背が伸びたんじゃない?」
「かあ様!そんなに変わってないですよ」
市乃がミチコを「かあ様」と呼ぶのは、小さい頃からベビーシッターをしてもらっていた名残だ。ミチコの上品な佇まいが、幼い市乃には「お姫様育ちのお母さん」のように見えたのだという。
リビングのテーブルを囲んで、女子会が始まった。温かいオレンジの照明が、4人の女性を優しく包んでいる。
「うちの旦那、ぜーんぜん話を聞かないのよ」
まどかがワインを片手に、ため息交じりにぼやいた。
「聞いたふりだけは上手なのよね」
ミチコが同調する。上品だが、どこか諦めのような口調だ。
「聞いたふりすらしない男よりマシッス!」
キララが手をひらひらと振りながら笑った。
「女子会って、だいたい旦那ダメ出し大会になるわよね。私は懐かしい気持ちで聞いてるけど」
志乃の言葉に、苦笑と失笑が入れ混ざったような笑いが起こった。
市乃はスマートフォンを見てニヤニヤしている。
「彼氏?」
志乃が軽く聞くと、市乃は慌てて画面を伏せた。
「違う!ただの……知り合い……かな」
15歳らしい微妙な表情。何か隠しているが、志乃はそれ以上追及しなかった。そろそろ思春期の娘なら秘密の一つや二つはあるだろう。
「乾杯しましょ」
話題を変えるように、まどかがグラスを掲げた。
その時、玄関のチャイムが鳴った。
「遅れてごめーん」
大石純が人懐っこい笑顔で入ってきた。51歳、志乃の最初の結婚相手だ。ビール缶と紙袋を抱えている。少しメタボ気味の体型だが、人当たりの良さが滲み出ている。
「純さん!」
キララが手を振った。
「今日のお土産はなに?」
そつなく紙袋を受け取った市乃は中身を確認するのが、いつもの楽しみになっている。
純がソファに座ると、女性陣の視線が一斉に向けられた。まるで尋問でも始まるかのように。
「な、なに?」
純が焦ったような顔をした。
「純さんに聞きたいことがあるの」
まどかが身を乗り出した。ワインが少し回っているのか、いつもより積極的だ。
「なぜ男は年を取ると無口になるの?大事なことも話さなくなるのはどうして?」
純の顔が青ざめた。これは答えにくい質問だ。
「えーと、それは……」
女性陣の視線がさらに圧を増す。
「男はですね、その……言葉にするのが苦手というか」
「それじゃ答えになってない!」
キララが突っ込んだ。
「じゃあ、えーと、昼間、会社で、言いにくいことも言わなきゃならなくて、その分、家では黙っていたくなるとか?」
「それは女性も同じはず」
「もういい、飲みなさい」
ミチコが純にビールを注ぐ。その仕草は優雅だが、どこか有無を言わさぬ迫力がある。
「私たちが納得する答えをいうか、飲んでもらうか、どっちだから」
結局、純は誰よりも早く酔いつぶれて、ソファで寝息を立てていた。
「ニセパパ、毎回これだよね」
市乃がこれまた慣れた手つきで、純にタオルケットをかけた。
夜十時。
女性陣はみな帰り、市乃は自室に引っ込み、リビングには志乃と純だけが残っていた。部屋は静寂に包まれ、純の穏やかな寝息だけが聞こえている。
「純、もうみんな帰ったわよ」
志乃が肩を軽く揺すった。
「あー、やっちゃった」
純が目を覚まして、頭を掻いた。髪の毛が跳ねて、まるで子供のようだ。
志乃は封筒を差し出した。
「ああ、いつものやつね」
純は慣れた様子で受け取った。
二人の間には、毎月恒例のやりとりがある。
志乃の二度目の結婚相手だった壮介は、フリーの建築デザイナーで、親しくしていた取引先は、志乃とも顔なじみになっていた。その取引先が倒産し、連帯保証人だった壮介も自己破産した。志乃には義務はなかったものの、知らん顔はできずに、自身の貯蓄と、勤めていた会社を退職してまで捻出した退職金で、壮介の借金の一部を、志乃は自主的に代済したのだ。
そして志乃が無職になったことを知った純は、せめて市乃の生活費くらいは援助するよと申し出てくれた。
血の繋がりのない純にそんなことを志乃が頼れるわけもない。
やや強引に振り込んでくる純に対して、「いつかは返す」という意思表示として、借用書を純に毎月渡しているのだ。
「こんなのいらないのに」
純がぼそりと呟く。
「いいから受け取って」
「市乃ちゃん、元気にやってるね」
「あなたのおかげよ」
「ニセパパって呼ばれてるけど」
玄関で靴を履きながら、純が振り返った。
「懲りないねえ、お互い」
「お互い、頑固だから。離婚もそれが原因かもね」
二人は顔を見合わせて笑った。そこには、かつての夫婦を超えた、長年培われた深い友情があった。
翌日、スーパーカガヤキの事務スペース。
中川が電話をしている。受話器を握る手に、妙な力が入っている。
「週末の夜、空いてる?」
相手の声は聞こえないが、中川の顔がニヤニヤしている。まるで何か企みでもあるかのように。
「大丈夫、任せておけ」
電話を切るやいなや、中川は売り場に向かった。志乃は缶詰の陳列をしていた。一つ一つラベルを前に向け、整然と並べていく。元バリキャリの几帳面さが、こんな作業にも表れる。
「田中さん、いつもぼくのフォロー業務ありがとうね」
中川が近づいてくる。いつもより丁寧な口調だ。
「お礼を兼ねて慰労会をさせてください。週末の夜はどうですか?」
志乃は手を止めた。
「え?そんなのいいですよ。残業の時は割増もらってるし」
「残業以上の働きですよ。これは店長からの感謝ですから、ねっ」
妙に押しが強い。
志乃は首を傾げたが、断る理由もなかった。
「わかりました。今度の週末ですね」
「詳しくはメールで送ります」
中川は満足そうに去っていった。その後ろ姿に、どこか企みめいたものを感じたのは、志乃の気のせいだったろうか。
その週末、夜七時。
志乃は指定されたレストランに着いた。落ち着いた和風の外観、上品な暖簾。慰労会にしてはずいぶんと格式の高い店だった。
(店長、張り込んだわね)
仕事帰りの服装で来て正解だったかしら、と少し不安になる。
店長の名前を告げて案内された個室は、店の一番奥にあった。
ドアのノブに手をかけ、ゆっくりと開ける。
席に、背広姿の男性が座っていた。50歳くらいの優しそうな顔立ちだが、どこか頼りなさそうな雰囲気もある。男性も志乃を見て、緊張した面持ちになった。
「え?」
志乃の口から、驚きの声が漏れた。頭の中が真っ白になる。
(この人は誰?なぜ店長がいないの?)」




