第1話 プロローグ
夕暮れの住宅街。オレンジの光が家々の屋根を染めていた。
田中志乃は郵便受けから取り出した茶封筒を、しばらく指先で撫でるように見つめていた。胸の奥がざわついだ。
リビングでは、壮介がソファに座っていた。テレビは点いているが、音は消されている。
「裁判所から」
志乃は封筒を両手で差し出した。
壮介も両手で受け取る。封を切るハサミの音が、静かなリビングに響いた。
「……自己破産手続開始……免責決定」
壮介は書類を何度も読み返す。まるで文字が逃げていかないように、確かめるように。
「これで、借金取りも来なくなる」
安堵の息が漏れた。
「やっと解放された」
志乃は冷蔵庫から麦茶を取り出し、グラスに注いだ。氷を三つ。壮介の好みだ。
「そうね。よかったね」
声は穏やかだったが、胸の奥には小さな棘のような痛みが残っていた。
壮介は麦茶を一気に飲み干した。
「志乃、本当に——」
「もう終わったことよ」
志乃は言葉を遮った。窓の外を見る。夕陽はすでに沈んでしまった。
数日後。
志乃は家庭裁判所の調停室にいた。そこは意外に狭い。
机を挟んで、志乃と壮介が向かい合って座っている。その間に調停委員が二人。穏やかな表情の初老の男女だった。
「双方の合意により、離婚が成立します」
女性の調停委員が静かに告げる。
書類が回ってくる。壮介の署名と判がすでに押されている。
志乃は万年筆を取り出した。結婚記念日に壮介から贈られたものだ。
さらさらと名前を書く。黒いインキが、いつもより鮮やかに見えた。
「親権は母親の田中志乃さんに」
「はい」
「養育費については——」
「できるだけ送ります」壮介が口を開いた。
「無理しなくていいわ」志乃は即答した。
男性の調停委員が書類を確認している間、エアコンの音だけが響いた。
「いいのか、志乃」壮介が小さな声で尋ねる。
「ええ。もう決めたことだから」
志乃は微笑んだ。本物の笑顔だった。
裁判所の前にはベンチがあった。
壮介はスーツケースを持ったまま振り返った。
「市乃には——」
「私から話すわ。今は学校だし」
「そうか」
スーツケースのキャスターがアスファルトの上で小さな音を立てた。壮介の背中が少しずつ小さくなっていく。彼は最後まで振り返らなかった。
志乃はベンチに腰を下ろした。穏やかな風が頬を撫で、秋の気配がした。
(借金からは解放された。夫婦のことも精算した)
空を見上げる。雲がゆっくりと流れていく。
(今日から新しい生活を始めればいいのよ)
バッグから携帯を取り出す。市乃から「部活終わったよ」とメッセージが入っていた。スタンプは笑顔のうさぎ。
(市乃には、できるだけ今まで通りの生活をさせてあげたい)
志乃は返信する。
「夕飯は何がいい?」
「ハンバーグ!」
すぐに返事が来た。
志乃は立ち上がった。
(スーパーで、特上のひき肉を買おう)
夕日がいつもより赤く染まっていた。志乃にはその赤が、やけに心に刺さった。