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終焉ノ呪陣  作者: 晶々
1/1

忘れモノ

 現世うつしよとあの世、その狭間に存在する黄泉比良坂よもつひらさかは、古より語り継がれる境界の領域である。

 そこは、行き場を失った怨霊たちがひしめき合い、蠢く場所でもあった。故に、人々は畏れを込めてその地を「終焉しゅうえん呪陣じゅじん」と呼んだ。

 終焉の呪陣への出入り口は、遙か昔に神々によって張られた強固な結界によって、固く閉ざされていた。それは、現世を怨霊の脅威から守る、最後の砦。誰もがその結界の揺るぎない力に、絶対の信頼を置いていた。


 しかし、その絶対は、音もなく、あっけなく破られた。


 何者かの手によって結界は打ち砕かれ、今やそこには、ぽっかりと不気味な大穴が口を開けているという。その穴からは、本来この世には存在し得ない、巨大な力を持った怨霊たちが、次々と現世へと解き放たれてしまったのだ。

 静かだった日常は、突如として闇に包まれた。目に見えぬ恐怖が、人々の心を蝕み始める。これは、世界の終わりか、それとも新たな始まりなのか。

 病院独特の消毒液の匂いが、鼻につく。白いシーツに横たわる麻美あさみは、規則的なリズムを刻む人工呼吸器にその命を預けている。


 医師には、命に別状はないと告げられているが、その言葉とは裏腹に、彼女の瞼は固く閉じられたまま、ぴくりともしない。


 その傍らには、老夫婦が立っていた。彼らの視線は、麻美の顔に釘付けになっている。


「娘の状態を私たちではうまく伝えられないのです。達也さんや子どもたちには、どうか先生の方から……」


 父親の言葉は震え、母親はただただ涙を流しながら、深々と頭を下げた。その姿は、痛々しいほどに懇願の念に満ちている。


「麻美さんのことは、私からご家族にお伝えしますので、ご心配なく」


 女はそう静かに、しかし力強く答えると、一礼して迷いなく病室を出て行った。


 彼女の名は麁朶はなだ海癸みまり。その背中へと広がる艶やかな黒髪は、白い肌を際立たせ、神秘的な雰囲気を醸し出している女性だ。切れ長の瞳は深く輝き、通った鼻筋と意志の強そうな唇が、洗練された美しさの中にどこか儚げな魅力を宿していた。


 病室に残された老夫婦は、ただ娘の手を握りしめている。一方、海癸みまりは麻美の夫である達也と幼い子どもたちが待つ自宅へと向かっていた。彼女の心には、意識が戻らない麻美の"今"を、そして"これから"を、どう伝えるべきかという重い問いが横たわっている。


 麻美の住まいは、夫が勤める会社の古びた三階建ての社宅で、その二階に一家四人で住んでいた。海癸は玄関に着くとすぐにチャイムを押したが、何の反応もない。そこで、ドアをノックし、声を張り上げた。


「麻美さんのことで参りました、どなたかいらっしゃいませんか!」


 しかし、やはり返事はない。海癸がドアノブをひねると、鍵はかかっておらず、あっけなくドアが開いた。彼女はドアを開け放ったまま、もう一度叫んだ。


「麻美さんのことで参りました、どなたかいらっしゃいませんか!」


 すると、『はーい』と可愛らしい声がして、小さな女の子が駆けてきた。幼稚園に通う、下の子の芽依めいだ。


「芽依ちゃんだね? パパはいるかな?」


 海癸がにこやかに尋ねると、その声に気づいたのだろう。


「誰ですか?」


 低い声とともに、麻美の夫である達也たつやが姿を現した。彼の顔には警戒の色が浮かんでいた。


「達也さんですか? 私は麁朶といいます。麻美さんの件で、浩二さんに言伝を頼まれて参りました」


 海癸がそう告げると、達也は驚きを隠せない顔で言った。


「麻美のことでお義父さんに!? やっぱり麻美に何かあったのですか? 妻が戻ってこないんですよ、連絡もつかないし……」


「申し上げにくいのですが、麻美さんは現在、事故に遭われ、明治総合病院に入院されています。命に別状はないとのことですが、意識が戻らないようで……だから連絡ができないのだと思います。

 つきましては、皆さんにこれから病院へ向かっていただきたいのですが、その前に事故の状況についてご説明させていただけますでしょうか」


 海癸はそう言うと、許可を得ることもなく靴を脱いで家へ上がり込み、そそくさと段ボールが山積みにされたリビングへと向かった。


「事故!? 意識が戻らないって、一体何があったんですか!?」


 達也は海癸を追いかけながら、必死に問い詰める。リビングには、上の子である小学一年生のれんがソファに腰掛けていた。


「蓮くんだね?」


 海癸が話しかけると、蓮は不思議そうな顔で答えた。


「そうだけど、おばさん誰?」


 三十路手前の海癸は"おばさん"という言葉に一瞬ムッとしたものの、すぐに笑顔を取り繕い答えた。


「おじいちゃんと、おばあちゃんの知り合いだよ。これからお母さんのことについてお話しするから、芽依ちゃんも座ってくれるかな」


「ママどうしたの?」


 芽依が戸惑いながら質問する。


「芽依ちゃんのママはね、事故に遭って今病院にいるんだ。でも、すぐに元気になるから、心配しなくていいからね」


 海癸は優しく答えた。


「それで、麻美に何があったんですか?」


 達也が不安そうに尋ねると、海癸は山積みにされた段ボールを見つめながら、静かに口を開いた。


「ところで、マイホームを購入されたようですね。おめでとうございます。引っ越しの準備もだいぶ進んでいるようですが」


「そうなんですよ! この社宅、古いでしょう。今月末に取り壊す予定なので、引っ越さなきゃならなかったんです。それで、これを機に家を買おうかと話になりましてね」


 達也は嬉しそうに話を続けた。


「いやー、最初は買う気はなかったんですけどね、試しに家族で住宅展示場へ行ったら、麻美と子どもたちが家がほしいって聞かなくなっちゃって」


「そうでしたか」


 海癸は笑顔で頷いた。


「ママがね、大きいお家に引っ越したら、ピアノを買ってくれるって言ったの!」


 芽依が嬉しそうに言った。そこに見えるキーボードタイプではなく、アップライトピアノを購入予定らしい。


「新しい家には僕の部屋があるんだよ。それにお庭もあるから、スイカを育てる予定なんだ!」


 続いて、蓮が嬉しそうに言った。


「芽依ちゃんも蓮くんも、いいねー。うらやましいよ」


 海癸は笑顔で答えた。


「それで、麻美に何があったんですか?」


 達也がまた不安そうに尋ねると、海癸は冷蔵庫の横にある"流し台"を指さしながら、まるで謎かけでもするように切り出した。


「あの"流し台"、なにか変わったことに気づきませんか?」


 達也は言われるがまま流し台に視線を向けたが、何かに気づく気配はない。首を傾げる。


「流し台…? 流し台が関係あるんですか?」


 海癸は達也の焦りを静かに見つめながら、ゆっくりと頷いた。


「はい」


 その短い返事の直後、横から蓮が声を上げた。


「わかった! 箱が無くなってる! お湯が出てくるやつ!」


「蓮くん、当たり! すごい、よく気づいたね!」


 海癸は心底感心したように蓮を褒め、蓮は照れくさそうに頬を緩めた。


「ああ、あの小さい"湯沸かし器"か。確かに無くなってる、なんでだ?」


 達也はまだ腑に落ちないといった様子で首をひねる。すると海癸が淡々と答えた。


「備え付けられていた小型の湯沸かし器は、不完全燃焼を防ぐ安全装置が付いていない古いタイプなので、取り外しました」


 達也は驚愕に目を見開いた。


「安全装置がついていないって、そんなにまずいの?」


「直ちに危険というわけではありませんが、もし不完全燃焼を起こした場合、一酸化炭素が室内に充満し、最悪の場合、一酸化炭素中毒を引き起こす危険性があります。

 つい二週間ほど前にも、ここ"三崎市内"で、湯沸かし器の不完全燃焼による"死亡事故"が発生しています」


「へー、三崎市内でそんな事故あったんだ。ニュースになりそうなもんだけど」


 達也が不思議そうに尋ねると、海癸の声がわずかに沈んだ。


「事故のことは大きく報道されましたよ。一家四人が中毒になり、奥さんは助かりましたが、残念なことに、旦那さんとお子さん二人が亡くなってしまいました……」


 達也は思わず顔を乗り出した。


「えっ! 三人も亡くなってるの!? この三崎市内の話でしょ? 見てないな、そんなニュース。その事故はどこであったの?」




「――この部屋です」


 海癸の言葉に、達也は息を呑んだ。全身の血の気が引いていくのがわかった。蓮も、それまでの朗らかな表情から一変、こわばった顔で海癸を見つめている。しかし、すぐに、達也の胸に疑問が湧き上がった。


「この部屋って……一体、どういうことだ? 俺たちは、ずっと、ここに居たじゃないか……?」


 海癸は、そんな達也の混乱を冷静に見つめながら、ゆっくりと首を横に振った。


「いいえ、達也さん。あなた方は、ここにいません。正確には、もう存在していません」


 その言葉が、達也の脳裏に稲妻のように走った。存在していない? どういうことだ。確かに自分はここにいて、海癸や蓮たちと話している。温かい血潮が体中を巡り、呼吸もできている。


 しかし、同時に、言いようのない違和感が達也を襲った。麻美のことが気になってこの部屋で待っていたのに、いつからここで待っていたのか、記憶が曖昧だ。


 そして、何より、身体がひどく重い。頭の奥が、ずっともやがかかったようにぼんやりとしている。


「二週間前、この部屋で一酸化炭素中毒事故が起こりました。麻美さんだけは奇跡的に助かりましたが、皆さんは、事故で亡くなられています……」


 その言葉は、まるで凍てつく刃物のように、達也たちの胸を貫いた。報道では、麻美の家族――夫、達也。腕白盛りの蓮。そして、いつも笑顔を振りまいていた芽依――の三人が、この部屋で命を落としたと伝えられていたのだ。


「皆さんが私とこうして話せるのは、いわゆる"地縛霊"の状態にあるからです」


 達也の目の前が真っ白になった。地縛霊。自分たちが? そんな馬鹿な。


『嘘だ……』


 達也は声に出したつもりだったが、その声はひどくかすれて、まるで遠くから聞こえてくるようだ。蓮はもう、何も言えず、達也にしがみついたまま震えている。


 海癸は、そんな達也と蓮の様子に、静かに語りかけた。


「残念ながら、事故で亡くなられているのは、事実です……」


 達也は頭を振り、混乱を振り払おうとする。事故死? だから何なんだというのだ。身体の奥から、じわじわと不満が湧き上がってくる。


「事故……? 馬鹿なことを言うな! 俺は、つい先月、念願のマイホームの手にしたんだぞ! やっと手に入れたんだ、家族みんなで暮らす夢の家を! それなのに、こんなところで……! ふざけるな!」


 達也の背後から、ぴりぴりとした怒りの波動が湧き上がった。そして、芽依は海癸を睨みつけ、震える声で叫んだ。


「私も、これからだったのに! ピアノの曲、一生懸命練習してたのに! もっと素敵な曲、たくさん弾けるようになるはずだったのに! なんで! なんでなの!」


 芽依の言葉と共に、怒りを滲ませた蓮が続いた。


「僕の部屋! 僕のスイカは……! 大きく育てるはずだったのに! ママと一緒に、僕が育てたスイカ、食べるはずだったのに…! 返してよ、僕のスイカ!」


 蓮の目からは、とめどなく涙が溢れ出していた。達也は、芽依と蓮の怒りの声に、自分自身の深い絶望と、やるせない怒りが増幅されていくのを感じた。


「それに……」


 達也の声が、微かに震えた。


「麻美は……麻美はどうするんだよ……。一人になっちまうじゃねーか……」


 その言葉からは、妻を想う夫の深い愛情が、ひしひしと伝わってくる。彼女の傍にいることも、その手を握ってあげることもできない。その事実が、彼の胸を締め付けているのだろう。


 海癸は、そんな達也たち三人の霊を見つめながら、静かに、しかし力強く言った。


「あなた方は、自分たちが死んだことを受け入れられない。だからこそ、未練に囚われ、この部屋に留まり続けている。


 麻美さんは、皆さんの魂がこの部屋に縛られていることに気づき、苦しんでいます。だから、私は皆さんの魂を救いに来たのです」


「救いに来た……だと!? お前に一体何ができるんだよ! そもそも、お義父さんの知り合いとか言っていたが、お前は誰なんだ!」


 自分の死など到底信じられない達也は、怒りを込めて言い放った。その声は、生前の彼からは想像もできないほど荒々しかった。


「パパ、この人、やっぱりおかしいよ」


 芽依が父親を援護するように口を開いた。


「私ですか? 私は占い師をしている麁朶はなだ海癸みまりと申します。テレビにも何度か出たことがあるんですよ」


 海癸が涼しい顔でそう言うと、達也はさらに声を張り上げた。


「占い師? やっぱり嘘つきの詐欺師じゃないか! 俺たちが死んだっていう証拠はあるのか? ないだろ!? あっても適当に作った俺たちの葬式の写真とかだろうな!」


「パソコンがあると、偽物の画像とか、たくさん作れるらしいから、お父さん、信じちゃダメだよ」


 蓮が牽制する。子どもたちの純粋な不信感が、海癸の言葉をより一層胡散臭いものにしていた。


「証拠ならありますよ。こちらです」


 海癸はそう言って、手のひらに収まるほどの小さな手帳を取り出した。


「あっ! ママのだっ!!」


 芽依が叫んだ。それは、麻美が事故の前まで毎晩欠かさず書き綴っていた──家族の日記だった。


「どうせ、適当に作った偽物だろ!」


 達也は吐き捨てるように言い放った。その声には、信じたくない現実への苛立ちと、抗いがたい疑念がにじんでいた。


 海癸は侮蔑の言葉に動じることなく、ゆっくりと日記のページをめくった。その指が止まったのは、ある日付のページだった。



【◯月27日】

今日も元気に4人で晩ご飯。パパが「この時間がいちばん好き」って言った。

私もそう。あなたたちがいるだけで、私は世界一の幸せ者です。

でもパパ、最近特に忙しそうだ。今日はゆっくり湯船に浸かって、疲れを流してもらいたいな。

愛してるよ。ずっと、ずっと。



 海癸は、その一節を穏やかな声で読み上げた。リビングに、麻美の温かい声が響き渡るような錯覚に陥る。読み終えた時、部屋の空気がふわりと揺らいだ。まるで、麻美の想いが、この空間に満ちていくかのように。


──確かに、麻美が書いたものだ。

──あの優しい字。あの言い回し。

──作れるわけがない。作れるはずがない。


 達也は目を伏せ、手帳の文字を見つめる。彼の脳裏には、麻美の優しい笑顔が鮮やかに蘇っていた。


「……麻美……」


 その声は、先ほどの怒りとは打って変わって、ひどく掠れていた。


 海癸は、そんな達也の様子を静かに見守りながら、さらに日記の朗読を続けた。


「蓮が学校で"お母さんのカレーが一番"って言ってくれたみたい。もう、かわいくて泣きそう」


「芽依、今日はピアノを最後まで弾けた。すごいなぁ、あの子の手は魔法みたい」


 麻美が綴った、何気ない日常の一言一言から、子どもたちへの深い愛情がひしひしと伝わってくる。それは、家族にとって、抗いようのない真実となって、胸に迫った。


「お母さんが目を覚ましたとき、僕たちがいないって知ったら、すごく悲しむよ……」


 蓮の声が、リビングに沈んだ空気のように広がった。その胸には、母を案じる純粋な痛みが宿っている。


 海癸は、蓮の言葉に、静かに頷き、


「お母さんはね、みんながいなくなって、きっとすごく悲しいと思う。でもね、悲しい気持ちでいっぱいになるのは、それだけたくさんの『大好き』があったってことなんだよ」


 海癸は、蓮と芽依の目を見て、優しく続けた。


「麻美お母さんは、みんなからもらったたくさんの『大好き』を、ずっと胸の中にしまって、これからも歩んでいくんだよ。

 その『大好き』がね、お母さんが元気を出して、これからも頑張るための大きな力になるからね」


「でも……ママ、一人になっちゃうよ……」


 芽依が不安そうに言った。その小さな瞳には、麻美を案じる気持ちが揺らいでいた。


「ママにはね、おじいちゃんとおばあちゃんがいるよ。昨日もママの妹さんやお友達が、たくさんお見舞いに来ていたんだ。だから、ママは一人にならないよ。心配しなくていいんだよ」


 達也と蓮、芽依の三人が、静かに手帳を囲む。すると、ページが、まるで風もないのに一枚めくれた。


 最後のページには、まだ何も書かれていなかった。


 芽依が笑った。


「ママ、このページに何書くつもりだったんだろうね」


 蓮が頷いた。


「きっと、晩ご飯の話とか、僕の忘れ物のこととかさ」


 達也は、愛おしそうに子どもたちの肩に手を置いた。


 ──その瞬間、三人は、まばゆい光に包み込まれた。


 光は慈愛に満ちた腕のように、ゆっくりと、三つの魂を空へと誘っていく。


 海癸は、三人の旅立ちを、ただ静かに、微笑みながら見送った。


 リビングには、家族が確かに存在した温かな余韻だけが、優しく残されていた。


 それから、海癸が手帳を返しに病室へ戻ると、それまで深い昏睡状態にあった麻美の目が、うっすらと開かれた。意識が戻ったのだ。


 安堵に息をついた海癸は病院を後にし、帰路の途中、一人の男に電話をかけた。


「麻美さん、意識が戻ったようですよ。それと、亡くなられたご家族の"光化こうか"も確認しました」


 光化とは、魂が"現世うつしよ"から"あの世"へと旅立つ際に起こる、光に包まれる現象だ。いわゆる成仏の前兆であり、その魂が安らかに次なる場所へ向かった証でもある。


「そうか、それは良かった。お疲れ様。忙しいところ、無理を言って申し訳なかったね。」


 電話の向こうで、男は低い声で応じた。どうやら海癸はこの男からの依頼を受けていたらしい。


「いえいえ、ちょうど金欠だったんで、助かりましたよ」


 海癸が冗談めかして笑うと、男は『えっ、金取るの!?』と驚いたような声を上げた。


「当然でしょう!?」


 海癸の即答に、男はくすりと笑った。


「冗談だよ。近頃、"呪協じゅきょう"は忙しくてね、本当に人手が足りてないんだ」


 呪協とは"呪術平和協会"のこと。表向きは呪術の啓蒙活動をひっそりと行っているに過ぎないが、その真の運営母体は、この国の呪術関連を裏で取り仕切る"大八洲呪禁同盟おおやしまじゅごんどうめい"である。


「あの中毒事故の報道は、まさに過熱の一途を辿っていたからね。達也さんたちが怨霊化して、まがにでもなっていたら、それこそ厄介な事態に陥っていたとおもうよ。君がいてくれて助かったよ。」


 まが――それは、怨霊化した魂が、物の怪を取り込み、災厄を振り撒くバケモノと化した姿だ。


 呪術師にとって、怨霊や禍つ霊を退治するのは当然の務めだ。だが、真に重要なのは、その発生そのものを未然に防ぐこと。


 蠢く影が生まれ落ちる前に芽を摘み取り、まだ見ぬ惨劇の種を刈り取る──それこそが、被害を最小限に抑え、市井の人々を守るための至上命題なのだ。


 呪協が最も恐れていたのは、事故で命を落とした達也たち三人が、怨霊へと変貌することだった。


 実は、事故を起こした湯沸かし器がリコール対象だったことが発覚すると、世間は手のひらを返した。『注意喚起があったのに、なぜ確認しなかったのか』『自己責任だ』といった非難の声が、SNSを中心に達也たちへ向けられたのだ。


 彼らが懸念したのは、まさにこの負の集合意識だ。膨大な数の人間から放たれる悪意に満ちた集合思念は、魂に深く干渉し、その性質を捻じ曲げる。


 もし、あのまま憎悪の嵐を浴び続けていたら、達也たちの魂は計り知れない力を宿した怨霊として、この世に生まれ落ちていたかもしれない。呪協はその可能性を危惧し、麻美の親御さんにすべてを話し、海癸の力を頼ったのだ。


 ちなみに、海癸は達也に"占い師"だと名乗っていたが、その正体は大八洲呪禁同盟に所属していない"野良の呪術師"である。


 呪禁同盟には所属せず、平穏な日常を望んでいた麁朶はなだ海癸みまり


 しかし、抗いきれない運命に引き戻されるように、彼女は否応なく、この世ならざる力を持つ呪術師たちの熾烈な抗争へと巻き込まれていく。


 海癸が一体何者なのか、その真相に迫るのは、また次の物語に譲るとしよう。







達也たちとの別れから、数日が過ぎた頃、手帳の最後の空白のページには、こんな事が書かれていた。



【◯月19日】


三日前に、目が覚めました。

あなたたちは、もうここにはいないけれど──

手帳を開くと、あなたたちの声が聞こえます。


芽依、ピアノ、もっと聴きたかったよ。

蓮、今日もまた大好きだったカレーの香りを思い出したよ。

達也……あなたの隣に、ずっといたかった。


でも、私、生きている。

あなたたちが残してくれた温かい日々と、この命で、

私は、また今日という日を始めます。


明日は、どんな日になるのかな。

おやすみ。またね。大好き。


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