第3話 葦原と健康
此度のハイキングで運動不足を実感した葦原は健康増進のために運動を始めるが…?
やがてハイキングコースも半分に差し掛かった頃、明久と西片は特に問題なくずんずんと進むが樋口と葦原はそうはいかなかった。麓を歩いているので標高は高くないため空気が薄いと言う訳ではないが悪路が多く日頃では使わない筋肉の部位に負担がかかっていたのである。
西方は彼らより少し先を歩いて近くに公衆トイレがる事を確認すると水飲み休憩を提案した。樋口はどさりとベンチに腰を掛けて水を飲む。
「ゔぇー、歩くなぁ。西片、後どのぐらいあんの?もう後半くらい?」
「今が折り返し地点ぐらいだな」
「うそん…私の足はもう限界よ」
口では弱気な発言をしているが樋口はまだ歩く体力を残している。一方で葦原は何も言わず微笑んでいるが足は既に限界が来ていた。目元が笑ってない事を察した明久が声をかける。
「大丈夫?まだ歩ける?」
「うん、問題ないよ」
明久はじっと葦原の目を見つめる。
「無理は駄目だよ?どうしても歩けなくなったら西片さん相談して車が入れる所まで来てもらう様に説得するから」
「明久君…。ありがとう。でも私はこのハイキングコースを踏破したいんだ。西片はきっと運動に慣れてない私や樋口さんのために初心者に優しいコースを選んでくれたんだと思う。私はその気持ちに応えたい」
「そうですか…。分かりました。僕は葦原さんに歩行ペースを合わせるのでキツくなったら言ってくださいね」
「うん!」
なお、西方は2人のために比較的歩きやすい場所を選んでいるもののハイキングに適した靴を履いて来る様に2人に説明するのを忘れていた。
やがて休憩を終えてハイキングを再開する4人。西片は途中で立ち止まっては皆のペースに合わせつつサンプリングをしたり、何か興味ある物を探ったり、コースを少し外れてゴミ拾いしたりしていた。
普通に歩くだけでも疲れる樋口や葦原としては2人を待つ時間さえ惜しくてずっと動いている西片が信じられないほどだった。
「はぁ…はぁ…我ながらここまで体力落ちてるとは思いもしなかった」
「運動不足を実感してるんだったらいい所を紹介しようか?」
後ろ向きに走りながら西片が樋口に声をかける。
「いんや、いいよ。少し前に部下がフィットネスクラブに誘ってくれたんだ。その時は保留にしてやんわり断ってたんだけど、近場だしそこへ行こうと思う」
「いいね」
「葦原さんも一緒にどうですか?」
「うーん…考えておきます…」
「やりたくなったら声かけてくださいね〜」
確かに葦原も体力をつけなければと考えている。しかし彼は学生時代から運動は得意な方ではなく転職してからは更に運動もしなくなったので西片が度々外出に誘ってくれてはいるもののやはり体力低下は著しい。
せっかく誘ってくれたフィットネスクラブで体を壊して余計な心配をかけてしまうと考えた葦原はまずは基礎体力を身に付けるためにウォーキングから始めようと考えたのだ。
次の休憩ポイントまでは道のりが長く険しかったが何とか励まし合い到着した。椅子に腰を掛けて座ってぐったりする葦原に西片が自販機でスポーツ飲料を買って持って来た。彼はそれを受け取ってお礼を言う。
「おう、お疲れさん。まだ歩けるか?」
「ありがとう…何とか歩けそう…。後どのぐらい?」
「後2kmもないぞ。もう1歩も歩けないってんなら、すぐ近くまで車持って来るけど」
「後ちょっとだから、頑張る…」
「その意気ですよ、葦原さん!」
葦原を励ます樋口。
「ありがとう…!何とか頑張るよ」
葦原の健闘に微笑む明久。彼は汗をタオルで拭くと少し気になって西片に尋ねる。
「西片さん、このコース2時間ぐらい歩くって言ってましたが。そもそも全体で何kmあるんですか?」
「大体8kmぐらい。6kmのコースがいいかなって思ったけどここより遠かったから帰りが遅くなりそうだったんだ。気に入ってもらえたかな」
「ええ。僕もここ好きです」
「なら良かった」
ニカッと笑う西片。それからしばらかして休憩を終えて歩き出した。葦原が若干フラフラとしているが西片や樋口には気付かれない様に頑張っているので明久が転倒しない様に傍についた。
やがてやっとの思いでコースを一周すると葦原は「ヤッター!!」とガッツポーズを取る。皆でハイタッチし、余韻に浸りながらも車に乗った。
その後皆で昼食を食べ、長いドライブを経て自宅へ帰った。翌日、葦原は筋肉痛で会社を休む事になった。
「葦原さん、大丈夫ですか?必要なら僕がそばにいてあれこれ世話しますよ」
「気持ちだけ受け取っておくよ。そろそろ急がないと学校に遅刻するよ?」
筋肉痛で休んでる葦原を心配する明久だったが玄関まで彼に見送られ諦めて登校した。葦原は痛む体を引き摺りながらベッドに戻る。
ゆっくり、ゆっくりとベッドに倒れ込むと天井を眺める。
…ピンポーン♪
「今ベッドに戻ったのにぃ…!」
返事をしてからのそり、のそりと玄関へ向う。のぞき窓から覗くとそこには黒いカジュアルスーツを着た若い男性がいた。彼には見覚えがある。
「葦原君〜、俺だよ〜」
澳原薊。最近音信不通になっていた男性である。葦原はドアの鍵を開けると彼を中に入れた。香水の匂いが室内に広がる。
「手ぶらで申し訳ないね」
「いいんだよ気にしなくて」
「シャワーと洗濯機借りていい?」
「いいけど…服は?」
「乾くまで全裸でいるよ」
「私のを貸すから着なよ…」
「どもッス」
澳原がシャワーを浴びてる間、葦原はベッドに戻って寛ぐ。SNSを開いて適当にスクロールしているとやがて葦原の服を着た澳原が浴室から出て来た。彼はソファでゴロンと横になる。
「最近音沙汰なかったけど大丈夫だった?」
「ああ、すまん。アレだ。スマホの支払いを滞納してたからす利用停止食らった」
「そ、そうなんだ…」
しばらくすると澳原の寝息が聞こえて来た。お風呂や寝床もままならない生活をしていたのなら食事もロクに取れてないかも知れない。葦原は痛む体を起して冷蔵庫の中を確認する。葦原愛護団体の面々のおかげで冷蔵庫の中は充実している。
中からいくつか材料を見繕って2人分のパスタソースを作った。パスタソースの粗熱が取れるまでは動画サイトを無線イヤホンに繋ぎながら視聴する。それからパスタソースを冷蔵庫に移した。
澳原を起こさないように静かにしているとやがて寝落ちしてしまった。気が付くと澳原が自分の服をベランダに干していた。近くの机にはビールとつまみ、お菓子とお弁当が置いてあった。
「おお葦原君、起きたか。お菓子買って来たから食べていいよ。レンジ借りていい?」
「ああ、ありがとう。澳原さん、実は澳原さんが寝てる間にパスタソースを作ってて後はスパゲッティを茹でるだけなんだ。食べる?」
「マージかあ!食べる!」
「少し待っててね」
そうして葦原は作り置きしていたパスタソースを温めスパゲッティを作る。葦原は自分の分と澳原の分を机に持って行く。
「わはー!美味そう!いただしまーす」
澳原はそう言ってガツガツと食べる。よほどお腹が空いていたのだろう。豪快な食べっぷりを眺めているうちにペロリと完食してしまった。
「えっと…食べる?」
葦原はそう言って自分の分のスパゲッティを差し出す。
「いーの?!葦原君大好き!!」
そう言って澳原は葦原の分のスパゲッティも食べる。葦原は澳原に合わせただけで大してお腹空いていなかったのでそのまま昼ご飯は抜く事にした。
昼食を終えると澳原が皿洗いし、葦原はリビングルームでテレビを眺めた。やがてやって来た澳原が葦原の隣に座る。しばらくはお互いに何も言わず何となく番組を眺めていた。
「スマホが使えないと不便も多いよね。大丈夫?」
「来週にはまとまったお金が入るから心配ないよ」
「自宅の電気を止められたり水道出なかったりとかしてない?」
「だぁーいじょーぶだってぇ!心配ないよ。葦原君は優しいなあ!」
そう言って澳原は腕を葦原の肩に乗せて抱き寄せる。
「風来坊の俺にこんなに親身になってくれるのは葦原君だけだよ。俺、君にマジになりそう」
「色んな人にそういうセリフを言って回ってそうだよね」
「マジマジ、マジだって」
まともに取り合わない葦原に澳原は彼を押し倒した。驚く葦原の耳元で澳原が囁く。
「君とならこう言う事だってできるよ」
「ちょ、澳原さん…」
澳原は葦原の服の襟元のボタンを1つ1つ外し始める。葦原はキュッと目を瞑る。3つ目のボタンに手をかけた所で手を止めた。
「冗談だって。嫌がる葦原君を無理矢理襲うなんてしないよ」
そう言って澳原は葦原から離れた。葦原は戸惑いながらもため息をついてボタンを止め直す。
「今晩は泊まってく?」
夕方になり葦原が澳原に尋ねた。彼が家を訪れた際はそのまま成り行きで泊る事も少なくない。しかし葦原は翌日は仕事なので予定のために確認しておく必要があった。
「んーいや、そろそろお暇しようかな」
「そっか。もし何か困った事があったら気軽に相談してね」
「ありがと」
澳原は自分の服が乾いてるのを確認してから着替えるとコンビニで買った弁当を冷蔵庫から取り出す。葦原にここで温めたり食べていく様に勧められたがまだお腹が空いてないからと断った。葦原は玄関に向かう途中の澳原に保冷剤を持って行こうとして躓いた。澳原は振り返って倒れかかる葦原を支えた。
「大丈夫?」
「ごめん、実は今ちょっと筋肉痛で…。それよりしばらく食べないなら保冷剤持って行ったほうがいいんじゃないかな」
「うーん…じゃ貰っとくよ。ありがと。葦原君も今日はしっかり養生してね」
そう言って澳原は保冷剤を受け取ると葦原を放した。すぐに家を出ようとしたが彼の目線は奥のベランダの方へ向く。そこには夕日に髪を赤く染めた少年が手すりに乗っていた。葦原は目線をどこかへやって止まっている澳原が気になって同じ方向へ目線を向けると明久がベランダから入って来た。澳原が葦原の前に立って数歩歩きコンビニ弁当の袋を床に置いた。
「おう、人様の家の入り方を教えてやろうかクソガキ」
明久を知らない澳原からすれば明久は非常識な不法侵入者だ。彼はドスの効いた声色で明久の方へ向かう。葦原は澳原の肩を掴んで止める。
「澳原さん、待って。彼は明久君って言って私の友達だよ」
「えぇ…。葦原君、さすがに友達は選んだ方がいいと思うよ」
「同感だ。そいつと付き合うのはどうかと思うよ葦原さん」
明久は澳原を睨んだまま言う。
「おーこわ。葦原君、とにかく彼は不審者じゃなくてちゃんとした知り合いなんだね?」
「うん。安心していいよ」
「ならいいや。それじゃ葦原君、またね」
そう言って彼はコンビニ弁当の袋を拾って玄関から外に出た。明久は早足で玄関に向かうと鍵とドアチェーンをかけた。彼は振り返ると心配そうな顔で葦原の前に立つ。先程の攻撃的な目つきが穏やかな表情に変わる。
「大丈夫?何かされなかった?」
服の汚れや怪我がないか心配そうに確認する。
「何もされてないよ。彼は少し変わってるけど私に危害を加える様な人じゃない」
「……あまり葦原さんの交友関係にあれこれ言いたくないけど、あの人とは距離を置いて近付かない方がいいと思う」
「どうして?」
「目付き、顔つき、一挙一動の仕草、臭い。あの人絶対に普通じゃない」
澳原が刺されたあの日、彼は病院にも行きたがらず警察に通報するのも強く拒否した。葦原から見ても彼が所謂一般人でない事はおよそ想像がついている。しかし彼は葦原に対して暴力を振るったり脅迫をしたりする事もなければ変な薬を勧めたり儲かる怪しい話を持って来る事もない。お互いに下手に踏み切る事をしなければ拒絶する必要はないと葦原は考えていたのだ。
葦原は明久に澳原について具体的な事は話していない。それでも彼は直感的に澳原を危険人物と認識した。葦原は澳原と交流をやめるつもりはないが少なくとも明久と居合わせる様な事態はできるだけ避けようと考えた。
それからはいつもの様にリビングルームのソファの上でゴロゴロ始めた。いつもよりスマホの画面をずっと見ている。葦原はテレビで動画サイトを開いてゲーム版流れるカニカマボコの冒険の冒険RTA動画を眺める。
「…あの澳原って人、本当にただの友達なの?」
「うん。どうして」
「…その、抱き合ってたから…」
「彼を見送ろうと玄関に向かう途中で転んじゃって。それで支えてくれたんだ。別に抱き合ってた訳じゃないよ」
「ならいいけど…」
葦原はリビングルームで澳原に押し倒された事を思い出した。彼は誰かにあんな風に迫られた経験がない。『君とならこう言う事だってできるよ』と言う意味が分からないほど葦原も初ではない。
もしあのまま受け入れていたなら…と想像して葦原は顔を赤くする。明久は面白くなさそつな顔で葦原の顔を見て余所を向いた。
「やっぱり僕、あの澳原って人を好きになれそうにない」
明久は独り言のように言った。
朝がやって来た。葦原は太陽光を浴びて苦虫をかみつぶした様な顔をする。彼は朝からあまり機嫌が良くなかった。それもそのはず、健康増進のために始めたウォーキング中にながら運転する右側通行の自転車に轢かれかけて軽い捻挫をしてしまったのである。幸い今日は祝日でありどこへも行く予定はない。
掛布団を両手で顎元まで持って来てやり場のない怒りの矛先を何となく天井に向ける。
「何なんだよもう…」
彼の問いかけはただ虚空に吸い込まれるだけで返って来なかった。ベランダから明久が登って来る。カラカラと音を立てて中へ入ると葦原の元へ歩いて来た。
「おはよう、葦原さん。足の調子はどう?」
「うん…まあ、今日中には治るよ」
「散歩なら僕と一緒に出かけようよ。僕が一緒なら葦原さんに怪我なんてさせない」
「私の散歩に付き合わせちゃ悪いよ」
「僕が一緒じゃ嫌なの?」
「嫌じゃないけど…」
「じゃあ決定で。それじゃ僕は朝食を作って来るから」
明久が軽い足取りでキッチンへ向かう。彼は言い出したら聞かない。葦原は余計な事を言わず彼の厚意に甘える事にした。西方や樋口や葦原の料理を学んで少しずつ彼も料理の腕が上達している。作りたい料理や食べさせたい料理を大量にリストアップしているらしく葦原と買い物に行けなければ自分で買って来る。
買い物袋を持ったままベランダから出入りしようとする事もあるので葦原はやむを得ず彼にスペアキーを渡している。さすがの彼も手荷物がある時はちゃんとエレベーターを使って葦原の家へ来る。
少し前までは明久もどうして西方も樋口もこんなに葦原のお世話を焼きたがるのだろうと疑問い思っていたが、結局理由が良く分からないまま同じようにお世話を焼いている。葦原はのそのそとベッドから起き上がってキッチンへ向かう。
「安静にしてないと駄目だよ」
「自室をちょっと歩くぐらいなんて事ないよ」
葦原がムッとした顔でのそのそ歩いていると台所の角に小指をぶつけた。
「ぎゃあ!」
よろけてもう片方の足に重心を置こうとしてもう一度足首を捻る。
「ふぎぃ!!!」
葦原は悶絶しながら床を転げまわる。その拍子に冷蔵庫にぶつかり上から落ちて来て顔面にヒットした。葦原は目に涙を浮かべながら鼻血を出している。明久はティッシュペーパーを取って屈み彼の鼻血を拭いてあげた。
「立てる?」
「うん…」
「机に座ってじっとしててくれるね?」
「うん…」
そう言って彼はとぼとぼと机に向かって行った。彼の背中を見送ってから明久は朝食作りを再開する。彼が下ごしらえに入った頃、レシピが表示されている画面の上にメッセージの通知が入った。彼の学校の友達からである。遊びの誘いだった。彼は通知を切って手を洗い料理を再開した。
以前読んだ本に日常系を書くのって意外に難しいって書いてあったけどそれを実感してる。執筆速度が遅くて週1投稿すら怪しくなったのでメモリ増設してパソコンで書く事にした。パソコンでの執筆をやめてスマホで書き始めた理由がパソコンが重すぎたからなんだけど、まあ増設前のメモリが4GBしかなかったので…←