不仲な婚約者の飼い猫になったら、甘々な本音がダダ漏れでした
つよつよ令嬢×素直になれない毒舌令息☆☆
伯爵令嬢ジェナ・アシュリーは、婚約者である侯爵令息イーサン・ブライトンと仲が悪かった。それはもう、周囲の人々から「何でお前ら婚約したの?」と尋ねられるくらい仲が悪かった。
その日も所用でブライトン家を訪れたジェナは、例に漏れずイーサンと喧嘩をしていた。
「ちょっと、イーサン! 手紙の返事くらい返しなさいよ!」
「何でこの俺が、お前宛に手紙を書かなきゃならねぇんだよ」
「用があるから手紙を送ってるんでしょうが! あんたが返事を返さないから、私がこうやってはるばる足を運ぶ羽目になってんのよ!」
ジェナは烈火のごとく怒りまくるが、イーサンは非を非とも思っていない様子だった。ソファにだらしなく背中を預け、ジェナの方を見ようともせず口を開く。
「へーへー。で、何の用だっけ?」
「誕・生・日・会! 1ヶ月後に私の誕生日会があるから、予定を空けときなさいよ」
「ああ、誕生日会……お前、何歳になるんだっけ? 5歳?」
「っ……本当に嫌い!」
小馬鹿にしたようなイーサンの態度に罵倒を返し、ジェナは怒り心頭で部屋を出た。人気の少ないブライトン邸の廊下を、貴族の令嬢らしくなく大股で歩く。
(嫌い、嫌い、大嫌い! いつも私のことを馬鹿にして!)
ジェナとイーサンの婚約が結ばれたのは、2人が7歳のときだった。
きっかけはブライトン家の方から婚約を申し出てきたこと。当時のジェナにはまだ婚約者がおらず、特段問題も見当たらなかったため、アシュリー家は二つ返事でこの婚約を受け入れた。
しかし、これがジェナにとって地獄の始まりだった。婚約者となったはずのイーサンは、ジェナと顔を合わせるたびに揶揄いを口にする。手紙を出しても返事はない、誕生日のプレゼントも持ってこない、夜会のエスコートすら嫌がる始末だ。
初めのうちは何とかしてイーサンと仲良くしようとしていたジェナも、ここまでされれば疲れてしまう。
だからといって一度結ばれた婚約を破棄することも難しく、ずるずると婚約関係が続いてしまった。
「はぁ……」
ジェナは足を止め、溜息を吐いた。
怒り任せに歩くうちにブライトン邸を出てしまったようで、周囲には緑の林が広がっていた。爽やかな風に吹かれていると、頭は少しずつ冷えてくる。
(どうしたら良いのかしら……このままイーサンと婚約関係を続けていても、お互い幸せになんてなれないわ)
あれこれと考えながら、雑草を踏みわけて進む。
そこにあった適当な木に背中を預け、なおも思考に耽る。
(いっそイーサンが浮気でもしていてくれれば話は早いのよね。こっそり部屋に忍び込んで、身辺を探ってみようかしら……って、いくら婚約者とはいえ勝手に部屋に入るのは無理ね。いっそ猫にでもなれれば――)
そのとき、ジェナの背中が白く光った。いや正確には、ジェナの背後に立っていた木が白く発光した。ジェナの願いを聞き届けたとでもいうように、光はジェナの身体を包み込んでいく。
「え、ちょ、何事……いやぁぁぁー!」
ジェナは絶叫し、目を閉じた。
光にあたった場所が熱を持つ。手足が縮んでいくような奇妙な感覚に襲われる。
無限とも思われる時間が過ぎ、光が治まった頃、ジェナはようやく息の塊を吐き出すのであった。
「にゃー……にゃんにゃんにゃ……にゃ?(はぁー……びっくりしたわ……ん?)」
ジェナの口から出た声は、聞き慣れたジェナの声ではなかった。それどころか人間の声ですらなかった。か細くて愛らしい、猫の声だ。
ジェナは恐る恐る手のひらを見た。そこにあるのは長くて細い5本指ではなく、ピンク色の肉球を携えた獣の手。まごうことなき猫の手であった。
「にゃにゃ、にゃんにゅにゃーんにゃー⁉(わたし、ねこになってるー⁉)」
どうして突然、猫の姿になってしまったのか。理由がわからずジェナは困惑した。
しかし少し考えると、それらしい理由に行き着いた。ジェナが「いっそ猫にでもなれれば」と考えた直後、背後にあった木が発光した。あの木が何かしらの悪さを働いたに違いない。
(……木!)
ラナは林の中にぽつんと生えた木を睨み付けた。一見すれば、何の変哲もない木だ。
願いを叶えてくれたと言えば聞こえはいいが、たかだか婚約破棄のために人間であることを捨てたくはない。ジェナは両手のひらの肉球を合わせ、必死で願った。
(木、木! どうか私を元の姿に――)
「……あれ? 猫?」
しかしジェナの懸命の願いは、聞き慣れた声によって遮られることとなった。イーサンだ。猫の姿となったジェナの背後には、婚約者であるイーサンが首をかしげて立っていた。
「こっちの方に歩いてきたと思ったんだけどなー……どこまで行ったんだ、あいつ」
イーサンはぽりぽりと首筋を掻き、ジェナの目の前に座り込んだ。
「なー、猫。この辺で黒髪の女、見なかった? こーんな顔してプリプリ怒ってる奴……って猫にわかるわけねぇか」
(わかってるわよ。その女ならここにいるわよ)
ジェナの言葉は、悲しいかなイーサンに届くことはないのであった。
イーサンはきょろきょろと辺りを見回し、またジェナの方を見た。碧色の瞳が、ジェナの瞳をまじまじと覗き込む。
「……何かお前、ジェナに似てんな」
(え、そう?)
「毛の色も目の色も一緒だし。そのチョーカー、ジェナがつけてたやつと一緒だろ。お前、ひょっとしてあいつの飼い猫?」
(飼い猫というか本人よ)
律儀に応答するジェナの首元で、革紐のチョーカーが揺れた。そのチョーカーは16歳の誕生日にブライトン侯爵夫人――つまりはイーサンの母親――がプレゼントしてくれた物で、ジェナのお気に入りだ。
猫の姿になったとき、衣服は綺麗さっぱり消えてなくなってしまったが、なぜかそのチョーカーだけは残されていた。
「……」
イーサンはジェナ(猫)のことをしげしげと見下ろしていた。
そして何を思ったのか、唐突にジェナのことをひょいと抱き上げた。
「にゃにゃ⁉(なに⁉」)」
「この林で悪さをすんじゃねぇぞー。どこかに女神の木が生えてるって言われてるんだからな。女神の木で爪とぎなんかしたら、祟られて大変なことになんぞー」
(現状、大変なことになってんのよ! ていうかその女神の木はすぐ後ろにあるわよ! ちょ……待って……木ー!)
ジェナは必死で抵抗するが、猫の力で人間の腕を振りほどけるはずもなく、なすすべもなくイーサンに連れ去られてしまうのであった。
*
イーサンの私室へと連行されたジェナは、柔らかなカーペットの上にちょんと座らされた。人間の姿でいるときはカーペットの感触など気にもかけなかったが、思わず背中をこすりつけたくなる心地よさだ。
「悪戯すんなよ、猫。大人しくしてたらミルクくらい飲ませてやる」
(ミルクより紅茶が欲しいわ。濃い目のダージリン)
ジェナが伝わるはずのない我儘を言ったとき、メイドが部屋に入ってきた。そのメイドはエリサという名前で、最近イーサンの専属メイドになったばかりだとジェナは記憶していた。
「イーサン様、少々お伝えしたいことが……あら、その猫はどうされたのですか?」
「拾った」
「拾ったって……まさか飼い猫にするつもりなのですか?」
「そう」
短く端的な肯定の言葉を聞いて、ジェナは驚愕した。
(私、イーサンに飼われるの? 婚約者なのに飼い猫になっちゃうの?)
信じがたい未来を思い、ふるふると震えるジェナの前で、イーサンとエリサの会話は続く。
「いきなり猫を飼うだなんて、いったいどういう心境の変化ですか? 動物はお好きではありませんよね?」
「まぁなー。でもこいつ、可愛いじゃん」
「……可愛いですか?」
「超、可愛い。黒い毛並みとか、気の強そうな目つきとか、ジェナにそっくり」
(……ん?)
ジェナは耳を疑った。意味のわからない単語の羅列を聞いた気がした。
「イーサン様が猫を飼いたいと言って、反対する者はいないと存じますが……ですがこの猫、すでに誰かに飼われているのでは? ほら、首輪をつけておりますし」
「んー……やっぱり誰かの飼い猫かぁ。一瞬、ジェナの飼い猫じゃねぇかなと思ったんだけど。ほらこの首輪、俺があいつにプレゼントしたチョーカーと同じデザインだし」
(ん、んん?)
ジェナはぱちぱちと猫目をまたたいた。
ジェナが首につけているチョーカーは、16歳の誕生日にブライトン侯爵夫人がプレゼントしてくれた物だ。そのときイーサンからのプレゼントはなく、「また一つババアに近づいたな、はっはっは」と意地の悪い祝いの言葉をもらっただけだったのだが。
「ジェナ様は猫がお好きでしたっけ?」
「いや、猫よりは犬派なはずだ。茶会でそんな話をしてるのを聞いたことがある」
「ではジェナ様のご家族の誰かが飼われている猫でしょうか」
「そうかなー、俺に譲ってくんねぇかなー。ジェナにそっくりだもんなー」
イーサンは一拍をおいて話題を変えた。
「……ところでエリサは何の用事だっけ?」
「そうそう、客間に宝石商がいらしておりますよ。例の物ができあがったらしく」
「お、本当に? すぐに行く」
ジェナの頭を一撫でしてイーサンは部屋を出て行ってしまった。
エリサも一緒にいなくなってしまったから、部屋に残されたのは猫の姿のジェナだけ。長い尻尾をゆらゆらと揺らしながら、今しがた聞いた会話をゆっくりと思い起こす。
(チョーカーがイーサンからのプレゼントですって? じゃあイーサンは自分が用意したプレゼントを、わざわざ母親の手を通して私に渡したってこと? なんでそんな面倒臭いことをするのよ……)
疑問はそれだけではない。
(私が猫よりも犬派だってこと、よく覚えてたわね。そんな話をいつしたのか、自分でも覚えていないのに)
そして最たる疑問である。
(というか、私に似て可愛いって何? 不細工の言い間違いじゃなくて? 私に似てるから譲ってほしいってどういうことなのよ……。猫になって耳がおかしくなっちゃったのかしら)
ジェナとイーサンが婚約してから、早10年の月日が経とうとしている。その間、イーサンから容姿を褒められるような言葉を言われた経験は一度もない。ジェナの容姿が、他の貴族男性からは比較的好評であるにも関わらず、だ。
「……にゃんっ」
ジェナは肉球を合わせて、すっぱりと考えることを止めた。この場でごちゃごちゃと考えたところでイーサンの気持ちがわかるでもなし。ならば猫になったことを一世一代のチャンスと考え、この姿でしかできないことをする方が有意義である。
(そうよ。私はイーサンの身辺調査をするために猫になりたいと願ったの。せっかく部屋に入り込んだことだし、浮気の証拠でも見つけて婚約なんて破棄してやるわ!)
ジェナは鼻息を荒くして立ち上がるのであった。
はじめにジェナが目をつけた場所は、窓際に置かれたベッドの下だ。他人がわざわざ覗き込むような場所ではないから、隠し物をするにはぴったりだと思ったのだ。
かくいうジェナも自室のベッドの下に、令嬢友達から貰ったちょっとエッチな読み物を隠している。この秘密を知る者は、ジェナの幼少期からの専属メイドであるルピシアだけだ。
(もしイーサンが浮気をしていて、その証拠を隠そうと思うなら、ここ以上の隠し場所はないはずだわ……!)
ジェナは元々が人間であることも忘れてベッドの下を這いずり回った。
そしてついに見つけた。枕元の下、一番わかりにくい場所にひっそりと置かれた謎の小箱を。
「にゃっにゃ!(やった!)」
ジェナは歓喜し、その謎の小箱を開けようとした。
しかし繊細な動きができない猫の手では、しっかりと閉められた小箱を開けることはできず、ふたをカリカリと引っ掻くだけだった。
(……ダメだわ、開けられない。でもこうして小箱を隠しているということは、イーサンにはやましい事があるということだわ。何か、他に浮気の証拠になるような物はないかしら……)
何も見つけてはいないのに、ジェナはもうイーサンが浮気をしていると信じて疑わなかった。
なぜならそう考えれば辻褄が合うからだ。イーサンがジェナに冷たい態度を取り続けているのは、他に好きな女性がいるから。多分、その女性は平民か何かの生まれで、結婚することはできないからとジェナの存在を隠れ蓑にしている。
ジェナと結婚した後はその女性をメイドとして雇い、人目を忍んでイチャイチャする予定なのだろう。到底見逃すことのできない悪しき計画である。
(イーサン、許さないわ! 絶対に浮気の証拠を見つけてやるんだから!)
意気込み直したジェナは、猫の身軽さを生かして机の上に飛び乗った。日頃、イーサンが書き物用として使っている机だ。
机の上には何枚かの紙が散らばっていて、ジェナはそのうちの1枚に目を留めた。
(これは……手紙のようね。どれどれ……『貴女と一緒に過ごす日を楽しみにしている。一つ大人になった貴女は妖精のように美しいだろうから』……って何よこれ! 私が誕生日会に呼んだら迷惑そうな顔をする癖に、どこぞの女の誕生日会にはこんな甘々な手紙を添えて出席するつもりなの!?)
ジェナは憤慨した。浮気の証拠を見つけた喜びも忘れ、怒り任せに手紙を破ろうとした。
――そのときだ。
「こーら、猫ちゃん。悪戯をしてはいけませんよ」
ジェナの目の前から、さっと手紙を取り去ったのはメイドのエリサだった。気がつかないうちに部屋へと戻ってきていたようだ。
「にゃにゅにやー! にゃーにやっ!(てがみをー! かえしてー!)」
ジェナは手紙を取り返そうとエリサの手に飛びついた。
が、エリサはまるで猫の言葉を理解しているようにジェナをなだめた。
「駄目です。この手紙はイーサン様が大切な方に送られる予定の手紙なんです。破いてしまっては困りますよ」
(大切な方ですってぇ! メイドも公認の浮気相手ということなの!?)
ついに怒りは限界を超え、ジェナがシャーッと全身の毛を逆立てたときだ。部屋の扉が開き、何食わぬ顔のイーサンが入ってきた。
「エリサ、どうした?」
「猫ちゃんが手紙を破ろうとしていたので、叱っていたところです」
「手紙?」
「イーサン様が、ジェナ様のためにしたためた手紙ですよ。誕生日会へのお誘いをいただいて、そのお返事にと書かれていた」
「あー……」
(ジェナ! イーサンの浮気相手の名前はジェナというのね――ん?)
ジェナははてと首をかしげた。ジェナの名前はジェナ、そしてイーサンの浮気相手の名前もジェナ。そんな都合のいい偶然がはたしてあるものだろうか?
困惑するジェナの目の前で、エリサの説教が始まった。
「イーサン様。私は何度も申し上げておりますが、手紙は渡さないと相手に届きません。いくら心を込めて手紙をしたためても、ジェナ様に渡さなければ何の意味もありませんよ」
「……」
「誕生日プレゼントだってそうです。毎年気合いの入ったプレゼントを用意するくせに、一度も渡せたことがないではありませんか。……ああ、昨年は母君にお願いして、代わりに渡してもらったのでしたね。進歩……というべきかどうかは判断しかねますが」
イーサンは拳を握りしめてエリサの説教に耳を澄ませていたが、ここまでくると声を荒げた。
「うううるせぇぇ! 俺のこのひねくれた性格を知ってんだろうが! そう簡単に手紙やプレゼントが渡せてたまるか!」
エリサはしれっと答えた。
「世の大半の男性は、そうして意中の女性と愛を育んでいらっしゃるのですけれどね」
「うぐっ……」
「いい加減、素直におなりくださいませ。イーサン様がジェナ様にベタ惚れしていることは、ブライトン家の者ならば誰でも知っていることです。そもそも婚約を申し込まれたのだって、イーサン様がジェナ様に一目惚れなさったからではありませんか」
(……え、そうなの?)
「今までにジェナ様からもらった手紙や、誕生日プレゼントなどを、すべて大切に取ってあることを私は存じておりますよ。ほら、あのベッドの下に隠した小箱……あの箱の中身をジェナ様がご覧になったら何とおっしゃることやら」
エリサの視線を追って、ジェナはベッドの方を見た。ベッドの下に隠された小箱ならさっき見つけた。てっきり浮気の証拠が隠されていると思い、猫の手で懸命に開けようとした小箱だ。
うつむき、黙り込むイーサンに、エリサはとどめの一言を刺す。
「1ヶ月後、ジェナ様の誕生日会が最後のチャンスかもしれませんよ? 私が見る限り、ジェナ様はイーサン様の態度にかなり腹を立てていらっしゃいます。先ほど宝石商から受け取ったプレゼントをご自分の手でしっかりと渡し、『愛してる』の一言くらい囁かないと、誕生日会の最後には婚約破棄を言い渡されてしまうかもしれませんね?」
「っ……」
イーサンの答えを聞くことなく、エリサは部屋を出て行った。
また2人きりとなってしまった部屋の中で、ジェナはどこか夢見心地で考えた。
(イーサンが私にベタ惚れ……? 今まで渡した手紙やプレゼントを全部とってある……? いやいやいや、そんな馬鹿な……)
ジェナの脳裏に、イーサンと過ごした時間がまざまざと思い出された。
茶会で顔を合わせるたびに「俺の前に立つんじゃねぇ」と暴言を吐かれ、ドレスや髪飾りを揶揄われた回数は数知れず。手紙を送れば返事はこず、はるばる自宅まで足を運べば迷惑そうな顔をされ、社交辞令で渡したプレゼントにお礼を言われたこともない。
もしもそれらの態度が愛情の裏返しだとしたら、ちょっと裏返りすぎではないだろうか。
「にゃにゃーん……にゃっ(イーサン……わっ)」
混乱して思わずイーサンの名前を呼べば、思いがけず近いところにイーサンの顔があった。
いつもジェナを小馬鹿にしたような表情を浮かべているイーサンが、今ばかりは真剣な面持ちでジェナの顔を覗き込んでいた。
(な、何? ひょっとして猫になったことがバレた……?)
戸惑うジェナを見つめながら、イーサンは静かに口を開いた。
「ジェナ……あ、あい、愛…………って言えるかぁッ!」
バァンッ、と思い切り机を叩き、イーサンはベッドにダイブした。両手で髪を掻きむしりながら、ベッドの上をゴロゴロと転げ回る。
「猫相手でも言えねぇのに、本人相手に言えるわけがあるか! 今まで嫌味ばっか言ってた俺が、どの面ひっさげて『愛してる』なんて言うんだボケッ!」
絶叫するイーサンの上着のポケットから、何やら小さな物がころりと落ちた。興味を引かれたジェナがそばに寄って見てみると、それは高級感のあるリングケースだった。転がり落ちた拍子にケースのふたが開き、中身がちらりと見えてしまっている。
指輪。ついている宝石はブラックダイヤモンド――ジェナの瞳と同じ色だ。
「……にゃ」
何だかいろんなことが、すとんと胸に落ちてしまった。
「『愛してる』は無理……『愛してる』は無理だっつの……でも婚約破棄はもっと無理……ジェナと離れるくらいなら死ぬ……」
ぶつぶつとつぶやくイーサンに、ジェナは背中を向けた。そしてエリサが閉め忘れたのであろう扉の隙間から、そっと部屋を抜け出した。
気がつけば、ジェナはまた林の中にきていた。目の前には女神の木がぽつねんと佇んでいる。
ジェナはその木に背中をつけて、「どうか人間の姿に戻してほしい」と願った。木はすぐに願いを叶えてくれた。
人間の姿へと戻ったジェナは、女神の木に背中を預けたまま長いことその場所に佇んでいた。
*
1ヶ月後、アシュリー邸。
今日はジェナの17歳の誕生日会が盛大に開催される。屋敷の園庭にはいくつものテーブルが置かれ、シェフが腕によりをかけた料理がずらりと並んでいる。
園庭にはアシュリー家の人々と、婚約関係にあるブライトン家の人々、そして両家とつきあいのある貴族の家の人々が、談笑をしながら開宴のときを待っていた。
屋敷の一室で身支度を終えたジェナは、園庭に向かうために石畳を歩いていた。伯爵家であるアシュリー邸の外庭は広く、屋敷から誕生日会の会場である園庭に着くまでには、石畳の道をいくらか歩かなければならない。
石畳の両脇にはよく手入れされた花壇があり、瑞々しく色とりどりの花を咲かせている。今日は天気がいいから、太陽の光を浴びた花たちの美しく気持ちよさそうなこと。
園庭まで半分ほどの道のりを歩いたとき、ジェナの目の前にイーサンが姿を現した。黒い燕尾服を身につけたイーサンは、ジェナの行く手を塞ぐと嫌味たらしく口角を上げた。
「よぉ、また一つババアに近づいちまったな」
いつもどおり軽口を叩くイーサンを、ジェナは無言で見つめた。
1ヶ月と少し前に、ジェナがイーサンに宛てた誕生日会の招待状。その手紙にイーサンから返事が届いたのは、誕生日会の3日前のことだった。
仰々しい便箋に書かれた言葉は『行く』のただ一言。時候の挨拶も、祝いの言葉も、何も書かれていなかった。
ジェナの沈黙を敵対と捉えたのか、イーサンは表情を変えずに悪口を重ねた。
「おい、聞いてんのか? 耳の方が先にお年を召しちまったか?」
いつものジェナならば、イーサンの悪口に躍起になってつっかかったところ。しかし今日は挑発にのることなく、落ち着いた口調でイーサンに話しかけた。
「イーサン、私ね。貴方の態度にはいいかげん愛想が尽きたのよ」
「は?」
「顔を合わせれば悪口ばかり、手紙の返事はろくに返さない。こんな関係のままじゃ、結婚したってうまくやっていけるわけがないわ」
状況が飲み込めず硬直するイーサンに、ジェナは冷たい眼差しを向けた。
「だから今日、お父様にお願いして貴方との婚約は破棄してもらうわ」
「婚約破棄……え?」
イーサンは見るからに動揺した。少し前までの嫌味な表情は見る影もなく、ぽっかりと口を開けてジェナの顔を見返している。
いい気味ね、とジェナは顎先を上げた。
「……でもね。最後に一度だけ、貴方にチャンスをあげようと思うの」
イーサンは縋るようにジェナを見た。まるで親猫に捨てられた子猫のような表情だ。そんな情けない顔のイーサンを見るのは、出会ってから初めてのことだった。
ジェナは優雅な仕草で左手を持ち上げた。
その手をイーサンの顔の前に差し出して、謳うような口調で言った。
「私の足下に跪いて、指輪をはめてちょうだい。言うとおりにできたら婚約破棄は考え直してあげるわ」
「なっ……何で指輪のこと……っ」
「ああ、そうだわ。指輪をはめるとき、『愛』から始まる言葉を口にするのも忘れないでね?」
イーサンの顔からはさっと血の気が引いた。そして次の瞬間には、みるみるうちに真っ赤になった。言葉をなくし、はくはくと唇を動かす様は哀れで、そしてちょっぴり可愛らしい。
ジェナは満面の笑顔で言葉を続けた。
「イーサン、私は全部知っているのよ。にゃー」
その後、イーサンがジェナの足下に跪いたのかどうか。
隠し持っていた指輪をジェナの指にはめたのかどうか。
そして『愛』から始まる甘い言葉を口にしたのかどうか。
それは2人だけの秘密のおはなし。 fin.
最後までお読みいただきありがとうございました!
たくましく生きるつよつよ令嬢…いいよね…ひねくれ男子も好き!
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