ポステアのこと
「お休みなさい」
ポステアの、淀みない声がする。
もっと聞いていたいのに。
もう、ダメみたいだ。
気がついた時には、ポステアといた。
彼女はいつも当たり前にいるから、
それが当たり前と思っていた。
何の、疑いもなく。
家中にあるたくさんの本。
殆どは、何が書いてあるかなんて、さっぱりわからないけれど、ぼくの背が届く位置に並べられた、絵がたくさんある本。
かんたんな字で書かれていて、ぼくでも読める。
にじ。
空にかかる帯みたいだ!
見てみたいなあ。
へえ、お日様にみずをかければ見られるんだ。
おみず。
つかっても、いいかな?
とてもだいじだって、ポステアがいってたけど。
「虹、ですね」
「きれいでしょ!」
「……そうですね。綺麗ですね」
水の滴は、ポステアの髪にもかかったけど、ちっとも気にしていなくて。
髪にかかった、水の滴がきらきらと輝いて。
ぼくは、虹よりもポステアが綺麗だと思ったんだ。
その日の夜だったと思う。
「おやすみなさい」
と、いつものようにポステアはぼくを寝かしつけると明かりを消して、出ていった。
寝付けなくて、星空を眺めていたんだ。
ものすごい早さで、走り抜けていくポステアは、あっという間に闇に溶けて、その先から空へ流れる光を見たんだ。
「きれ……」
細く流れる光に、なんだか涙が溢れて。
「あした、ポステアにおしえてあげなきゃ」
ポステアは、どこにも行ってない。
ぼくの側にいる。
そう念じて、布団を被った。
いつもと変わらない毎日。
いつもと変わらないポステア。
ずっと、変わらないポステア。
いつも、サボっていた牛の乳搾り。
だってね、知ってるんだ。
これ、本物じゃないよね。
なんて腑抜けた気持ちで取り組んでいたからか、牛が暴れだした。
ぼくのことはポステアが助けてくれたけど、腕から血が出てる!
「きゃー!たいへんなの!いたい?だいじょうぶ?」
ぼく知ってるよ。
おくすり塗って、包帯するんだ。
でも、ぼくは上手に包帯できなくて。
ポステアは、大丈夫だって、笑っていて。
ぼくは、強くなりたいと思ったんだ。
「治らないね」
と、いうより、真新しい傷。
もう何回、こうして腕につく新しい傷を見ただろう。
きみが、きみでないのは解っているけど、
その事は、きっと聞いちゃいけないんだろう?
「そうですね。治らないですね」
だって、そう言って傷を見るきみは、とても穏やかな顔をしているのだもの。
明日、どこからかお嫁さんが来る、と言われた。
急な話だ。
ポステアが、お嫁さんとか、子作りのことは教えてくれたけど。
今までずっと、二人だったのに。
また、ポステアが、どこかに行く準備をしている。
「ねえ、ポステア、どこに行くの?」
何度ともなく、繰り返した言葉。
決まってポステアは、いつも無言なんだ。
まるで、別人みたいに。
なのに今日は
「どこにも行きませんよ。ここにいます」
と、返ってきた。
ポステアの顔に、優しい笑顔。
きっと、何かが終ったんだ。
「知ってるよ。何処か行くんだよね。だからさ、帰ってきたら、ぼくのお嫁さんになってよ」
多分、それはない。
確信。
だからこそ、言ってみた。
ポステアは、ちょっと困った顔をして、
それから、ぱあっと綺麗な笑顔を見せて
「そうですね。もし帰ってきたらお嫁さんにしてください」
そう言った。
何処かに行くことを、隠さないポステア。
笑顔のポステア。
ぼくは屋根に登って星空を見上げた。
下から、細く走る光。
怪我をするポステアにはもう会えない。
ぼくの目から、壊れたように涙が溢れた。
「傷、治ったんだね」
次の日。
ぼくのお嫁さんが来る日。
白い、綺麗な腕を見てぼくが言った。
ポステアは困っている。
ポステアは何も答えない。
ああ、違うポステアなんだ、と思った。
お嫁さんのドウシィとは筒がなく暮らした。
優しい日々。
でもドウシィは、きっと一緒について来たプレマルジナの方が大事なのは感じた。
それは、多分ぼくがポステアを大事なのに似ていた。
変わらない毎日。
変わらなかった毎日。
ドウシィとの間にできた子供は、かれが5歳になるときに、どこかに連れていかれた。
ぼくもドウシィも、どこに連れていかれたのかはわからないけれど、きっと、ここに似た何処かなのだろうと思った。
そうして、ドウシィはプレマルジナと、ここを出ていった。
子供を生んで役目は果たしたから、と言っていた。
そうか、役目なんだ、と思った。
そこからはまた、ポステアと二人。
変わらない毎日。
傷はもうないけど。
ポステアはポステアだ。
あれから何度か、出掛ける前のポステアに
「戻ってきたら、ぼくのお嫁さんになって」
と、言ったけれど、言葉なく微笑むだけで
次の日には、当たり前にここにいた。
届かなかった言葉。
届けたかった言葉。
届かない、言葉。
いつの間にか、ぼくはベッドから起き上がることもできなくなっていた。
もう、殆ど目も見えず、耳も聞こえない。
なのに、ポステアの何一つ変わらぬ顔は、常に側にあった。
「お休みなさい」
いつもの、出掛ける前の一言。
でも、今日出掛けるのはぼくだ。
声にならない声。
返したいのに、もう動かせない。
きみが、なんだっかなんてどうでもいいんだ。
きみが、幸せであることを心から祈っているよ。
ぼくの手に、滴が落ちた気がした。